万葉集 巻第十九 4290〜4291番
春の野に
春の野に霞がたなびいてもの悲しい夕暮れ、うぐいすが鳴く。わが家の竹林を吹く風の音がかすかに聞こえる夕べ。大伴家持の「春愁三首」のうちの二首。

題詞二十三日、興に依りて作れる歌二首
現代語訳
春の野に霞がたなびいて、なんとなくもの悲しい。この夕暮れの光の中で、うぐいすが鳴いていることよ。
わが家のわずかばかりの竹の群れを吹く風の音が、かすかに聞こえるこの夕べであることよ。
意訳
春は明るく喜ばしい季節のはずなのに、霞にけむる夕暮れの野を見ていると、理由もなく心が沈んでいく。うぐいすの声さえ、そのもの悲しさを深めるように響く。
二首目では、視線を自分の家の庭に移す。わずかな竹の葉をそよがせる風の音が、かすかに聞こえるほどの静けさ。その小さな音に耳をすます孤独な心が、春の夕べの空気とともに伝わってくる。はっきりした原因のない、もの憂い感情そのものを歌った点で、万葉集の中でも新しい境地を開いた歌とされる。
語釈・文法注
- たなびき
- 霞や雲が横に長く引くようにかかる。
- うらがなし
- 心の中でなんとなく悲しい。「うら」は心の意。
- 夕かげ
- 夕方の光、夕日の光。
- やど
- 家、住まい。またその庭。
- いささ
- わずかな、ささやかな。
- かそけき
- かすかな。
文法・本文
- うぐひす鳴くも
- 「も」は詠嘆の終助詞。
- 原文「許能暮影爾」
- 「夕かげ」を「暮影」と、意味をとって漢字で書く。二首目の「この夕かも」は「許能由布敝可母」と仮名で書いている。
和歌
- 作者
- 大伴家持(718?–785)
大伴旅人の子。越中守・少納言・兵部少輔などを歴任し、晩年は中納言に至った。万葉集に最も多くの歌を残した歌人で、その編纂にも深く関わったとされる。繊細で感傷的な歌風は、万葉集の第4期を代表する。百人一首の第6首の作者でもある。 - 出典
- 『万葉集』巻第十九・部立なし・4290〜4291番
- 歌体
- 短歌(五七五七七)
- 時期
- 第4期(733〜759年(〜万葉集の最後の歌))
- 状況
- 天平勝宝5年(753)2月23日、都にいた大伴家持が「興に依りて」、すなわち心の動くままに詠んだ二首。2月25日の4292番とあわせて「春愁三首」「絶唱三首」と呼ばれる。
修辞
- 情景と心情の融合
- 霞・夕日・うぐいす・竹の風の音など、春の夕べの情景そのものに、もの悲しい心を重ねている。
解説
大伴家持は、越中守としての五年間を終えて都に戻ったのち、少納言として宮廷に仕えていた。このころ、大伴氏は藤原氏の勢力に押されて立場が弱まりつつあり、家持の心にも不安や孤独があったと考えられる。
この二首と4292番の「うらうらに」の三首は、家持の歌の中でも最もすぐれたものとして「春愁三首」と呼ばれる。万葉集の歌は、人の死や恋の別れなど、はっきりした出来事によって生まれる感情を詠むものが多い。それに対してこれらの歌は、原因のはっきりしない、春のもの憂い気分そのものを繊細にとらえている。のちの平安時代の和歌に通じる、内面的な表現の先がけといわれる。
関連
出典
- 底本
- 佐佐木信綱編『新訓万葉集』下巻 岩波文庫、昭和2年(1927)、706頁(コマ146)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 原文
- 佐佐木信綱編『白文万葉集』下巻 岩波書店、昭和5年(1930)、833頁(コマ180)。万葉仮名の原文。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日