万葉集 巻第二 140番
勿念ひと
心配するなとあなたは言うけれど、次に逢えるのがいつと知っていれば、こんなに恋しく思わずにすむのに。人麻呂との別れに際して妻の依羅娘子が詠んだ歌。

題詞柿本朝臣人麿の妻依羅娘子、人麿と相別るる歌
現代語訳
思い悩むなとあなたは言うけれど、また逢える時がいつだと知ってのことなら、私は恋い焦がれないでいられるでしょうに。
意訳
別れぎわに夫は「心配するな、思い悩むな」と慰める。けれども、次にいつ逢えるのかわからない以上、恋しく思わずにはいられない。夫の慰めの言葉を受けとめながらも、別れの不安と寂しさを素直に打ち明けている。石見相聞歌の人麻呂の嘆きに応えるように置かれた、妻の側からの歌である。
語釈・文法注
文法・本文
- 勿念ひと
- 「な…そ」の略形とみて「思い悩むな」の意。
- 知りてか……戀ひざらむ
- 「か」は反語。知っていたら恋い焦がれずにいられようか、という意で、知らないから恋しいのだと表す。
- 吾が戀ひざらむ(本文)
- 底本は、原文を金沢本によって「吾不戀有牟」とする。
和歌
- 作者
- 依羅娘子(7世紀後半〜8世紀初め)
柿本人麻呂の妻。石見で人麻呂と別れたとみられる。人麻呂の死を悼む歌(224・225番)も残している。 - 出典
- 『万葉集』巻第二・相聞・140番
- 歌体
- 短歌(五七五七七)
- 時期
- 第2期(672〜710年(壬申の乱〜平城京遷都))
- 状況
- 柿本人麻呂の妻依羅娘子が、人麻呂と別れるときに詠んだ歌。石見相聞歌の後に置かれ、巻第二の相聞の最後の歌となっている。
解説
石見相聞歌の後に置かれたこの歌は、人麻呂の別れの歌に対する妻の答えとして読むことができる。夫の雄大な長歌に対し、妻の歌は短く素朴だが、いつ逢えるかわからない不安が率直に表れている。
依羅娘子は、のちに人麻呂が石見で亡くなったとき、その死を悼む歌(224・225番)を詠んでいる。巻第二の相聞の部はこの歌で終わり、続いて挽歌の部が始まる。
関連
出典
- 底本
- 佐佐木信綱編『新訓万葉集』上巻 岩波文庫、昭和2年(1927)、59頁(コマ33)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 原文
- 佐佐木信綱編『白文万葉集』上巻 岩波書店、昭和24年(1949)、54頁(コマ33)。万葉仮名の原文。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日