万葉集 巻第二 116番
人言を
人の噂がうるさく、わずらわしいので、生まれて初めて朝の川を渡ってしまった。密会が知られた後の但馬皇女の歌。

題詞但馬皇女、高市皇子の宮に在せる時、竊に穂積皇子に接ひき。事既にあらはれて後の御作歌
現代語訳
人の噂がうるさく、わずらわしいので、生まれてこのかた渡ったことのない朝の川を、私は渡るのです。
意訳
二人の密会はついに人々に知られてしまった。噂がうるさいので、皇女は人目を避けて、まだ暗い朝のうちに、自分の足で冷たい川を渡って恋人のもとへ向かう。身分の高い皇女が、生まれて初めて自ら川を渡るという行為に、すべてを賭けた恋の決意がこめられている。
語釈・文法注
- 朝川渡る
- 朝早く川を渡る。人目を避け、自ら恋人のもとへ行くこと。
文法・本文
- しげみ言痛み
- 「…み」で理由を表す。噂が多く、うるさいので。
- おのが世に(本文)
- 『白文万葉集』は原文を「己世爾」とし、元暦校本の「己母世爾」を注記する。
和歌
- 作者
- 但馬皇女(?–708)
天武天皇の皇女。異母兄の高市皇子の宮にいたが、同じく異母兄の穂積皇子と恋をした。 - 出典
- 『万葉集』巻第二・相聞・116番
- 歌体
- 短歌(五七五七七)
- 時期
- 第2期(672〜710年(壬申の乱〜平城京遷都))
- 状況
- 但馬皇女が高市皇子の宮にいたとき、ひそかに穂積皇子と通じ、そのことが知られてしまった後に詠んだ歌。
解説
皇女が自ら川を渡って男のもとへ行くのは、当時の常識からすれば考えられないことであった。「おのが世にいまだ渡らぬ」と言うことで、その行為がどれほど思い切ったものであったかを強調している。
114〜116番の三首は、恋の始まりから、引き裂かれる悲しみ、そして噂の中で恋をつらぬく決意へと、物語のように展開する。万葉集の恋の歌の中でも特に情熱的な歌群として知られる。
関連
出典
- 底本
- 佐佐木信綱編『新訓万葉集』上巻 岩波文庫、昭和2年(1927)、54頁(コマ31)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 原文
- 佐佐木信綱編『白文万葉集』上巻 岩波書店、昭和24年(1949)、49頁(コマ30)。万葉仮名の原文。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日