万葉集 巻第十七 3962〜3964番
大王の 任のまにまに
天平19年2月、越中守大伴家持が重い病に倒れ、死をも覚悟して悲しみを述べた長歌と反歌二首。大君の任命のままに鄙に下って来て、まだ息も休めないうちに病に臥し、日ごとに痛みが増す、母も妻も子どもたちも待ちわびているだろうに、道が遠くて使いもやれず、命は惜しいがどうしようもなく、ますらおの身で嘆き臥していると詠む長歌と、世の中ははかない、春の花の散り乱れるうちに死ぬかと思うとという歌、山河を隔てて遠く妹に逢えずこうして嘆くのかという歌。
題詞忽ちに枉疾に沈み、殆泉路に臨めり。仍りて歌詞を作りて以て悲緒を申ぶる一首并に短歌
- 1大王大王おおきみののの任任まけのののまにまにまにまにまにまに大王能 麻氣能麻爾麻爾長歌
- 2丈夫丈夫ますらおののの心心こころ振振ふりりり起起おこししし大夫之 情布里於許之
- 3あしひきあしひきあしひきののの山山やま坂坂さか越越こえええててて安思比奇能 山坂古延底
- 4天天あま放放ざかるるる鄙鄙ひなににに下下くだりりり來來き安麻射加流 比奈爾久太理伎
- 5息息いきだにだにだにももも未未いまだだだ休休やすめめめずずず伊伎太爾毛 伊麻太夜須米受
- 6年年とし月月つきもももいくらいくらいくらもももあらあらあらぬぬぬににに年月毛 伊久良母阿良奴爾
- 7うつせみうつせみうつせみののの世世よののの人人ひとなれなれなればばば宇都世美能 代人奈禮婆
- 8うちうちうち靡靡なびききき床床とこににに反倒反倒こいうししし宇知奈妣吉 等許爾許伊布之
- 9痛痛いたけくけくけくののの日日ひににに日日けににに益益まさるるる伊多家苦之 日異益
- 10たらちねたらちねたらちねののの母母ははののの命命みことののの多良知禰乃 波波能美許等乃
- 11大大おお船船ぶねのののゆくらゆくらゆくらゆくらゆくらゆくらににに大船乃 由久良由久良爾
- 12下下した戀戀こいににに何時何時いつかもかもかも來來こむむむととと思多呉非爾 伊都可聞許武等
- 13待待またたたすすすらむらむらん情情こころ不樂不樂さぶしくしくしく麻多須良武 情左夫之苦
- 14愛愛はしきしきしきよしよしよし妻妻つまののの命命みことももも波之吉與志 都麻能美許等母
- 15明明あけけけ來來くれれればばば門門かどににに倚倚よりりり立立たちちち安氣久禮婆 門爾餘里多知
- 16衣衣ころも手手でををを折折おりりり反反かえしししつつつつつつ己呂母泥乎 遠理加弊之都追
- 17夕夕ゆうささされれればばば床床とこ打打うちちち拂拂はらひひい由布佐禮婆 登許宇知波良比
- 18ぬばたまぬばたまぬばたまののの黑黑くろ髮髮かみ敷敷しきききててて奴婆多麻能 黑髮之吉底
- 19いついついつしかしかしかととと嘆嘆なげかかかすすすらむらむらんぞぞぞ伊都之加登 奈氣可須良牟曾
- 20妹妹いもももも兄兄せももも若若わかききき兒兒こどもどもどもははは伊母毛勢母 和可伎兒等毛波
- 21彼此彼此おちこちににに騷騷さわぎぎぎ泣泣なくくくらむらむらん乎知許知爾 佐和吉奈久良牟
- 22玉玉たま桙桙ほこののの道道みちをををたたた遠遠どおみみみ多麻保許能 美知乎多騰保彌
- 23間間ま使使つかいももも遣遣やるるるよしよしよしももも無無なししし間使毛 夜流余之母奈之
- 24思思おもほほおしきしきしき言言こと傳傳つててて遣遣やらららずずず於母保之伎 許登都底夜良受
- 25戀戀こふるふるうるにににししし情情こころははは燃燃もえええぬぬぬ孤布流爾思 情波母要奴
- 26たまきはるたまきはるたまきわる命命いのち惜惜おしけしけしけどどど多麻伎波流 伊乃知乎之家騰
- 27爲爲せむむむすべすべすべのののたどきたどきたどきををを知知しらららににに世牟須辨能 多騰伎乎之良爾
- 28斯斯かくくくしししてててややや荒夫荒夫あらしおすらすらすらににに嘆嘆なげききき臥臥ふせせせらむらむらん加苦思底也 安良志乎須良爾 奈氣枳布勢良武
- 29世間世間よのなかははは世間波反歌
- 30かずかずかずなきなきなきものものものかかか加受奈吉物能可
- 31春春はる花花はなののの春花乃
- 32散散ちりりりのののまがひまがひまがいににに知里能麻可比爾
- 33死死しぬぬぬべきべきべきおもへおもへおもえばばば思奴倍吉於母倍婆
- 34山山やま河河かわののの山河乃反歌
- 35退退そき方方えををを遠遠とおみみみ曾伎敝乎登保美
- 36愛愛はしきしきしきよしよしよし波之吉余思
- 37妹妹いもををを相相あい見見みずずず伊母乎安比見受
- 38斯斯かくくくややや嘆嘆なげかかかむむん可久夜奈氣加牟
現代語訳
〔3962〕大君の任命のままに、ますらおの心を奮い起こして、(あしひきの)山坂を越えて、(天放る)鄙に下って来て、まだ息さえも休めず、年月もいくらもたたないのに、(うつせみの)世の人の身なので、倒れ臥して床に寝込み、痛みは日ごとに増していく。(たらちねの)母上は、(大船の)ゆらゆらと心揺れ、心ひそかに恋い慕って、いつ帰るかと待っておられるだろう、心さびしく。いとしい妻も、夜が明けると門に寄りかかって立ち、袖を折り返して、夕方になると床を払い、(ぬばたまの)黒髪を敷いて、いつ帰るかと嘆いておられるだろう。妹も兄も幼い子どもたちは、あちらこちらで騒いで泣いているだろう。(玉桙の)道が遠いので、使いをやる手立てもない。思うことを言づてしてやることもできず、恋しさに心は燃え立った。(たまきはる)命は惜しいけれど、どうしてよいか手立てもわからず、こうしてますらおの身でありながら、嘆き臥しているのだろうか。
〔3963〕世の中ははかないものであるよ。春の花が散り乱れるうちに、死んでしまうかと思うと。
〔3964〕山や河の果てが遠いので、いとしい妻に逢えずに、こうして嘆いているのだろうか。
意訳
越中に赴任して半年余り、天平19年春に家持は重病に倒れ、死を覚悟した。都で帰りを待つ母や妻、幼い子どもたちを思いやり、使いを送ることもできず、ますらおの身で嘆き臥すしかないと詠む長歌である。反歌では、春の花の散る中で死ぬかと思うと世ははかないと嘆き、遠く隔てた妻に逢えない悲しみを詠む。
語釈・文法注
文法・本文
- 反倒し
- 「こいふし」。倒れ臥して。
- 痛けくの
- 痛みが。白文は「伊多家苦之」と書く。
- ゆくらゆくらに
- ゆらゆらと心が揺れて。
- 下戀
- 「したごひ」。心ひそかに恋い慕うこと。
- 彼此に
- 「をちこちに」。あちらこちらで。
- 間使
- 「まつかひ」。行き来する使い。
- 荒夫
- 「あらしを」。ますらお、勇ましい男。
- かずなき
- はかない、数にも入らない。
- 散りのまがひ
- 花が散り乱れること。
- 退方
- 「そきへ」。遠く離れた果て。
和歌
- 作者
- 大伴家持(718?–785)
大伴旅人の子。越中守・少納言・兵部少輔などを歴任し、晩年は中納言に至った。万葉集に最も多くの歌を残した歌人で、その編纂にも深く関わったとされる。繊細で感傷的な歌風は、万葉集の第4期を代表する。百人一首の第6首の作者でもある。 - 出典
- 『万葉集』巻第十七・部立なし・3962〜3964番
- 歌体
- 長歌(五七をくり返し、五七七で結ぶ)
- 時期
- 第4期(733〜759年(〜万葉集の最後の歌))
- 状況
- 天平19年2月21日、越中守大伴家持が病に臥して詠んだ歌。
修辞
- 枕詞
- 「あしひきの」「天放る」「うつせみの」「たらちねの」「大船の」「ぬばたまの」「玉桙の」「たまきはる」。
- 対句
- 「明け來れば門に倚り立ち」と「夕されば床打ち拂ひ」。
解説
この病中の歌から、家持と池主との間で漢文の書簡と歌の贈答が始まる(3965番以下)。
関連
出典
- 底本
- 佐佐木信綱編『新訓万葉集』下巻 岩波文庫、昭和2年(1927)、619頁(コマ102)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 原文
- 佐佐木信綱編『白文万葉集』下巻 岩波書店、昭和5年(1930)、726頁(コマ127)。万葉仮名の原文。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日