万葉集 巻第二 207〜209番
天飛ぶや 輕の路は
人目を忍んで通った妻が、黄葉が散るように亡くなったと使いが告げる。せめて面影をと軽の市に立っても、似た人さえ通らない。妻の名を呼んで袖を振るばかり。柿本人麻呂の「泣血哀慟歌」の第一首。

題詞柿本朝臣人麿、妻死せし後、泣血哀慟して作れる歌二首并に短歌(第一首)
- 1天天あま飛飛とぶぶぶややや輕輕かるののの路路みちははは天飛也 輕路者207 長歌
- 2吾吾わぎ妹妹も子子こががが里里さとにににしししあれあれあればばば吾妹兒之 里爾思有者
- 3ねもころねもころねもころににに見見みまくまくまく欲欲ほしけしけしけどどど懃 欲見騰
- 4止止やまままずずず行行ゆかかかばばば人人ひと目目めををを多多おおみみみ不止行者 人目乎多見
- 5數數まね多多おおくくく行行ゆかかかばばば人人ひと知知しりりりぬぬぬべみべみべみ眞根久往者 人應知見
- 6狹狹さ根根ね後後のちももも逢逢あははわむむんととと狹根葛 後毛將相等
- 7大大おお船船ぶねののの思思おもひひい憑憑たのみみみててて大船之 思憑而
- 8玉玉たまかぎるかぎるかぎる磐磐いわ垣垣がき淵淵ふちののの玉蜻 磐垣淵之
- 9隱隱こもりりりのみのみのみ戀戀こひひいつつつつつつあるあるあるににに隱耳 戀管在爾
- 10渡渡わたるるる日日ひののの暮暮くれれれ去去ぬるるるががが如如ごと度日乃 晩去之如
- 11照照てるるる月月つきののの雲雲くも隱隱がくるるる如如ごと照月乃 雲隱如
- 12奧奧おきつつつ藻藻もののの靡靡なびきききししし妹妹いもははは奧津藻之 名延之妹者
- 13黄黄もみ葉葉じ葉葉ばののの過過すぎぎぎててて去去いにににきききととと黄葉乃 過伊去等
- 14玉玉たま梓梓ずさののの使使つかいののの言言いへへえばばば玉梓之 使乃言者
- 15梓梓あずさ弓弓ゆみ聲聲おとににに聞聞ききききててて梓弓 聲爾聞而
- 16言言いははわむむん術術すべ爲爲せむむんすべすべすべ知知しらららににに將言爲便 世武爲便不知爾
- 17聲聲おとのみのみのみををを聞聞ききききてててありありあり得得えねねねばばば聲耳乎 聞而有不得者
- 18吾吾わががが戀戀こふるふるうる千千ち重重へののの一一ひと重重へももも吾戀 千重之一隔毛
- 19慰慰なぐさむるむるむる情情こころもももありありありやややととと遣悶流 情毛有八等
- 20吾吾わぎ妹妹も子子こががが止止やまままずずず出出いででで見見みししし吾妹子之 不止出見之
- 21輕輕かるののの市市いちににに吾吾わががが立立たちちち聞聞きけけけばばば輕市爾 吾立聞者
- 22玉玉たま襷襷だすき畝火畝火うねびののの山山やまににに玉手次 畝火乃山爾
- 23喧喧なくくく鳥鳥とりののの音音こえももも聞聞きこえええずずず喧鳥之 音母不所聞
- 24玉玉たま桙桙ほこののの道道みち行行ゆくくく人人ひとももも玉桙 道行人毛
- 25一一ひと人人りだにだにだに似似にてててししし行行ゆかかかねねねばばば獨谷 似之不去者
- 26すべすべすべをををなみなみなみ妹妹いもががが名名な喚喚よびびびててて袖袖そでぞぞぞ振振ふりりりつるつるつる爲便乎無見 妹之名喚而 袖曾振鶴
- 27秋秋あき山山やまののの秋山之208 短歌
- 28黄黄もみ葉葉じををを茂茂しげみみみ黄葉乎茂
- 29迷迷まどひひいぬるぬるぬる迷流
- 30妹妹いもををを求求もとめめめむむん妹乎將求
- 31山山やま道道じ知知しらららずずずももも山道不知母
- 32黄黄もみ葉葉じ葉葉ばののの黄葉之209 短歌
- 33落落ちりりり去去ゆくくくなべなべなべににに落去奈倍爾
- 34玉玉たま梓梓ずさののの玉梓之
- 35使使つかいををを見見みれれればばば使乎見者
- 36逢逢あひひいししし日日ひ念念おもほほおゆゆゆ相日所念
現代語訳
〔207〕(天飛ぶや)軽の道は、妻の里であるので、心ゆくまで見たいと思うけれど、絶えず行ったら人目が多いので、たびたび行ったら人に知られてしまうだろうから、(狹根葛)後にでも逢おうと、(大船の)頼みに思って、(玉かぎる)岩に囲まれた淵のようにひそかに恋い慕っていたところへ、空を渡る日が暮れていくように、照る月が雲に隠れるように、(奥つ藻の)なびき寄り添った妻は、(黄葉の)この世を去ってしまったと、(玉梓の)使いが言うので、(梓弓)その知らせを聞いて、言うすべもなすすべもわからず、知らせを聞いただけではいられないので、私の恋しさの千分の一でも慰められるかと、妻がいつも出かけて見ていた軽の市に、私が立って耳をすますと、(玉襷)畝傍の山に鳴く鳥の声のように、妻の声も聞こえず、(玉桙の)道を行く人も、一人として妻に似た人も行かないので、どうしようもなくて、妻の名を呼んで袖を振ったことだ。
〔208〕秋の山の黄葉が茂っているので、迷い入ってしまった妻を探し求めようにも、山道がわからないことだ。
〔209〕黄葉が散っていくにつれて、(玉梓の)使いがやって来るのを見ると、妻と逢った日のことが思い出される。
意訳
人麻呂には、軽の里に人目を忍んで通う妻がいた。いつかは堂々と逢おうと思っていたその妻が、突然亡くなったという知らせが届く。人麻呂は、せめて妻の声や面影を求めて、妻がよく出かけていた軽の市に立つ。しかし人の行き交う市にも妻の声は聞こえず、似た人さえ通らない。どうしようもなく、妻の名を呼んで袖を振る。人麻呂の挽歌の中でも、個人的な悲しみを最も痛切に表した作品として名高い。
語釈・文法注
- 狹根葛(さねかづら)
- サネカズラ。つるが分かれてもまた会うことから、「後も逢はむ」にかかる枕詞。
文法・本文
- 人知りぬべみ
- 「べみ」は「べし」の語幹に「み」が付いた形。人に知られてしまいそうなので。
- 袖ぞ振りつる
- 「ぞ」の結びで連体形。袖を振るのは、魂を呼び寄せるしぐさ。
和歌
- 作者
- 柿本人麻呂(生没年未詳(7世紀後半〜8世紀初め))
持統天皇・文武天皇の時代に宮廷に仕えた歌人。 - 出典
- 『万葉集』巻第二・挽歌・207〜209番
- 歌体
- 長歌(五七をくり返し、五七七で結ぶ)
- 時期
- 第2期(672〜710年(壬申の乱〜平城京遷都))
- 状況
- 柿本人麻呂が、妻を亡くした後、血の涙を流すほど激しく悲しんで詠んだ二組の長歌と短歌(207〜212)の第一組。妻は軽(奈良県橿原市大軽町あたり)の里に住んでいた。
修辞
- 比喩
- 「渡る日の暮れ去るが如」「照る月の雲隠る如」で、妻の死を日没や月の隠れることにたとえる。
- 枕詞
- 「天飛ぶや」「狹根葛」「大船の」「玉かぎる」「奥つ藻の」「黄葉の」「玉梓の」「梓弓」「玉襷」「玉桙の」など多数。
解説
題詞の「泣血哀慟」は、血の涙を流して嘆き悲しむという意味で、人麻呂の悲しみの深さを表している。二首の長歌のうち、この第一首は、人目を忍んで通っていた妻の急死を描く。第二首(210番)は、子をなした妻の死と、残された幼子を抱える夫の姿を描いており、二人の異なる妻をそれぞれ詠んだものとみる説もある。
妻の声を求めて人の行き交う市にたたずみ、それでも見つからずに名を呼んで袖を振るという結びは、喪失の悲しみを具体的な行動で表現した、万葉集屈指の名場面である。短歌の208番は、死者が山に入るという信仰をふまえ、妻が黄葉の茂る山に迷い入ったと歌っている。
関連
出典
- 底本
- 佐佐木信綱編『新訓万葉集』上巻 岩波文庫、昭和2年(1927)、72頁(コマ40)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 原文
- 佐佐木信綱編『白文万葉集』上巻 岩波書店、昭和24年(1949)、67頁(コマ39)。万葉仮名の原文。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日