古典ライブラリー

万葉集 巻第二 153番

鯨魚取り 淡海の海を

倭姫王(やまとひめのおおきみ)

琵琶湖を沖から、岸辺から漕いでくる船よ、櫂でひどく水をはねないでおくれ。亡き夫が愛した鳥が飛び立ってしまうから。天智天皇の殯の時の倭姫王の長歌。

静かな琵琶湖を女性が岸辺から見つめ、水鳥の群れと小舟が水面に浮かんでいる
静かな琵琶湖を女性が岸辺から見つめ、水鳥の群れと小舟が水面に浮かんでいる

題詞太后の御歌一首

  1. 1鯨いさ鯨いさいさ魚な魚なな取と取ととりりり淡海あふみ淡海あふみおうみののの海うみ海うみうみををを鯨魚取 淡海乃海乎
  2. 2沖おき沖おきおき放さ放ささけけけててて榜こ榜ここぎぎぎ來く來くくるるる船ふね船ふねふね奧放而 榜來船
  3. 3邊へ邊へへ附つ附つつきききててて榜こ榜ここぎぎぎ來く來くくるるる船ふね船ふねふね邊附而 榜來船
  4. 4沖おき沖おきおきつつつ甚いた甚いたいたくくくななな撥は撥ははねねねそそそ奧津加伊 痛勿波禰曾
  5. 5邊へ邊へへつつつ櫂かい櫂かいかい甚いた甚いたいたくくくななな撥は撥ははねねねそそそ邊津加伊 痛莫波禰曾
  6. 6若わか若わかわか草くさ草くさくさののの夫つま夫つまつまののの念おも念おもおもふふう鳥とり鳥とりとり立た立たたつつつ若草乃 嬬之 念鳥立

引用の仕方

レポート・論文で引用する場合の表記例です。行番号を選んでから開くと、その行へのリンクになります。

現代語訳

(鯨魚取り)近江の湖を、沖を遠く漕いでくる船よ、岸辺に沿って漕いでくる船よ、沖の櫂でひどく水をはねないでおくれ、岸の櫂でひどく水をはねないでおくれ。(若草の)夫が愛した鳥が飛び立ってしまうから。

意訳

琵琶湖には、生前の天皇が愛でた水鳥がいる。その鳥は、亡き天皇の魂の宿るものとも感じられた。皇后は、湖を行き交う船に「櫂で水をはねないで、鳥が飛び立ってしまうから」と呼びかける。夫の思い出が残る鳥を、そっとそのままにしておきたいという、静かで深い悲しみの歌である。

語釈・文法注

櫂(かい)
船を漕ぐ道具。原文は「加伊」と仮名で書く。

文法・本文

甚くな撥ねそ
「な…そ」は禁止。ひどくはねないでおくれ。

和歌

作者
倭姫王(7世紀後半)
天智天皇の皇后。古人大兄皇子の娘。
出典
『万葉集』巻第二・挽歌・153番
歌体
長歌(五七をくり返し、五七七で結ぶ)
時期
第1期(629〜672年(舒明天皇の即位〜壬申の乱))
状況
天智天皇が亡くなった後、皇后の倭姫王が詠んだ長歌。

修辞

対句
「沖放けて榜ぎ來る船」と「邊附きて榜ぎ來る船」、「沖つ櫂甚くな撥ねそ」と「邊つ櫂甚くな撥ねそ」が対になる。
枕詞
「鯨魚取り」が「海」に、「若草の」が「夫」にかかる。

解説

鳥は死者の魂を運ぶもの、あるいは魂そのものと考えられていた。天皇が愛した湖の鳥を驚かせないでほしいという願いには、天皇の魂を静かに守りたいという思いが重ねられている。

147〜149番とあわせて、倭姫王の四首は、天皇の病から死後までの皇后の心を伝えている。対句を重ねた歌謡的な形の中に、抑えた悲しみがにじむ、第1期の挽歌の名作である。

関連

出典

底本
佐佐木信綱編『新訓万葉集』上巻 岩波文庫、昭和2年(1927)、61頁(コマ34)。国立国会図書館デジタルコレクション
原文
佐佐木信綱編『白文万葉集』上巻 岩波書店、昭和24年(1949)、56頁(コマ34)。万葉仮名の原文。国立国会図書館デジタルコレクション
校訂・訳・注
古典ライブラリー編集部
更新日