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万葉集 巻第二 210〜212番

現身と 念ひし時に

柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)

槻の木の葉のように茂る思いで頼みにしていた妻が、白い領巾に隠れて死の国へ去った。形見の幼子が泣くたびに、男の身で抱きかかえ、昼も夜も嘆き暮らす。妻がいると聞いた羽易の山に分け入っても、その姿は見えない。泣血哀慟歌の第二首。

月の照る秋の夜、山道のほとりで男が幼子を胸に抱き、亡き妻を思って遠くを見つめている
月の照る秋の夜、山道のほとりで男が幼子を胸に抱き、亡き妻を思って遠くを見つめている

題詞(柿本朝臣人麿、妻死せし後、泣血哀慟して作れる歌)第二首

  1. 1現うつ現うつうつ身せみ身せみせみととと念おも念おもおもひひいししし時とき時ときときににに打蟬等 念之時爾210 長歌
  2. 2取と取ととりりり持も持ももちちちててて吾わ吾わわががが二ふた二ふたふた人り人りり見み見みみししし取持而 吾二人見之
  3. 3趍はしり趍はしりはしりののの堤つつみ堤つつみつつみににに立た立たたてててるるる趍出之 堤爾立有
  4. 4槻つき槻つきつきののの木き木ききのののこちごちこちごちこちごちののの枝え枝ええののの槻木之 己知碁智乃枝之
  5. 5春はる春はるはるののの葉は葉ははののの茂しげ茂しげしげきききががが如ごと如ごとごとくくく春葉之 茂之如久
  6. 6念おも念おもおもへへえりりりししし妹いも妹いもいもにににはははあれあれあれどどど念有之 妹者雖有
  7. 7憑たの憑たのたのめめめりりりししし兒こ兒ここらららにににはははあれあれあれどどど憑有之 兒等爾者雖有
  8. 8世よ世よよののの中なか中なかなかををを背そむ背そむそむきききししし得え得ええねねねばばば世間乎 背之不得者
  9. 9かぎろひかぎろひかぎろいののの燃も燃ももゆるゆるゆる荒あら荒あらあら野ぬ野ぬぬににに蜻火之 燎流荒野爾
  10. 10白しろ白しろしろ妙たへ妙たへたえののの天あま天あまあま領ひ領ひひ巾れ巾れれ隱がく隱がくがくりりり白妙之 天領巾隱
  11. 11鳥とり鳥とりとりじものじものじもの朝あさ朝あさあさ立だ立だだちちちいましいましいましててて鳥自物 朝立伊麻之弖
  12. 12入いり入いりいり日ひ日ひひなすなすなす隱かく隱かくかくりりりにににしかしかしかばばば入日成 隱去之鹿齒
  13. 13吾わぎ吾わぎわぎ妹も妹もも子こ子ここががが形かた形かたかた見み見みみににに置お置おおけけけるるる吾妹子之 形見爾置
  14. 14若わか若わかわかききき兒こ兒ここののの乞こ乞ここひひい泣な泣ななくくく毎ごと毎ごとごとににに若兒乃 乞泣每
  15. 15取と取ととりりり與あた與あたあたふふう物もの物ものものししし無な無ななけれけれければばば取與 物之無者
  16. 16男をとこ男をとこおとこじものじものじもの腋わき腋わきわきばさみばさみばさみ持も持ももちちち鳥穗自物 腋挾持
  17. 17吾わぎ吾わぎわぎ妹も妹もも子こ子ここととと二ふた二ふたふた人り人りり吾わ吾わわががが宿ね宿ねねししし吾妹子與 二人吾宿之
  18. 18枕まくら枕まくらまくらづくづくずく嬬つま嬬つまつま屋や屋ややののの内うち内うちうちににに枕付 嬬屋之內爾
  19. 19晝ひる晝ひるひるはははもももうらうらうらさびさびさび暮くら暮くらくらししし晝羽裳 浦不樂晩之
  20. 20夜よる夜よるよるはははももも息いき息いきいきづきづきずき明あか明あかあかししし夜者裳 氣衝明之
  21. 21嘆なげ嘆なげなげけけけどもどもどもせせせむむんすべすべすべ知し知ししらららににに嘆友 世武爲便不知爾
  22. 22戀こ戀ここふれふれうれどもどもども逢あ逢ああふふう因よし因よしよしををを無な無ななみみみ戀友 相因乎無見
  23. 23大おほ大おほおお鳥とり鳥とりとりのののののの山やま山やまやまににに大鳥 羽易乃山爾
  24. 24吾わ吾わわががが戀こ戀ここふるふるうる妹いも妹いもいもははは坐いま坐いまいますすすととと吾戀流 妹者伊座等
  25. 25人ひと人ひとひとののの言い言いいへへえばばば石いは石いはいわ根ね根ねねさくみさくみさくみててて人之云者 石根左久見
  26. 26なづみなづみなずみ來こ來ここししし吉よ吉よよくくくもももぞぞぞなきなきなき名積來之 吉雲曾無寸
  27. 27現うつ現うつうつ身せみ身せみせみととと念おも念おもおもひひいししし妹いも妹いもいもががが打蟬跡 念之妹之
  28. 28玉たま玉たまたまかぎるかぎるかぎるほのかほのかほのかにににだにだにだにももも見み見みみえええぬぬぬ思おも思おもおもへへえばばば珠蜻 髣髴谷裳 不見思者
  29. 29去年こぞ去年こぞこぞ見み見みみてててししし去年見而之211 短歌
  30. 30秋あき秋あきあきののの月つく月つくつく夜よ夜よよははは秋乃月夜者
  31. 31照て照ててらららせせせれれれどどど雖照
  32. 32相あひ相あひあい見み見みみししし妹いも妹いもいもははは相見之妹者
  33. 33いやいやいや年とし年としとしさかるさかるさかる彌年放
  34. 34ををを衾道乎212 短歌
  35. 35引手ひきて引手ひきてひきてののの山やま山やまやまににに引手乃山爾
  36. 36妹いも妹いもいもををを置お置おおきききててて妹乎置而
  37. 37山やま山やまやま路ぢ路ぢじををを行ゆ行ゆゆけけけばばば山徑往者
  38. 38生い生いいけけけりりりともともともなしなしなし生跡毛無

引用の仕方

レポート・論文で引用する場合の表記例です。行番号を選んでから開くと、その行へのリンクになります。

現代語訳

〔210〕この世に生きていると思っていた時に、手に取り持って二人で見た、家の前の堤に立つ槻の木の、あちこちの枝の春の葉が茂っているように、深く思っていた妻ではあるけれど、頼みにしていた妻ではあるけれど、世の定めに背くことはできないので、(かぎろひの)陽炎の燃える荒野に、白い天の領巾に隠れて、(鳥じもの)朝早く立って行き、入り日のように隠れてしまったので、妻が形見に残していった幼子が、物をねだって泣くたびに、与える物もないので、男の身でありながら、脇にかかえて、妻と二人で寝た(枕づく)寝屋の中で、昼はさびしく暮らし、夜はため息をついて明かし、嘆くけれどどうしようもなく、恋い慕うけれど逢う手だてもないので、(大鳥の)羽易の山に、私の恋い慕う妻がいらっしゃると人が言うので、岩を踏み分けて苦労してやって来たけれど、何のかいもない。この世に生きていると思っていた妻が、(玉かぎる)ほのかにさえも見えないことを思うと。

〔211〕去年見た秋の月は今年も照らしているけれど、ともに見た妻は、いよいよ年月とともに遠ざかっていく。

〔212〕衾道の引手の山に妻を置いて、山道を帰っていくと、生きている心地もしない。

意訳

妻は幼い子を残して亡くなった。母を恋しがって泣く子に与えるものもなく、父は不慣れな手つきで子を脇に抱え、妻と過ごした寝屋で昼も夜も嘆き暮らす。死者が山に住むという言い伝えを聞いて羽易の山に分け入っても、妻の姿はほのかにさえ見えない。211番では、変わらず照る秋の月と遠ざかる妻とを対比させ、212番では、妻を葬った山からひとり帰る道の、生きた心地もしない思いを歌う。

語釈・文法注

趍出(はしりで)
家から走り出たところ、家の前。
羽易(はがひ)の山
大和国の山。春日山の一部、または竜王山とする説がある。
衾道(ふすまぢ)
「引手」にかかる枕詞とも地名ともいう。

文法・本文

男じもの(本文)
『白文万葉集』は原文を「鳥穗自物」とするが、底本の『新訓万葉集』は「男じもの」と訓む。
見えぬ思へば
「見えぬ(ことを)思へば」の意。

和歌

作者
柿本人麻呂(生没年未詳(7世紀後半〜8世紀初め))
持統天皇・文武天皇の時代に宮廷に仕えた歌人。
出典
『万葉集』巻第二・挽歌・210〜212番
歌体
長歌(五七をくり返し、五七七で結ぶ)
時期
第2期(672〜710年(壬申の乱〜平城京遷都))
状況
柿本人麻呂の泣血哀慟歌(207〜212)の第二組。幼子を残して亡くなった妻を悼む長歌と短歌。

修辞

対句
「念へりし妹にはあれど」と「憑めりし兒らにはあれど」、「晝はもうらさび暮し」と「夜はも息づき明かし」、「嘆けどもせむすべ知らに」と「戀ふれども逢ふ因を無み」など。
比喩
「春の葉の茂きが如く」と、妻への思いの深さを茂る葉にたとえる。

解説

第一首(207番)が、人目を忍ぶ妻の急死を描いたのに対し、この第二首は、幼子を残して亡くなった妻と、残された父子の悲しみを描く。泣く子を「男じもの」脇に抱えるという描写は、母を失った子を育てる父親の姿を具体的に表しており、万葉集の中でも特に胸を打つ場面である。

死者は山に入るという古代の他界観にもとづいて、人麻呂は妻を探しに山に分け入る。しかし妻の姿は見えず、211番の秋の月、212番の帰り道と、喪失の悲しみが静かに深まっていく。或本の歌(213〜216番)がこの後に続く。

関連

出典

底本
佐佐木信綱編『新訓万葉集』上巻 岩波文庫、昭和2年(1927)、73頁(コマ40)。国立国会図書館デジタルコレクション
原文
佐佐木信綱編『白文万葉集』上巻 岩波書店、昭和24年(1949)、68頁(コマ40)。万葉仮名の原文。国立国会図書館デジタルコレクション
校訂・訳・注
古典ライブラリー編集部
更新日