万葉集 巻第二 105〜106番
わが背子を
ひそかに伊勢まで会いに来た弟を、大和へ送り返す夜。夜が更けて明け方の露にぬれるまで、姉はいつまでも立ちつくしていた。二人でも越えにくい秋の山を、弟はひとりでどう越えていくのだろう。大伯皇女の二首。

題詞藤原宮御宇高天原廣野姫天皇代 大津皇子竊に伊勢神宮に下りて上り來ませる時、大泊皇女の御作歌二首
現代語訳
〔105〕わが弟を大和へ帰すというので、見送っているうちに夜も更けて、明け方の露に、私は立ちつくしてぬれてしまった。
〔106〕二人で行っても行き過ぎるのが難しい秋の山を、どのようにしてあなたはひとりで越えていくのだろうか。
意訳
父の天武天皇が亡くなった直後、弟の大津皇子は、ひそかに伊勢の斎宮にいる姉を訪ねてきた。皇位をめぐって危うい立場にあった弟が、何を打ち明けたのかはわからない。姉は、二度と会えないかもしれない弟を夜更けに送り出し、その姿が見えなくなっても、明け方の冷たい露にぬれるまで立ちつくしていた。露は涙を思わせ、言葉にできない不安と悲しみが、立ちつくす姿だけで表されている。
語釈・文法注
- 背子(せこ)
- 女性が夫や恋人、兄弟など親しい男性を呼ぶ語。ここでは弟の大津皇子。
- 曉露(あかときつゆ)
- 夜明け前に降りる露。「あかとき」は「あかつき」の古い形で、夜が明ける前のまだ暗いころ。
- 立ち霑れし
- 立ったまま露にぬれた。「し」は過去の助動詞「き」の連体形で、連体形で結んで余韻を残す。
文法・本文
- さ夜更けて
- 「さ」は語調を整える接頭語。夜が更けて。
- 原文「雞鳴露」
- 原文は「あかとき」を「雞鳴(にわとりが鳴く時)」と書く。意味をとって漢字を当てた義訓の例。
- 吾が立ち霑れし
- 連体形止め。「ぬれてしまったことよ」という詠嘆がこもる。
和歌
- 作者
- 大伯皇女(661–701)
天武天皇の皇女で、母は大田皇女(天智天皇の皇女)。大津皇子の同母の姉。天武天皇の即位後、伊勢神宮に仕える斎王(斎宮)となった。弟の死後に都へ戻り、その死を悼む歌を残している。題詞では「大泊皇女」と書かれている。 - 出典
- 『万葉集』巻第二・相聞・105〜106番
- 歌体
- 短歌(五七五七七)
- 時期
- 第2期(672〜710年(壬申の乱〜平城京遷都))
- 状況
- 天武天皇が亡くなった朱鳥元年(686)の秋、大津皇子がひそかに伊勢神宮に下り、斎宮の姉を訪ねて大和へ戻るとき、姉の大伯皇女が詠んだ二首の一首目。大津皇子はこの直後、謀反の疑いで捕らえられ、死を賜った。
修辞
- 連体形止め
- 「吾が立ち霑れし」と連体形で結び、言い尽くせない思いを余韻として残す。
- 時間の推移
- 「さ夜更けて」から「曉露に」へと、見送りに費やした長い時間を描き、別れがたい心を表す。
解説
朱鳥元年(686)九月に天武天皇が亡くなると、皇后の鸕野讃良皇女(のちの持統天皇)は、わが子の草壁皇子を皇位につけようとした。草壁皇子の異母弟の大津皇子は、文武にすぐれ人望も厚かったため、その競争相手とみなされていた。題詞の「竊に(ひそかに)」という言葉は、大津皇子が人目を避けて姉に会いに行ったことを示しており、皇子の置かれた緊迫した状況を感じさせる。
大津皇子は伊勢から戻って間もなく、謀反の疑いで捕らえられ、十月に二十四歳で死を賜った。大伯皇女は、この歌に続けて「二人行けど行き過ぎがたき秋山をいかにか君がひとり越えなむ」(106番)と詠み、弟が一人で秋の山を越えていく姿を案じている。弟の死後に詠んだ挽歌(巻第二・163〜166番)とあわせて、姉弟の悲劇を伝える歌として広く知られている。
関連
出典
- 底本
- 佐佐木信綱編『新訓万葉集』上巻 岩波文庫、昭和2年(1927)、53頁(コマ30)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 原文
- 佐佐木信綱編『白文万葉集』上巻 岩波書店、昭和24年(1949)、47頁(コマ29)。万葉仮名の原文。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日