万葉集 巻第二十 4398〜4400番
大王の 命かしこみ
天平勝宝7年2月19日、兵部少輔大伴家持が防人の心になって詠んだ長歌と反歌二首。大君の命を恐れ謹んで妻と別れるのは悲しいが、ますらおの心を奮い起こして旅の支度をして門出をすると、母は頭を撫で妻は取りすがって、無事を祈って待とう、早く帰って来てと袖で涙を拭ってむせび泣きながら語るので、群鳥のように出で立ちかね、振り返りながら国を離れ山を越えて、難波に来て船出を待っていると、春霞が島のまわりに立ち、鶴の悲しげな鳴き声に遠い家を思い出し、背負った征矢がそよと鳴るほど嘆いたことだと詠む長歌と、海原に霞がたなびいて鶴の鳴く悲しい宵は国の方が思われるという歌、家を思って眠れずにいると、鶴の鳴く蘆辺も春の霞で見えないという歌。
題詞防人の情に爲りて思を述べて作れる歌一首并に短歌
- 1大王大王おおきみののの命命みことかしこみかしこみかしこみ大王乃 美己等可之古美長歌
- 2妻妻つま別別わかれれれ悲悲かなしくしくしくはははあれあれあれどどど都麻和可禮 可奈之久波安禮特
- 3丈夫丈夫ますらおののの情情こころ振振ふりりり興興おこししし大夫 情布里於許之
- 4とりとりとりよそひよそひよそい門出門出かどでをををすれすれすればばば等里與曾比 門出乎須禮婆
- 5たらちねたらちねたらちねののの母母ははかきかきかき撫撫なででで多良知禰乃 波波可伎奈埿
- 6若若わか草草くさののの妻妻つまははは取取とりりり附附つききき若草乃 都麻波等里都伎
- 7平平たいらけくけくけく我我われははは齋齋いわははわむむん平久 和禮波伊波波牟
- 8好好さきくくく去去ゆきききててて早早はや還還かえりりり來來こととと好去而 早還來等
- 9眞眞ま袖袖そで持持もちちち涙涙なみだををを拭拭のごひひい麻蘇埿毛知 奈美太乎能其比
- 10咽咽むせびびびつつつつつつ言語言語ことどいすれすれすればばば牟世比都都 言語須禮婆
- 11群群むら鳥鳥とりののの出出いででで立立たちちち難難かてににに群鳥乃 伊埿多知加弖爾
- 12滯滯とどこおりりり顧顧かえりみみみしつつしつつしつつ等騰己保里 可弊里美之都都
- 13いやいやいや遠遠とおににに國國くにををを來來き離離はなれれれ伊也等保爾 國乎伎波奈例
- 14いやいやいや高高たかににに山山やまををを越越こえええ過過すぎぎぎ伊夜多可爾 山乎故要須疑
- 15蘆蘆あしががが散散ちるるる難波難波なにわににに來來き居居いててて安之我知流 難波爾伎爲弖
- 16夕夕ゆう汐汐しおににに船船ふねををを浮浮うけけけ居居すゑゑえ由布之保爾 船乎宇氣須惠
- 17朝朝あさなぎなぎなぎににに舳舳へ向向むけけけ漕漕こがががむむんととと安佐奈藝爾 倍牟氣許我牟等
- 18侍候侍候さもらふふうととと我我わががが居居おるるる時時ときににに佐毛良布等 和我乎流等伎爾
- 19春春はる霞霞がすみ島島しま廻廻みににに立立たちちちててて春霞 之麻末爾多知弖
- 20鶴鶴たずががが音音ねののの悲悲かなしみしみしみ鳴鳴なけけけばばば多頭我禰乃 悲鳴婆
- 21はろばろはろばろはろばろににに家家いえををを思思おもひひい出出で波呂波呂爾 伊弊乎於毛比埿
- 22負負おひひい征箭征箭そやのののそよそよそよととと鳴鳴なるるるまでまでまで歎歎なげきききつるつるつるかもかもかも於比曾箭乃 曾與等奈流麻埿 奈氣吉都流香母
- 23海原海原うなはらににに宇奈波良爾反歌
- 24霞霞かすみたなびきたなびきたなびき霞多奈妣伎
- 25鶴鶴たずががが音音ねののの多頭我禰乃
- 26悲悲かなしきしきしき宵宵よいははは可奈之伎與比波
- 27國國くに方方へししし思思おもほほおゆゆゆ久爾弊之於毛保由
- 28家家いえおもふおもふおもうととと伊弊於毛負等反歌
- 29寐寐いををを寢寢ねずずず居居おれれればばば伊乎禰受乎禮婆
- 30鶴鶴たずががが鳴鳴なくくく多頭我奈久
- 31蘆蘆あし邊邊へももも見見みえええずずず安之弊毛美要受
- 32春春はるののの霞霞かすみににに波流乃可須美爾
現代語訳
〔4398〕大君のご命令を恐れ謹んで、妻と別れるのは悲しいけれど、ますらおの心を奮い起こして、旅の支度をして門出をすると、(たらちねの)母は私の頭を撫で、(若草の)妻は取りすがって、「無事であるよう私は身を慎んで祈りましょう。無事に行って、早く帰って来てください」と、両袖で涙を拭い、むせび泣きながら語るので、(群鳥の)出発しかねて、ためらい、振り返りながら、いよいよ遠く国を離れて来て、いよいよ高く山を越えて過ぎ、(蘆が散る)難波に来て、夕潮に船を浮かべ据え、朝なぎに舳先を向けて漕ぎ出そうと、待機して私がいる時に、春霞が島のまわりに立ちこめて、鶴が悲しげに鳴くので、はるばると家を思い出して、背負った征矢がそよそよと鳴るほど、嘆いたことだ。
〔4399〕海原に霞がたなびいて、鶴の鳴き声の悲しい宵は、故郷の方が思われる。
〔4400〕家のことを思って眠れずにいると、鶴の鳴く蘆辺も見えない。春の霞のために。
意訳
家持が防人の身になって、門出から難波での船出待ちまでを詠んだ長歌である。頭を撫でる母、取りすがって泣く妻、振り返りつつ国を離れる道中、春霞の中に響く鶴の声に故郷を思って嘆く夜と、防人の悲しみを物語のようにたどる。
語釈・文法注
文法・本文
- とりよそひ
- 旅の支度をして。
- 好く去きて
- 「さきくゆきて」。無事に行って。
- 眞袖
- 「まそで」。両袖。
- 言語すれば
- 「ことどひすれば」。語りかけるので。
- 群鳥の
- 「出で立ち」にかかる枕詞。
- 出で立ち難に
- 出発しかねて。
- 侍候ふ
- 「さもらふ」。待機する。
- 負征箭
- 「おひそや」。背負った矢。
- 國方
- 「くにへ」。故郷の方。
- 寐を寢ず
- 「いをねず」。眠れずに。
和歌
- 作者
- 大伴家持(718?–785)
大伴旅人の子。越中守・少納言・兵部少輔などを歴任し、晩年は中納言に至った。万葉集に最も多くの歌を残した歌人で、その編纂にも深く関わったとされる。繊細で感傷的な歌風は、万葉集の第4期を代表する。百人一首の第6首の作者でもある。 - 出典
- 『万葉集』巻第二十・部立なし・4398〜4400番
- 歌体
- 長歌(五七をくり返し、五七七で結ぶ)
- 時期
- 第4期(733〜759年(〜万葉集の最後の歌))
- 状況
- 天平勝宝7年2月19日、兵部少輔大伴家持が防人の心になって詠んだ歌。
修辞
- 対句
- 「いや遠に國を來離れ」と「いや高に山を越え過ぎ」、「夕汐に船を浮け居ゑ」と「朝なぎに舳向け漕がむと」。
- 代作
- 防人の立場に立って詠む。
解説
家持は防人歌を記録するとともに、防人の心を思いやる長歌を三度作っている(4331・4360番)。
関連
出典
- 底本
- 佐佐木信綱編『新訓万葉集』下巻 岩波文庫、昭和2年(1927)、732頁(コマ159)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 原文
- 佐佐木信綱編『白文万葉集』下巻 岩波書店、昭和5年(1930)、864頁(コマ196)。万葉仮名の原文。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日