万葉集 巻第十八 4106〜4109番
大己貴 少彦名の
天平感宝元年5月15日、越中国の史生尾張少咋が、都に妻がありながら遊行女婦の左夫流児に心を奪われていたのを、越中守大伴家持が戒めて詠んだ長歌と反歌三首。神代から父母は尊く妻子はいとしいのが世の道理と言い伝えてきたのに、都で夫の帰りを待ちわびる妻をよそに、左夫流児と二人並んで暮らして惑っているあなたの心はどうしようもないと詠む長歌と、奈良で待つ妻の心を思えという歌、里人の見る目も恥ずかしいという歌、紅は色あせるもの、橡の着慣れた衣にどうして及ぼうかという歌。
題詞史生尾張少咋を教へ喩す歌一首并に短歌
- 1大己貴大己貴おおなむち少彥名少彥名すくなひこなののの於保奈牟知 須久奈比古奈野長歌
- 2神代神代かみよよりよりより言言いひひい繼繼つぎぎぎけらくけらくけらく神代欲里 伊比都藝家良久
- 3父母父母ちちははををを見見みれれればばば尊尊とうとくくく父母乎 見波多布刀久
- 4妻子妻子めこ見見みれれればばば愛愛かなしくしくしく愍愍めぐししし妻子見波 可奈之久米具之
- 5うつせみうつせみうつせみののの世世よののの理理ことわりととと宇都世美能 余乃許等和利止
- 6如此樣如此樣かくさまににに言言いひひいけるけるけるものものものををを可久佐末爾 伊比家流物能乎
- 7世世よののの人人ひとののの立立たつるつるつる言立言立ことだて世人能 多都流許等大弖
- 8ちさちさちさののの花花はな咲咲さけけけるるる盛盛さかりににに知左能花 佐家流沙加利爾
- 9愛愛はしきしきしきよしよしよしそのそのその妻妻つまののの兒兒こととと波之吉余之 曾能都末能古等
- 10朝朝あさ宵宵よいににに笑笑えみみみみみみ笑笑えまままずずずももも安沙余比爾 惠美々惠末須毛
- 11うちうちうち歎歎なげききき語語かたりりりけまくけまくけまくははは宇知奈氣伎 可多里家末久波
- 12永久永久とこしえににに斯斯かくくくしししもももあらあらあらめめめややや等己之部爾 可久之母安良米也
- 13天地天地あめつちののの神神かみことことこと依依よせせせててて天地能 可未許等余勢天
- 14春春はる花花はなののの盛盛さかりもももあらあらあらむむんととと春花能 佐可里裳安良牟等
- 15待待またたたしししけむけむけん時時ときののの盛盛さかりぞぞぞ末多之家牟 等吉能沙加利曾
- 16離離はなりりり居居いててて嘆嘆なげかかかすすす妹妹いもががが波奈禮居弖 奈介可須移母我
- 17何時何時いつしかしかしかももも使使つかいののの來來こむむむととと何時可毛 都可比能許牟等
- 18待待またたたすすすらむらむらん心心こころ不樂不樂さぶしくしくしく末多須良無 心左夫之苦
- 19南風南風みなみ吹吹ふききき雪消雪消ゆきげまさりまさりまさりててて南吹 雪消益而
- 20射水射水いみず河河がわ流流ながるるる水沫水沫みなわののの射水河 流水沫能
- 21よるべよるべよるべ無無なみみみ左夫流左夫流さぶるそのそのその兒兒こににに余留弊奈美 左夫流其兒爾
- 22紐紐ひもののの緒緒おのののいつがりいつがりいつがり合合あひひいててて比毛能緒能 移都我利安比弖
- 23鳰鳥鳰鳥におどりののの二人二人ふたり雙雙ならびびび坐坐い爾保騰里能 布多理雙坐
- 24奈呉奈呉なごののの海海うみののの沖沖おきををを深深ふかめめめててて那呉能宇美能 於支乎布可米天
- 25惑惑さどははわせるせるせる君君きみががが心心こころののの術術すべもももすべすべすべ無無なさささ左度波世流 伎美我許己呂能 須敝母須敝奈佐
- 26あをによしあをによしあおによし安乎爾與之反歌
- 27奈良奈良ならににに在在あるるる妹妹いもががが奈良爾安流伊毛我
- 28高高高高たかだかににに多可多可爾
- 29待待まつつつらむらむらん心心こころ麻都良牟許己呂
- 30然然しかにににはははあらあらあらじじじかかか之可爾波安良司可
- 31里里さと人人びとののの左刀妣等能反歌
- 32見見みるるる目目めはづかしはづかしはずかし見流目波豆可之
- 33左夫流兒左夫流兒さぶるこににに左夫流兒爾
- 34惑惑さどははわすすす君君きみががが佐度波須伎美我
- 35宮宮みや出出で後風後風しりぶり美夜泥之理夫利
- 36くれなゐくれなゐくれないははは久禮奈爲波反歌
- 37うつろふうつろふうつろうものものものぞぞぞ宇都呂布母能曾
- 38橡橡つるばみののの都流波美能
- 39なれなれなれにににししし衣衣きぬににに奈禮爾之伎奴爾
- 40なほなほなお若若しかかかめめめやもやもやも奈保之可米夜母
現代語訳
〔4106〕大己貴と少彦名の神代から言い継いできたことには、「父母を見れば尊く、妻子を見ればいとしくかわいい。これがこの世の道理だ」と、このように言ってきたものを、世の人が立てる誓いのとおり、ちさの花の咲く盛りのころに、いとしいその妻と、朝夕に笑ったり笑わなかったりしながら、ため息まじりに語り合ったことには、「いつまでもこのようであろうか。天地の神々が心を寄せてくださって、春の花のような盛りの時もきっと来よう」と待っておられたであろう、その盛りの時であるのに。離れて住んで嘆いておられる妻が、いつになったら使いが来るかと待っておられるだろうその心は寂しいのに、南風が吹き、雪解け水がまさって流れる射水川の水の泡のように寄る辺もなく、左夫流という女に、紐の緒のように結びついて、鳰鳥のように二人並んで、奈呉の海の沖のように深く惑っているあなたの心は、なんともしようがないことだ。
〔4107〕(あをによし)奈良にいる妻が、首を長くして待っているだろうその心は、そうではないのだろうか。
〔4108〕里人の見る目も恥ずかしい。左夫流児に惑うあなたが、役所に出勤する後ろ姿は。
〔4109〕紅の色は褪せてしまうものだ。橡で染めた着慣れた衣に、やはり及ぶことがあろうか。
意訳
都に妻を残して越中に赴任していた下僚の尾張少咋が、遊行女婦の左夫流児に入れあげているのを、国守の家持が戒めた歌である。漢文の序で律令の離婚の規定と義夫節婦をたたえる詔書を引き、長歌では神代以来の夫婦の道理を説いて、夫の帰りを待つ妻の心を思いやらせる。反歌では、里人の目も恥ずかしいと諭し、派手な紅はすぐに色褪せるが、着慣れた橡の衣(長年連れ添った妻)にはかなわないとたとえる。
語釈・文法注
文法・本文
- 大己貴・少彥名
- 「おほなむち」「すくなひこな」。国作りの神。
- 愍し
- 「めぐし」。いとおしい。
- ちさの花
- エゴノキの花か。
- 朝宵に
- 「あさよひに」。朝夕に。
- 語りけまくは
- 語り合ったことには。
- 永久に
- 「とこしへに」。いつまでも。
- 神こと依せて
- 神々が心を寄せて。
- 南風
- 「みなみ」。南から吹く風。
- 雪消
- 「ゆきげ」。雪解け水。
- 左夫流
- 「さぶる」。遊行女婦の名。
- いつがり合ひて
- 結びつきあって。
- 惑はせる
- 「さどはせる」。惑っておられる。
- 高高に
- 「たかだかに」。首を長くして待つさま。
- 宮出後風
- 「みやでしりぶり」。役所に出勤する後ろ姿。
- 橡
- 「つるばみ」。くぬぎの実で染めた地味な色の衣。
- なれにし衣
- 着慣れた衣。長年連れ添った妻をたとえる。
- 若かめやも
- 「しかめやも」。及ぶことがあろうか。
和歌
- 作者
- 大伴家持(718?–785)
大伴旅人の子。越中守・少納言・兵部少輔などを歴任し、晩年は中納言に至った。万葉集に最も多くの歌を残した歌人で、その編纂にも深く関わったとされる。繊細で感傷的な歌風は、万葉集の第4期を代表する。百人一首の第6首の作者でもある。 - 出典
- 『万葉集』巻第十八・部立なし・4106〜4109番
- 歌体
- 長歌(五七をくり返し、五七七で結ぶ)
- 時期
- 第4期(733〜759年(〜万葉集の最後の歌))
- 状況
- 天平感宝元年5月15日、越中守大伴家持が、史生尾張少咋を戒めて詠んだ歌。
修辞
- 比喩
- 4109番で、紅を遊行女婦に、橡の衣を妻にたとえる。
- 序詞
- 「射水河流る水沫の」が「よるべ無み」を導き、「奈呉の海の沖を」が「深めて」を導く。
解説
国守には部下の官人の風紀を正す務めもあり、家持はそれを歌の形で行った。このあと、少咋の妻が都から早馬で乗り込んで来た歌(4110番)が続く。
関連
出典
- 底本
- 佐佐木信綱編『新訓万葉集』下巻 岩波文庫、昭和2年(1927)、658頁(コマ122)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 原文
- 佐佐木信綱編『白文万葉集』下巻 岩波書店、昭和5年(1930)、778頁(コマ153)。万葉仮名の原文。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
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