万葉集 巻第三 270〜277番
旅にして 物戀しきに
旅の途中で何となく人恋しいときに、赤く塗った官の船が沖を漕いでいく。鶴の鳴きわたる年魚市潟、棚無し小舟の行く笠縫の島など、黒人が各地で詠んだ旅の歌八首。
場面イラスト(準備中)
題詞高市連黒人の覊旅の歌八首
- 1旅旅たびにににしししててて客爲而270
- 2物物もの戀戀こおしきしきしきににに物戀敷爾
- 3山山やま下下したののの山下
- 4赤赤あけのののそほそほそお船船ぶね赤乃曾保船
- 5沖沖おきににに榜榜こぐぐぐ見見みゆゆゆ奧榜所見
- 6櫻田櫻田さくらだへへへ櫻田部271
- 7鶴鶴たず鳴鳴なきききわたるわたるわたる鶴鳴渡
- 8年魚市年魚市あゆち潟潟がた年魚市方
- 9潮潮しお干干ひにににけらしけらしけらし鹽干二家良之
- 10鶴鶴たず鳴鳴なきききわたるわたるわたる鶴鳴渡
- 11四極四極しはつ山山やま四極山272
- 12うちうちうち越越こえええ見見みれれればばば打越見者
- 13笠縫笠縫かさぬいののの笠縫之
- 14島島しま榜榜こぎぎぎかくるかくるかくる島榜隱
- 15棚棚たな無無なししし小小お舟舟ぶね棚無小舟
- 16磯磯いそののの埼埼さき磯前273
- 17榜榜こぎぎぎ回回たみみみ行行ゆけけけばばば榜手回行者
- 18近江近江おうみののの海海うみ近江海
- 19八八や十十そののの湊湊みなとににに八十之湊爾
- 20鵠鵠たず多多さわににに鳴鳴なくくく鵠佐波二鳴
- 21吾吾わががが船船ふねははは吾船者274
- 22比良比良ひらののの湊湊みなとににに枚乃湖爾
- 23榜榜こぎぎぎ泊泊はてててむむん榜將泊
- 24沖沖おきへへへななな放放さかりりり奧部莫避
- 25さささ夜夜よふけふけふけにににけりけりけり左夜深去來
- 26何處何處いずくにににかかか何處275
- 27吾吾われははは宿宿やどらららむむん吾將宿
- 28高島高島たかしまののの高島乃
- 29勝野勝野かちぬののの原原はらににに勝野原爾
- 30このこのこの日日ひ暮暮くれれれなななばばば此日暮去者
- 31妹妹いもももも我我われももも妹母我母276
- 32一一ひとつつつなれなれなれかもかもかも一有加母
- 33三河三河みかわなるなるなる三河有
- 34二見二見ふたみののの道道みちゆゆゆ二見自道
- 35別別わかれれれかねかねかねつるつるつる別不勝鶴
- 36疾疾とくくく來來きてててももも速來而母277
- 37見見みてててましましましものものものををを見手益物乎
- 38山城山城やましろののの山背
- 39高高たかききき槻槻つき村村むら高槻村
- 40散散ちりりりにににけるけるけるかもかもかも散去奚留鴨
現代語訳
〔270〕旅の途中で何となく人恋しく思っていると、山の下の方にいた赤く塗った船が、沖へ漕いでいくのが見える。
〔271〕桜田の方へ鶴が鳴きながら渡っていく。年魚市潟は潮が引いたらしい。鶴が鳴きながら渡っていく。
〔272〕四極山を越えて見わたすと、笠縫の島の陰へ漕ぎ隠れていく、棚無し小舟が見える。
〔273〕磯の崎を漕ぎめぐって行くと、近江の海の多くの港に、鶴がたくさん鳴いている。
〔274〕私の船は比良の港に漕ぎ寄せて泊まろう。沖の方へ離れて行かないでくれ。夜も更けてしまった。
〔275〕どこで私は宿をとろうか。高島の勝野の原で、この日が暮れてしまったら。
〔276〕あなたも私も一つだからだろうか。三河の二見の道で、別れようとしても別れられないことだ。
〔277〕早く来て見ればよかったのに。山城の高い槻の木の林は、もう散ってしまったことだ。
意訳
黒人は、尾張・摂津・近江・三河・山城など各地を旅して歌を残した。旅先の景色を、そのままの姿で簡潔に描き、その奥にひそかな旅愁を漂わせるのが黒人の歌の特色である。270番の赤い官船、271番の鶴の群れ、272番の島陰に消える小舟など、動いていくものを見つめる孤独なまなざしが印象深い。
語釈・文法注
文法・本文
- 赤のそほ船
- 「そほ」は赤い土。赤土を塗った船で、官の船とされる。
- 棚無し小舟
- 舟べりに横板(棚)のない小さな舟。
- 一つなれかも
- 已然形+「かも」で、疑問の条件。一つであるからだろうか。
和歌
- 作者
- 高市黒人(生没年未詳)
持統・文武天皇の時代の歌人。旅の歌を多く残し、叙景歌の先駆けとされる。 - 出典
- 『万葉集』巻第三・雑歌・270〜277番
- 歌体
- 短歌(五七五七七)
- 時期
- 第2期(672〜710年(壬申の乱〜平城京遷都))
- 状況
- 高市黒人が旅の途中で詠んだ歌八首。旅の時期や目的は一つではないとみられる。
修辞
- 反復
- 271番で「鶴鳴きわたる」を初めと終わりにくり返す。
解説
人麻呂の旅の歌が、地名を連ねて大きく歌いあげるのに対し、黒人の歌は目に入る一つの景色を静かに切り取る。後の山部赤人の叙景歌の先駆けとされ、万葉集の叙景表現の展開を考えるうえで重要な歌人である。
関連
出典
- 底本
- 佐佐木信綱編『新訓万葉集』上巻 岩波文庫、昭和2年(1927)、96頁(コマ52)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 原文
- 佐佐木信綱編『白文万葉集』上巻 岩波書店、昭和24年(1949)、95頁(コマ53)。万葉仮名の原文。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日