万葉集 巻第四 631〜642番
表邊なき ものかも人は
あんなに遠い家路を帰らせるとは、あの人は思いやりのない人だ。月の中の桂のように、見ても手に取れないあの娘をどうしよう。湯原王と娘子が交わした恋の歌十二首。
題詞湯原王、娘子に贈れる歌二首/娘子の報へ贈れる歌二首/湯原王、また贈れる歌二首/娘子、復報へ贈れる歌一首/湯原王、また贈れる歌一首/娘子、復報へ贈れる歌一首/湯原王、また贈れる歌一首/娘子、復報へ贈れる歌一首/湯原王の歌一首
- 1表表うわ邊邊へなきなきなき宇波弊無631 湯原王
- 2ものものものかもかもかも人人ひとははは物可聞人者
- 3然然しかばかりばかりばかり然許
- 4遠遠とおききき家家いえ路路じををを遠家路乎
- 5還還かえすすすおもへおもへおもえばばば令還念者
- 6目目めにににははは見見みててて目二破見而632 湯原王
- 7手手てにににははは取取とらららえええぬぬぬ手二破不所取
- 8月月つきののの內內うちののの月內之
- 9楓楓かつらののの如如ごとききき楓如
- 10妹妹いもをををいかにいかにいかにせせせむむん妹乎奈何責
- 11如何如何いかばかりばかりばかり幾許633 娘子
- 12思思おもひひいけめけめけめかもかもかも思異目鴨
- 13敷敷しき妙妙たえののの敷細之
- 14枕枕まくら片片かた去去さりりり枕片去
- 15夢夢いめににに見見みえええ來來こししし夢所見來之
- 16家家いえにににしししててて家二四手634 娘子
- 17見見みれれれどどど飽飽あかかかぬぬぬををを雖見不飽乎
- 18草草くさ枕枕まくら草枕
- 19旅旅たびにににももも夫夫つまととと客毛妻與
- 20あるあるあるががが羨羨ともしさしさしさ有之乏左
- 21草草くさ枕枕まくら草枕635 湯原王
- 22旅旅たびにににははは嬬嬬つまははは客者嬬者
- 23率率いたれたれたれどもどもども雖率有
- 24匣匣くしげのののうちうちうちののの匣內之
- 25珠珠たまをををこそこそこそ念念おもへへえ珠社所念
- 26吾吾わががが衣衣ころも余衣636 湯原王
- 27形形かた見見みににに奉奉まつるるる形見爾奉
- 28敷敷しき妙妙たえののの布細之
- 29枕枕まくらををを離離さけけけずずず枕不離
- 30纏纏まきききてててさささ宿宿ねませませませ卷而左宿座
- 31吾吾わが背背せ子子こががが吾背子之637 娘子
- 32形形かた見見みののの衣衣ころも形見之衣
- 33嬬嬬つま問問どいににに嬬問爾
- 34わわわががが身身みははは離離さけけけじじじ余身者不離
- 35言言こと問問とはははずずずともともとも事不問友
- 36ただただただ一一ひと夜夜よ直一夜638 湯原王
- 37隔隔へだてててしししからからからににに隔之可良爾
- 38あらあらあらたまたまたまののの荒玉乃
- 39月月つきかかか經經へぬるぬるぬるととと月歟經去跡
- 40心心こころはははまどふまどふまどう心遮
- 41吾吾わが背背せ子子こががが吾背子我639 娘子
- 42斯斯かくくく戀戀こふれふれうれこそこそこそ如是戀禮許曾
- 43ぬばたまぬばたまぬばたまののの夜干玉能
- 44夢夢いめににに見見みえええつつつつつつ夢所見管
- 45寐寐いねねねらららえええずずずけれけれけれ寐不所宿家禮
- 46愛愛はしけしけしけやしやしやし波之家也思640 湯原王
- 47ままま近近ちかききき里里さとををを不遠里乎
- 48雲雲くも居居いにににややや雲居爾也
- 49戀戀こひひいつつつつつつ居居おらららむむん戀管將居
- 50月月つきももも經經へなくなくなくににに月毛不經國
- 51絕絕たゆゆゆととといはいはいわばばば絕常云者641 娘子
- 52侘侘わびしみしみしみせせせむむんととと和備染責跡
- 53燒燒やき太太た刀刀ちののの燒太刀乃
- 54へつかふへつかふへつかうことことことははは隔付經事者
- 55辛辛からしししややや吾吾わ君君ぎみ幸也吾君
- 56吾吾わぎ妹妹も子子こににに吾妹兒爾642 湯原王
- 57戀戀こひひいててて亂亂みだれれれりりり戀而亂在
- 58蟠蟠くる車車べきににに久流部寸二
- 59懸懸かけけけててて縁縁よせせせむむんととと懸而緣與
- 60吾吾わががが戀戀こひひいそめそめそめししし余戀始
現代語訳
〔631〕思いやりのないものなのか、あの人は。あれほど遠い家路を帰らせることを思うと。
〔632〕目には見えても手には取れない月の中の桂の木のような、あの娘をどうしたらよいのか。
〔633〕どれほど思ってくださったからでしょうか、(敷妙の)枕の片側をあけて寝ると、あなたが夢に見えてきた。
〔634〕家にいて見ても見飽きないのに、旅にまで妻として連れ添っている人のうらやましいこと。
〔635〕(草枕)旅には妻を連れているけれど、櫛箱の中の玉のようなあなたのことを思っている。
〔636〕私の衣を形見にさしあげます。(敷妙の)枕から離さずに、身にまとっておやすみなさい。
〔637〕あなたの形見の衣は、妻問いの代わりに、わが身から離しません。物を言わなくても。
〔638〕ただ一夜隔てただけなのに、(あらたまの)一月もたったかと、心が迷うことだ。
〔639〕あなたがこんなに恋しく思ってくださるからこそ、(ぬばたまの)夢に見えて、眠れなかったのですね。
〔640〕ああ、すぐ近くの里なのに、雲の彼方のように遠く思って恋い続けることになるのか。月もたっていないのに。
〔641〕もう終わりだと言ったら私が悲しむだろうと、(燒太刀の)よそよそしくなさるのは、つらいことです、あなた。
〔642〕あの娘に恋をして心が乱れている。糸繰り車にかけて糸を寄せるように、思いを寄せようと、私は恋をしはじめたのだ。
意訳
湯原王と、名の伝わらない娘子とが交わした十二首の贈答である。631番は遠い家路を帰らせる娘のつれなさを恨み、632番は月の中の桂のように手の届かない娘を嘆く。娘子は、夢に見えたのはあなたが思ってくれたからと答え、旅に妻を連れる王をうらやむ。王は旅の妻より櫛箱の玉(娘子)を思うと言い、衣を形見に贈る。たった一夜離れただけで一月も過ぎたように思うと王が歌えば、娘子は、別れを告げずによそよそしくするのはつらいと応じる。恋の始まりから行き違いまでを、物語のようにたどる歌群である。
語釈・文法注
文法・本文
- 表邊なき
- 「うはへなし」は愛想がない、思いやりがない。
- 月の内の楓
- 月には桂の木が生えているという中国の伝説による。
- へつかふ
- うわべだけで接する、よそよそしくする。
- 蟠車
- 「くるべき」は糸を繰る車。
和歌
- 作者
- 湯原王と娘子(生没年未詳)
湯原王は志貴皇子の子。娘子は名が伝わらない。 - 出典
- 『万葉集』巻第四・相聞・631〜642番
- 歌体
- 短歌(五七五七七)
- 時期
- 第3期(710〜733年(平城京遷都〜山上憶良の没年ごろ))
- 状況
- 湯原王と娘子とが交わした恋の贈答歌十二首。
修辞
- 比喩
- 632番で、手の届かない娘を月の中の桂にたとえる。
解説
志貴皇子の子の湯原王は、父に似た繊細な歌風で知られる。この贈答は、実際の恋とも、宴での創作ともいわれる。
関連
出典
- 底本
- 佐佐木信綱編『新訓万葉集』上巻 岩波文庫、昭和2年(1927)、166頁(コマ87)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 原文
- 佐佐木信綱編『白文万葉集』上巻 岩波書店、昭和24年(1949)、175頁(コマ93)。万葉仮名の原文。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日