万葉集 巻第三 338〜350番
驗なき
くよくよと甲斐のない物思いをするくらいなら、一杯の濁り酒を飲むほうがよいらしい。竹林の七賢も欲しがったのは酒、賢ぶって酒を飲まない人は猿に似ている、この世が楽しければ来世は虫にでも鳥にでもなろう。大伴旅人の「讃酒歌」十三首。

題詞太宰帥大伴卿、酒を讃むる歌十三首
- 1なきなきなき驗無338
- 2物物ものををを思思おもははわずずず物乎不念者
- 3一一ひとののの一坏乃
- 4濁濁にごれれれるるるををを濁酒乎
- 5飮飮のむむむべくべくべく有有あ可飮有良師
- 6酒酒さけののの名名なををを酒名乎339
- 7ととと負負おおせせせししし聖跡負師
- 8古古いにしえののの古昔
- 9大大おおききき聖聖ひじりののの大聖之
- 10言言ことのののよろしさよろしさよろしさ言乃宜左
- 11いにしへいにしへいにしえののの古之340
- 12七七ななののの賢賢さかしきしきしき七賢
- 13人人ひと等等どもももも人等毛
- 14欲欲ほりりりせせせしししものものものははは欲爲物者
- 15酒酒さけにににししし有有あるるるらしらしらし酒西有良師
- 16賢賢さかしみしみしみととと賢跡341
- 17物物ものいふいふいうよりよりよりははは物言從者
- 18酒酒さけ飮飮のみみみててて酒飮而
- 19醉醉えい哭哭なきするするするししし醉哭爲師
- 20まさりまさりまさりたるたるたるらしらしらし益有良之
- 21言言いははわむむんすべすべすべ將言爲便342
- 22爲爲せむむんすべすべすべ知知しらららににに將爲便不知
- 23極極きわまりりりててて極
- 24貴貴とうときききものものものははは貴物者
- 25酒酒さけにににししし有有あるるるらしらしらし酒西有良之
- 26なかなかなかなかなかなかににに中々二343
- 27人人ひととととあらあらあらずずずははは人跡不有者
- 28酒酒さか壺壺つぼににに酒壺二
- 29なりなりなりてててしがしがしがももも成而師鴨
- 30酒酒さけににに染染しみみみなむなむなん酒二染嘗
- 31あなあなあな醜醜みにく痛醜344
- 32賢賢さかしらしらしらをををすすすととと賢良乎爲跡
- 33酒酒さけ飮飮のまままぬぬぬ酒不飮
- 34人人ひとをををよくよくよく見見みれれればばば人乎熟見者
- 35猿猿さるにににかもかもかも似似にるるる猿二鴨似
- 36價價あたい無無なききき價無345
- 37寶寶たからととといふいふいうともともとも寶跡言十方
- 38一一ひと坏坏つきののの一坏乃
- 39濁濁にごれれれるるる酒酒さけににに濁酒爾
- 40豈豈あにまさまさまさめめめやもやもやも豈益目八方
- 41夜夜よる光光ひかるるる夜光346
- 42玉玉たまととといふいふいうともともとも玉跡言十方
- 43酒酒さけ飮飮のみみみててて酒飮而
- 44情情こころををを遣遣やるるるににに情乎遣爾
- 45あにあにあに若若しかかかめめめやもやもやも豈若目八方
- 46世世よのののなかなかなかののの世間之347
- 47遊遊あそびびびののの道道みちににに遊道爾
- 48さぶしくさぶしくさぶしくははは冷者
- 49醉醉えい哭哭なきするするするににに醉泣爲爾
- 50有有ありりりぬぬぬべべべからからからししし可有良師
- 51今今いまののの代代よにににししし今代爾之348
- 52樂樂たぬしくしくしくあらあらあらばばば樂有者
- 53來來こむむむ生生よにににははは來生者
- 54蟲蟲むしににに鳥鳥とりにににももも蟲爾鳥爾毛
- 55吾吾われはははなりなりなりなむなむなん吾羽成奈武
- 56生生いける者者もの生者349
- 57遂遂ついにににももも死死しぬるぬるぬる遂毛死
- 58ものものものにににあれあれあればばば物爾有者
- 59いまいまいまあるあるある間間ほどははは今生在間者
- 60樂樂たぬしくしくしくをををあらあらあらななな樂乎有名
- 61默默も然然だ居居おりりりててて默然居而350
- 62賢賢さかしらしらしらするするするははは賢良爲者
- 63酒酒さけ飮飮のみみみててて飮酒而
- 64醉醉えい泣泣なきするするするににに醉泣爲爾
- 65なほなほなお若若しかかかずずずけりけりけり尙不如來
現代語訳
〔338〕甲斐のない物思いをするくらいなら、一杯の濁り酒を飲むほうがよいらしい。
〔339〕酒の名を「聖」とつけた昔の大聖人の言葉の、なんとよいことよ。
〔340〕昔の竹林の七賢人たちも、欲しがったものは酒であったらしい。
〔341〕賢ぶってものを言うよりは、酒を飲んで酔い泣きするほうがまさっているらしい。
〔342〕言いようもなく、どうしようもないほど、この上なく貴いものは酒であるらしい。
〔343〕なまじ人間でいるよりは、酒壺になりたいものだ。そうすれば酒にしみこんでいられよう。
〔344〕ああ見苦しい。賢ぶって酒を飲まない人をよく見ると、猿に似ていることだ。
〔345〕値のつけようもない宝といっても、一杯の濁り酒にどうしてまさろうか。
〔346〕夜光る玉といっても、酒を飲んで憂さを晴らすのに、どうして及ぼうか。
〔347〕世の中の遊びの道で心さびしいときは、酔い泣きするのがよいらしい。
〔348〕この世で楽しくいられるなら、来世には虫にでも鳥にでも、私はなってしまおう。
〔349〕生きている者はいつかは死ぬものであるから、この世にいる間は楽しく過ごしたいものだ。
〔350〕黙りこんで賢ぶっているのは、酒を飲んで酔い泣きするのに、やはり及ばないことだ。
意訳
いくら思い悩んでも、どうにもならないことがある。そんな物思いにふけるより、一杯の濁り酒を飲んで心を晴らすほうがよい。旅人は、酒を「聖」と呼んだ中国の故事や、酒を愛した竹林の七賢を引き合いに出し、賢ぶって酒を飲まない人を猿にたとえ、この世が楽しければ来世は虫や鳥になってもかまわないと、仏教や儒教の教えを茶化すような大胆な言葉を連ねる。都から遠い大宰府に赴任し、まもなく妻を亡くした旅人の、つらい境遇が背景にあると考えられる。酒をほめたたえる軽妙な歌いぶりの裏に、どうにもならない悲しみや人生へのあきらめがにじんでいる。
語釈・文法注
- 驗(しるし)なき
- 効き目がない、甲斐がない。
- 思はずは
- 「ずは」は、…しないで、…するよりは、の意。物思いをするよりは。
- 一坏(ひとつき)
- 一杯。「坏」は飲食物を盛る器。
- 濁れる酒
- もろみを漉していない、白く濁った酒。どぶろく。中国の詩文で、濁り酒は隠者や賢人の飲む酒とされた。
- 飮むべく有らし
- 「べく」は当然・適当の助動詞「べし」の連用形、「らし」は推定の助動詞。飲むのがよいらしい。
- 聖(ひじり)
- 中国の魏の時代、禁酒令が出たとき、人々は清酒を「聖人」、濁り酒を「賢人」と隠語で呼んだという故事による。
文法・本文
- 物を思はずは
- 打消の助動詞「ず」に係助詞「は」が付いた「ずは」は、上代では「…しないで」「…するよりは」の意を表す。
- 七の賢しき人等
- 中国の晋の時代、竹林に集まって酒を飲み清談にふけった七人の隠者、竹林の七賢。
- 夜光る玉
- 暗夜にも光るという宝玉。中国の故事に見える。
- 來む生
- 来世。仏教の輪廻の考えによる。
和歌
- 作者
- 大伴旅人(665–731)
大伴安麻呂の子で、大伴家持の父。中納言・大納言を務めた貴族。神亀年間の末に大宰帥として九州の大宰府に赴任し、山上憶良らと「筑紫歌壇」と呼ばれる文化的な交流を生んだ。漢詩文の教養が深く、酒や梅を題材にした風流な歌を残した。 - 出典
- 『万葉集』巻第三・雑歌・338〜350番
- 歌体
- 短歌(五七五七七)
- 時期
- 第3期(710〜733年(平城京遷都〜山上憶良の没年ごろ))
- 状況
- 大宰帥として大宰府にいた大伴旅人が詠んだ、酒をほめたたえる十三首の歌。神亀5年(728)から天平2年(730)ごろの作とみられる。
修辞
- 比較
- 「物を思はずは」「人とあらずは」など、物思いや人であることと酒とを比べ、酒をとる。
- 典拠
- 中国の故事(酒を聖人・賢人と呼んだ話、竹林の七賢、夜光の玉)を多く用いる。
解説
大伴旅人は、六十歳を過ぎてから大宰帥として九州の大宰府に赴任した。この地で旅人は山上憶良らと交わり、梅花の宴(元号「令和」の典拠となった巻第五の序がある)を催すなど、のちに「筑紫歌壇」と呼ばれる文化の花を咲かせた。一方で、赴任してまもなく妻の大伴郎女を亡くすという悲しみにも見舞われている。
「讃酒歌」十三首は、中国の竹林の七賢など、酒を愛した古人を引き合いに出しながら、酒の徳をほめたたえる歌群である。「賢しみと物いふよりは酒飲みて酔ひ泣きするしまさりたるらし」(341番)、「今の代にし楽しくあらば来む生には蟲に鳥にも吾はなりなむ」(348番)など、仏教や儒教の教えを茶化すような大胆な歌も含まれる。直前の337番で山上憶良が宴を退出する歌を詠んでおり、宴の座興として歌われたとする見方もある。
関連
出典
- 底本
- 佐佐木信綱編『新訓万葉集』上巻 岩波文庫、昭和2年(1927)、106頁(コマ57)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 原文
- 佐佐木信綱編『白文万葉集』上巻 岩波書店、昭和24年(1949)、107頁(コマ59)。万葉仮名の原文。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日