万葉集 巻第二 141〜142番
磐代の
磐代の浜の松の枝を結んで、無事を祈る。もし命があったなら、またここに帰って見よう。家にいれば器に盛る飯を、旅の身なので椎の葉に盛る。謀反の罪で護送される有間皇子の二首。

題詞後岡本宮御宇天皇代(天豐財重日足姫天皇) 有間皇子、自ら傷みて松が枝を結べる歌二首
現代語訳
〔141〕磐代の浜の松の枝を引き結んで(無事を祈っていくが)、もし無事でいられたなら、また帰ってきてこの松を見よう。
〔142〕家にいるならば、器に盛って食べる飯を、(草枕)旅の身であるので、椎の葉に盛ることだ。
意訳
謀反の疑いで捕らえられ、天皇のいる紀伊の牟婁の湯へ護送される途中、十九歳の有間皇子は、磐代の浜の松の枝を結んで無事を祈った。草や木の枝を結ぶのは、命や旅の安全を祈るまじないであった。「無事であったなら、またこの松を見よう」と願いながら、皇子は自分が生きて帰れないことを予感していたのかもしれない。実際に皇子は、帰り道で処刑された。
語釈・文法注
- 磐代(いはしろ)
- 紀伊国の地名。現在の和歌山県日高郡みなべ町岩代。都から牟婁の湯へ向かう道の途中にある。
- 引き結び
- 松の枝を引き寄せて結ぶこと。草や木の枝を結ぶのは、命の無事や再会を祈るまじないであった。
- 笥(け)
- 飯を盛る器。
- 眞幸く(まさきく)
- 無事で、つつがなく。「ま」はほめる意を添える接頭語。
文法・本文
- 眞幸くあらば
- 未然形+「ば」で仮定条件。もし無事であったならば。
- 亦かへり見む
- 「む」は意志の助動詞。また帰ってきて見よう。
- 部立
- この歌は巻第二の挽歌の最初に置かれている。皇子の死後に、その死を悼む歌の始まりとして位置づけられたもの。
和歌
- 作者
- 有間皇子(640–658)
孝徳天皇の皇子。父の没後、斉明天皇の時代に、蘇我赤兄にそそのかされて謀反を企てたとして捕らえられた。紀伊の牟婁の湯にいた天皇と中大兄皇子のもとへ送られて尋問を受け、帰り道の藤白坂で処刑された。十九歳であった。 - 出典
- 『万葉集』巻第二・挽歌・141〜142番
- 歌体
- 短歌(五七五七七)
- 時期
- 第1期(629〜672年(舒明天皇の即位〜壬申の乱))
- 状況
- 斉明天皇4年(658)11月、謀反の疑いで捕らえられた有間皇子が、天皇と中大兄皇子のいる紀伊の牟婁の湯(和歌山県白浜町の湯崎温泉)へ護送される途中、磐代で詠んだとされる二首の一首目。
修辞
- 仮定の表現
- 「眞幸くあらば」と、無事を願いながらも、それがかなわないかもしれないという不安を、仮定の形でにじませている。
解説
有間皇子は、孝徳天皇の皇子である。父の孝徳天皇は、中大兄皇子と対立したまま難波の宮で亡くなった。有間皇子は、狂気を装って身を守ろうとしたとも伝えられるが、斉明天皇4年、蘇我赤兄に誘われて謀反の計画を口にしたところ、その赤兄に捕らえられた。紀伊の牟婁の湯へ送られ、中大兄皇子に「なぜ謀反を企てたのか」と問われると、「天と赤兄とが知っているだろう。私はまったく知らない」と答えたと『日本書紀』は伝える。皇子は帰り道の藤白坂で絞首された。
二首目の142番は、家にいれば器に盛る飯を、旅の身なので椎の葉に盛ると歌う。食事という日常の小さな事柄に、囚われの旅の境遇を託した歌で、一首目とともに、死を前にした若い皇子の歌として、後の時代の人々の深い同情を集めた。のちに長忌寸意吉麻呂や山上憶良、柿本人麻呂歌集の歌などが、この結び松を見て皇子をしのぶ歌を詠んでいる(143〜146番)。巻第二の挽歌がこの歌で始まるのも、皇子の悲劇がそれだけ強く記憶されていたことを物語っている。
関連
出典
- 底本
- 佐佐木信綱編『新訓万葉集』上巻 岩波文庫、昭和2年(1927)、60頁(コマ34)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 原文
- 佐佐木信綱編『白文万葉集』上巻 岩波書店、昭和24年(1949)、54頁(コマ33)。万葉仮名の原文。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日