万葉集 巻第十七 3969〜3972番
大君の 任のまにまに
天平19年3月3日、病の癒えない大伴家持が、池主の慰めの書簡と歌に答えて、ふたたび漢文の序を添えて贈った長歌と反歌三首。越の国に下って来たますらおの自分も病に臥し、都の家族に便りもできず籠もって嘆き、春の花を手折ることも鶯の声を聞くこともなく、乙女らが春菜を摘む盛りの時を空しく過ごしたが、思ってくれる君の心がうれしくて、夜通し眠らず今日も一日恋い慕っていると詠む長歌と、山桜を一目でも君と見たならという歌、鶯の声を聞いているだろう君がうらやましいという歌、出て行く力もなく籠もって君を恋うと心も萎えるという歌。
題詞更に贈れる歌一首并に短歌
- 1大君大君おおきみののの任任まけのののまにまにまにまにまにまに於保吉民能 麻氣乃麻爾麻爾長歌
- 2級級しな離離ざかるるる越越こしををを治治おさめめめににに之奈射加流 故之乎遠佐米爾
- 3出出いでででててて來來こししし丈夫丈夫ますら吾吾われすらすらすら伊泥底許之 麻須良和禮須良
- 4世世よののの中中なかののの常常つねししし無無なけれけれければばば余能奈可乃 都禰之奈家禮婆
- 5うちうちうち靡靡なびききき床床とこににに反倒反倒こいうししし宇知奈妣伎 登許爾己伊布之
- 6痛痛いたけくけくけくののの日日ひににに日日けににに增增ませせせばばば伊多家苦乃 日異麻世婆
- 7悲悲かなしけくしけくしけく此處此處ここににに思思おもひひい出出で可奈之家口 許己爾思出
- 8苛苛いらなけくなけくなけく其處其處そこににに念念おもひひい出出で伊良奈家久 曾許爾念出
- 9歎歎なげくくくそらそらそら安安やすけなくけなくけなくににに奈氣久蘇良 夜須家奈久爾
- 10思思おもふふうそらそらそら苦苦くるしきしきしきものものものををを於母布蘇良 久流之伎母能乎
- 11あしひきあしひきあしひきののの山山やま來來き隔隔へなりりりててて安之比紀能 夜麻伎弊奈里底
- 12玉玉たま桙桙ほこののの道道みちののの遠遠とおけけけばばば多麻保許乃 美知能等保家波
- 13間間ま使使つかいももも遣遣やるるるよしよしよしももも無無なみみみ間使毛 遣縁毛奈美
- 14思思おもほほおしきしきしき言言ことももも通通かよははわずずず於母保之吉 許等毛可欲波受
- 15たまきはるたまきはるたまきわる命命いのち惜惜おしけしけしけどどど多麻伎波流 伊能知乎之家騰
- 16爲爲せむむむすべすべすべのののたどきたどきたどきををを知知しらららににに勢牟須辨能 多騰吉乎之良爾
- 17籠籠こもりりり居居いててて念念おもひひい嘆嘆なげかひかひかい隱居而 念奈氣加比
- 18なぐさむるなぐさむるなぐさむる心心こころはははなしなしなしににに奈具佐牟流 許己呂波奈之爾
- 19春春はる花花はなののの咲咲さけけけるるる盛盛さかりににに春花乃 佐家流左加里爾
- 20思思おもふふうどちどちどち手手た折折おりりりかざさかざさかざさずずず於毛敷度知 多乎里加射佐受
- 21春春はるののの野野のののの茂茂しげみみみ飛飛とびびびぐくぐくぐく波流乃野能 之氣美登妣久久
- 22うぐひすうぐひすうぐいすののの聲聲こえだにだにだに聞聞きかかかずずず鸎 音太爾伎加受
- 23をとめをとめおとめ等等らががが春春はる菜菜な摘摘つますますますととと乎登賣良我 春菜都麻須等
- 24くれなゐくれなゐくれないののの赤赤あか裳裳もののの裾裾すそののの久禮奈爲能 赤裳乃須蘇能
- 25春春はる雨雨さめににににほひにほひにおいひづちひづちひずちててて波流佐米爾 爾保比比豆知底
- 26通通かよふふうらむらむらん時時ときののの盛盛さかりををを加欲敷良牟 時盛乎
- 27いたづらいたづらいたずらににに過過すぐしぐしぐし遣遣やりりりつれつれつれ伊多豆良爾 須具之夜里都禮
- 28思思しぬばせばせばせるるる君君きみががが心心こころををを思努波勢流 君之心乎
- 29うるはしみうるはしみうるわしみ此此こののの終夜終夜よすがらににに宇流波之美 此夜須我浪爾
- 30寐寐いももも寢寢ねずずずににに今日今日きょうももも終終しめらららににに戀戀こひひいつつつつつつぞぞぞ居居おるるる伊母爾受爾 今日毛之賣良爾 孤悲都追曾乎流
- 31あしひきあしひきあしひきののの安之比奇能反歌
- 32山山やま櫻櫻さくら花花ばな夜麻左久良婆奈
- 33ひとひとひと目目めだにだにだに比等目太爾
- 34君君きみとととししし見見みてててばばば伎美等之見底婆
- 35吾吾あれ戀戀こひひいめめめやもやもやも安禮古非米夜母
- 36山吹山吹やまぶきののの夜麻扶枳能反歌
- 37茂茂しげみみみ飛飛とびびびぐくぐくぐく之氣美登毗久久
- 38鶯鶯うぐいすののの鸎能
- 39聲聲こえををを聞聞きくくくらむらむらん許惠乎聞良牟
- 40君君きみははは羨羨ともしししももも伎美波登母之毛
- 41出出いででで立立たたたたむむん伊泥多多武反歌
- 42力力ちからををを無無なみみみととと知加良乎奈美等
- 43籠籠こもりりり居居いててて許母里爲底
- 44君君きみににに戀戀こふるふるうるににに伎彌爾故布流爾
- 45心神心神こころどもももなしなしなし許己呂度母奈思
現代語訳
〔3969〕大君の任命のままに、(級離る)越の国を治めにと出て来た、ますらおの私でさえ、世の中が無常なので、倒れ臥して床に寝込み、痛みは日ごとに増していくので、悲しいことをここに思い出し、つらいことをあそこに思い出し、嘆く心は安らかでなく、思う心は苦しいのに、(あしひきの)山が隔たって、(玉桙の)道が遠いので、行き来する使いをやる手立てもなく、言いたいことも伝えられない。(たまきはる)命は惜しいけれど、どうしてよいか手立てもわからず、籠もって思い嘆き、心を慰めるすべもないままに、春の花の咲く盛りに、親しい友どうしで手折って髪に挿すこともせず、春の野の茂みをくぐって飛ぶ鶯の声さえ聞かず、乙女たちが春菜を摘もうと、紅の赤裳の裾を春雨に美しく濡らして通っているだろう、その盛りの時を空しく過ごしてしまったので、私を思ってくださるあなたの心がうれしくて、この夜通し寝もやらずに、今日も一日中恋しく思っています。
〔3970〕(あしひきの)山桜の花を、一目だけでもあなたと一緒に見たならば、私はこんなに恋しく思うだろうか。
〔3971〕山吹の茂みをくぐって飛ぶ鶯の声を、聞いているだろうあなたがうらやましい。
〔3972〕出て行く力もないので、籠もっていて、あなたを恋しく思うと、心もしっかりしない。
意訳
病の床から、春の盛りを空しく過ごす嘆きと、慰めてくれる池主への感謝を詠んだ長歌である。花を手折ることも鶯の声を聞くこともできず、春菜を摘む乙女たちの姿も見られないと、目にできない春の景物を数え上げ、それだけに友の心遣いが身にしみると結ぶ。反歌では、山桜を君と見たい、鶯の声を聞く君がうらやましい、出て行く力もなく心も萎えると、病床の思いを重ねる。
語釈・文法注
文法・本文
- 級離る
- 「しなざかる」。「越」にかかる枕詞。
- 此處に思ひ出・其處に念ひ出
- あれこれと思い出して。
- 苛なけく
- 「いらなけく」。つらいこと。
- 山來隔りて
- 「やまきへなりて」。山が隔たって。
- 茂み飛びぐく
- 茂みをくぐって飛ぶ。
- にほひひづちて
- 美しく照り映えて濡れて。
- 思ばせる
- 「しぬばせる」。思ってくださる。白文は「思努波勢流」。
- うるはしみ
- 心ひかれるので、うれしくて。
- 終夜
- 「よすがら」。夜通し。
- 終らに
- 「しめらに」。一日中。
- 羨し
- 「ともし」。うらやましい。
- 心神
- 「こころど」。しっかりした心。
和歌
- 作者
- 大伴家持(718?–785)
大伴旅人の子。越中守・少納言・兵部少輔などを歴任し、晩年は中納言に至った。万葉集に最も多くの歌を残した歌人で、その編纂にも深く関わったとされる。繊細で感傷的な歌風は、万葉集の第4期を代表する。百人一首の第6首の作者でもある。 - 出典
- 『万葉集』巻第十七・部立なし・3969〜3972番
- 歌体
- 長歌(五七をくり返し、五七七で結ぶ)
- 時期
- 第4期(733〜759年(〜万葉集の最後の歌))
- 状況
- 天平19年3月3日、病の癒えない越中守大伴家持が、大伴池主に贈った歌。
修辞
- 対句
- 「悲しけく此處に思ひ出」と「苛なけく其處に念ひ出」、「歎くそら安けなくに」と「思ふそら苦しきものを」。
- 枕詞
- 「級離る」「あしひきの」「玉桙の」「たまきはる」「くれなゐの」。
解説
序の「山柿の門」は、山部赤人と柿本人麻呂を歌の師と仰ぐ言葉と解され、家持の歌学の意識を示すものとして名高い。
関連
出典
- 底本
- 佐佐木信綱編『新訓万葉集』下巻 岩波文庫、昭和2年(1927)、623頁(コマ104)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 原文
- 佐佐木信綱編『白文万葉集』下巻 岩波書店、昭和5年(1930)、729頁(コマ128)。万葉仮名の原文。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日