万葉集 巻第三 266番
淡海の海
夕暮れの琵琶湖で、波の上を鳴きながら飛ぶ千鳥。その声を聞くと、心がしおれるほど、かつてここにあった都の昔がしのばれる。

題詞柿本朝臣人麻呂の歌一首
現代語訳
近江の海(琵琶湖)の、夕暮れの波の上を飛ぶ千鳥よ、おまえが鳴くと、心もしおれるばかりに、昔のことが思われる。
意訳
琵琶湖のほとりには、かつて天智天皇の近江大津宮があった。しかし壬申の乱で都は滅び、今は荒れ果てている。夕暮れ、湖の波の上で千鳥がもの悲しく鳴く。その声を聞くと、栄えていた都の昔が思い出され、心がしおれるようだ。千鳥に「汝」と呼びかけ、失われた時代への哀惜を、湖の夕景と鳥の声に溶けこませている。
語釈・文法注
- 淡海の海(あふみのうみ)
- 琵琶湖。「淡海」は淡水の海の意で、のちに「近江」の字が当てられた。
- 夕浪千鳥
- 夕暮れの波の上を飛ぶ千鳥。人麻呂の造語とされる、名詞を重ねた印象的な表現。
- しぬに
- しおれるように、心がぐったりとなるほど。
- 思ほゆ
- 自然に思われる。「思ふ」に、自発の助動詞「ゆ」が付いた「思はゆ」が変化した形。
文法・本文
- 汝が鳴けば
- 已然形+「ば」で、確定条件(…すると)を表す。千鳥に「汝(な)」と呼びかけている。
- いにしへ思ほゆ
- 「いにしへ」は、ここでは近江大津宮が栄えていたころを指す。
和歌
- 作者
- 柿本人麻呂(生没年未詳(7世紀後半〜8世紀初め))
持統天皇・文武天皇の時代に宮廷に仕えた歌人。天皇や皇子をたたえる長歌、皇子の死を悼む挽歌、旅の歌、妻を失った悲しみの歌など、雄大で力強い歌を多く残した。のちに「歌聖」とあがめられた。百人一首の第3首の作者ともされる。 - 出典
- 『万葉集』巻第三・雑歌・266番
- 歌体
- 短歌(五七五七七)
- 時期
- 第2期(672〜710年(壬申の乱〜平城京遷都))
- 状況
- 壬申の乱(672)で滅んだ近江大津宮の跡を訪れたときの歌とみられる。人麻呂には、近江の荒れた都を過ぎたときの長歌と反歌(巻第一・29〜31番)もある。
修辞
- 呼びかけ
- 「夕浪千鳥」と、千鳥に直接呼びかける。
- 名詞の連続
- 「夕浪千鳥」と、「夕」「浪」「千鳥」の三つの名詞を重ねて、夕暮れの湖の情景を凝縮する。
解説
天智天皇は667年、都を飛鳥から近江の大津に移した。しかし天皇の没後、672年の壬申の乱で大友皇子が敗れ、都は再び飛鳥に戻されて、大津宮は荒れ果てた。人麻呂は、この旧都の跡を訪れ、「近江の荒れたる都」を悼む長歌を詠んでいる(巻第一・29番)。この歌も、その旧都への思いを、琵琶湖の夕景に託して詠んだものと考えられる。
「夕浪千鳥」という、三つの名詞を一語のように結びつけた表現は、人麻呂の独創とされ、夕暮れの光、寄せる波、鳴きながら飛ぶ鳥の姿を一度に浮かび上がらせる。短い言葉で深い情感を伝えるこの歌は、人麻呂の短歌の中でも特にすぐれたものとして、後の時代まで愛誦されてきた。
関連
出典
- 底本
- 佐佐木信綱編『新訓万葉集』上巻 岩波文庫、昭和2年(1927)、96頁(コマ52)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 原文
- 佐佐木信綱編『白文万葉集』上巻 岩波書店、昭和24年(1949)、95頁(コマ53)。万葉仮名の原文。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日