万葉集 巻第五 793番
世の中は 空しきものと
この世は空しいものだと知った今、ますます悲しみがこみあげてくる。妻を亡くし、さらに悲しい知らせを受けた大伴旅人が、弔問に答えた歌。

題詞太宰帥大伴卿、凶問に報ふる歌一首
現代語訳
世の中は空しいものだと思い知ったとき、いよいよますます悲しいことだ。
意訳
仏教では、この世のすべてはうつろいゆく空しいものだと説く。旅人はその教えを知識としては知っていた。しかし、遠い九州の地で妻を失い、そのうえ重ねて悲しい知らせを受けたとき、その「空しさ」を身をもって思い知らされる。教えによって悲しみが癒やされるどころか、かえって悲しみは深まっていく。理屈では割り切れない人間の悲しみを、飾らない言葉で表している。
語釈・文法注
- 空しき
- はかない、実体がない。仏教の「空」「無常」の考えをふまえる。
- 知る時し
- 「し」は強意の副助詞。思い知った、まさにその時。
- いよよ
- 「いよいよ」と同じ。ますます。「いよよますます」と同じ意味の語を重ねて強める。
文法・本文
- 悲しかりけり
- 「けり」は、今まで気づかなかったことに気づいた詠嘆を表す。
- 原文の表記
- 原文は一字一音の万葉仮名だけで書かれている。巻第五には、このように仮名書きで記した歌が多い。
- 漢文の序
- 歌の前に「禍故重疊し、凶問累に集る」で始まる漢文の書簡がある。不幸が重なり、悲しい知らせが続けて届いたことを述べる。
和歌
- 作者
- 大伴旅人(665–731)
大伴安麻呂の子で、大伴家持の父。神亀年間の末に大宰帥として九州の大宰府に赴任し、山上憶良らと「筑紫歌壇」と呼ばれる文化的な交流を生んだ。赴任してまもなく、同行した妻の大伴郎女を亡くした。 - 出典
- 『万葉集』巻第五・雑歌・793番
- 歌体
- 短歌(五七五七七)
- 時期
- 第3期(710〜733年(平城京遷都〜山上憶良の没年ごろ))
- 状況
- 神亀5年(728)6月23日、大宰帥大伴旅人が、都からの弔問の手紙に答えたときの歌。漢文の書簡に添えられている。妻の大伴郎女を大宰府で亡くした直後のことで、ほかにも身内の不幸が重なっていたとみられる。
修辞
- 畳語
- 「いよよますます」と、同じ意味の語を重ねて、深まる悲しみを強調する。
解説
巻第五は、大宰府にいた大伴旅人と山上憶良の周辺の歌を、年月の順に並べた巻で、この歌はその巻頭に置かれている。歌の前には漢文の書簡があり、「禍故重疊し、凶問累に集る。永く崩心の悲しびを懐き、獨り斷腸の泣を流す」と、相次ぐ不幸に打ちのめされた心境を記している。
「世の中は空しきものと」という句は、仏典の「世間虚仮(世の中はいつわりのものである)」という考えにもとづくとされる。しかし旅人は、無常を悟って心を静めるのではなく、むしろ悟ったことでいっそう悲しみが深まると詠む。教えでは割り切れない人間の情を率直に詠んだこの歌は、万葉集の中でも、無常を詠んだ歌の代表としてよく知られている。この歌のあとには、山上憶良が旅人の妻の死を悼んで作った「日本挽歌」(794〜799番)が続いている。
関連
出典
- 底本
- 佐佐木信綱編『新訓万葉集』上巻 岩波文庫、昭和2年(1927)、189頁(コマ98)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 原文
- 佐佐木信綱編『白文万葉集』上巻 岩波書店、昭和24年(1949)、201頁(コマ106)。万葉仮名の原文。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日