古典ライブラリー

万葉集 巻第三 438〜440番

愛しき

大伴旅人(おおとものたびと)

いとしい妻が枕にして寝た私の腕を、ほかに枕にする人などいるだろうか。都へ帰る時は来たが、誰の袂を枕にすればよいのか。大宰府で妻を亡くした大伴旅人の挽歌三首。

夜の館で、傍らの空いた寝床と伸ばした腕を見つめ、亡き妻をしのぶ大伴旅人
夜の館で、傍らの空いた寝床と伸ばした腕を見つめ、亡き妻をしのぶ大伴旅人

題詞神龜五年戊辰、太宰帥大伴卿、故人を思ひ戀ふる歌三首

  1. 1愛うつく愛うつくうつく愛438
  2. 2人ひと人ひとひとののの纒ま纒ままきききててて人纒而師
  3. 3敷しき敷しきしきののの敷細之
  4. 4吾わ吾わわががが手た手たたををを吾手枕乎
  5. 5纒ま纒ままくくく人ひと人ひとひとあらあらあらめめめ纒人將有哉
  6. 6還かへ還かへかえるるるべくべくべく應還439
  7. 7時とき時ときときははは成な成ななりりりけりけりけり時者成來
  8. 8京師みやこ京師みやこみやこにににててて京師爾而
  9. 9誰た誰たたががが袂たもと袂たもとたもとをををかかか誰手本乎可
  10. 10吾わ吾わわががが枕まくら枕まくらまくらかかかむむん吾將枕
  11. 11京師みやこ京師みやこみやこなるなるなる在京師440
  12. 12荒あ荒ああれれれたるたるたる家いへ家いへいえににに荒有家爾
  13. 13獨ひと獨ひとひとりりり宿ね宿ねねばばば一宿者
  14. 14旅たび旅たびたびににに益まさ益まさまさりりりててて益旅而
  15. 15苦くる苦くるくるしかるしかるしかるべしべしべし可辛苦

引用の仕方

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現代語訳

〔438〕いとしい人が枕にして寝た、(敷妙の)私の手枕を、ほかに枕にする人などいるだろうか(いはしない)。

〔439〕都へ帰るべき時は来た。けれど都で、誰の袂を私は枕にして寝ればよいのだろう。

〔440〕都の荒れた家にひとりで寝たら、旅にいるよりもまさって、苦しいことだろう。

意訳

妻はいつも私の腕を枕にして眠っていた。その妻はもういない。この腕を枕にする人は、もう二度と現れないだろう。旅人は、妻を失った悲しみを、自分の腕という身近なものに託して詠む。ほかの女性を迎えることなど考えられないという、亡き妻への変わらない愛情が、短い言葉の中にこめられている。

語釈・文法注

愛しき(うつくしき)
いとしい、かわいい。上代の「うつくし」は、肉親や恋人への愛情を表す。
纒きてし
「纒く」は、腕などを枕にする意。「て」は完了の助動詞「つ」、「し」は過去の助動詞「き」の連体形。枕にして寝た。
敷妙(しきたへ)の
「枕」「衣」「袖」などにかかる枕詞。寝床に敷く布の意から。
手枕(たまくら)
腕を枕にすること。男女が共寝するときの、相手の腕の枕。
あらめや
推量の助動詞「む」の已然形「め」に、反語の「や」が付いた形。いるだろうか、いやいない。

文法・本文

愛しき 人の纒きてし
原文は「愛」一字を「うつくしき」と訓み、第一句とする。
左注
歌の後に「右の一首は、別れ去りて數旬を經て作れる歌」とあり、妻の死から数十日後に詠んだ歌であることがわかる。

和歌

作者
大伴旅人(665–731)
大伴安麻呂の子で、大伴家持の父。神亀年間の末に大宰帥として九州の大宰府に赴任し、山上憶良らと「筑紫歌壇」と呼ばれる文化的な交流を生んだ。赴任してまもなく、同行した妻の大伴郎女を亡くした。
出典
『万葉集』巻第三・挽歌・438〜440番
歌体
短歌(五七五七七)
時期
第3期(710〜733年(平城京遷都〜山上憶良の没年ごろ))
状況
神亀5年(728)、大宰帥として大宰府にいた大伴旅人が、亡くなった妻の大伴郎女を思って詠んだ三首。左注によれば、438番は妻の死から数十日後、439・440番は都へ帰る日が近づいたときの作。

修辞

枕詞
「敷妙の」が「手枕」にかかる。
反語
「纒く人あらめや」と反語で結び、亡き妻のほかに愛する人はいないという思いを強く表す。

解説

大伴旅人は、六十歳を過ぎて大宰帥に任じられ、妻の大伴郎女を伴って九州へ下った。しかし妻は、赴任してまもなく、遠い筑紫の地で亡くなった。都から弔問の使者が訪れたことは巻第五に記されており、旅人はそこで「世の中は空しきものと知る時しいよよますます悲しかりけり」(793番)とも詠んでいる。

この歌は、妻の死から数十日後に詠まれた三首のうちの最初の一首である。いつも妻が枕にしていた自分の腕という、ごく身近で具体的なものを取り上げて、失われたものの大きさを表している。旅人はこのあとも、任を終えて都へ帰る途中や、都の家に戻ってからも、亡き妻をしのぶ歌を詠み続けた(446〜453番)。

関連

出典

底本
佐佐木信綱編『新訓万葉集』上巻 岩波文庫、昭和2年(1927)、120頁(コマ64)。国立国会図書館デジタルコレクション
原文
佐佐木信綱編『白文万葉集』上巻 岩波書店、昭和24年(1949)、124頁(コマ68)。万葉仮名の原文。国立国会図書館デジタルコレクション
校訂・訳・注
古典ライブラリー編集部
更新日