万葉集 巻第二 153番
鯨魚取り 淡海の海を
琵琶湖を沖から、岸辺から漕いでくる船よ、櫂でひどく水をはねないでおくれ。亡き夫が愛した鳥が飛び立ってしまうから。天智天皇の殯の時の倭姫王の長歌。

題詞太后の御歌一首
現代語訳
(鯨魚取り)近江の湖を、沖を遠く漕いでくる船よ、岸辺に沿って漕いでくる船よ、沖の櫂でひどく水をはねないでおくれ、岸の櫂でひどく水をはねないでおくれ。(若草の)夫が愛した鳥が飛び立ってしまうから。
意訳
琵琶湖には、生前の天皇が愛でた水鳥がいる。その鳥は、亡き天皇の魂の宿るものとも感じられた。皇后は、湖を行き交う船に「櫂で水をはねないで、鳥が飛び立ってしまうから」と呼びかける。夫の思い出が残る鳥を、そっとそのままにしておきたいという、静かで深い悲しみの歌である。
語釈・文法注
- 櫂(かい)
- 船を漕ぐ道具。原文は「加伊」と仮名で書く。
文法・本文
- 甚くな撥ねそ
- 「な…そ」は禁止。ひどくはねないでおくれ。
和歌
- 作者
- 倭姫王(7世紀後半)
天智天皇の皇后。古人大兄皇子の娘。 - 出典
- 『万葉集』巻第二・挽歌・153番
- 歌体
- 長歌(五七をくり返し、五七七で結ぶ)
- 時期
- 第1期(629〜672年(舒明天皇の即位〜壬申の乱))
- 状況
- 天智天皇が亡くなった後、皇后の倭姫王が詠んだ長歌。
修辞
- 対句
- 「沖放けて榜ぎ來る船」と「邊附きて榜ぎ來る船」、「沖つ櫂甚くな撥ねそ」と「邊つ櫂甚くな撥ねそ」が対になる。
- 枕詞
- 「鯨魚取り」が「海」に、「若草の」が「夫」にかかる。
解説
鳥は死者の魂を運ぶもの、あるいは魂そのものと考えられていた。天皇が愛した湖の鳥を驚かせないでほしいという願いには、天皇の魂を静かに守りたいという思いが重ねられている。
147〜149番とあわせて、倭姫王の四首は、天皇の病から死後までの皇后の心を伝えている。対句を重ねた歌謡的な形の中に、抑えた悲しみがにじむ、第1期の挽歌の名作である。
関連
出典
- 底本
- 佐佐木信綱編『新訓万葉集』上巻 岩波文庫、昭和2年(1927)、61頁(コマ34)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 原文
- 佐佐木信綱編『白文万葉集』上巻 岩波書店、昭和24年(1949)、56頁(コマ34)。万葉仮名の原文。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日