万葉集 巻第一 58番
何所にか
今ごろどこで船泊りをしているのだろう。さっき安礼の崎を漕ぎめぐって行った、あの棚無し小舟は。旅先で見た小舟の行方を思う高市黒人の歌。

題詞(二年壬寅、太上天皇參河國に幸せる時の歌)
現代語訳
今ごろどこで船泊りをしているのだろうか。安礼の崎を漕ぎめぐって行った、あの棚無し小舟は。
意訳
旅の途中、海辺で一艘の小さな舟が岬をまわって消えていくのを見た。やがて日が暮れる。あの舟は今夜どこに泊まるのだろう。自分も旅の身である黒人は、行方の知れない小舟に自分の心細さを重ねている。見たものをそのまま描きながら、言葉にしない寂しさがにじむ、黒人らしい歌である。
語釈・文法注
- 安禮(あれ)の埼
- 三河国の岬とされるが、所在ははっきりしない。
- こぎ回み
- 漕ぎめぐって。「たむ」はめぐる意。
- 棚無し小舟(たななしをぶね)
- 舟べりに板(棚)のない、小さな舟。
文法・本文
- 船泊すらむ
- 「らむ」は現在推量。上の「か」と呼応して連体形で結ぶ。
- 安禮の埼(本文)
- 『白文万葉集』は原文を「安禮乃埼」とし、元暦校本の「崎」を注記する。
和歌
- 作者
- 高市黒人(生没年未詳(7世紀末〜8世紀初め))
持統・文武天皇の時代の歌人。旅の途中の景色を、静かで寂しさのこもった目で詠んだ短歌にすぐれ、万葉集に十数首を残す。 - 出典
- 『万葉集』巻第一・雑歌・58番
- 歌体
- 短歌(五七五七七)
- 時期
- 第2期(672〜710年(壬申の乱〜平城京遷都))
- 状況
- 大宝2年(702)10月、持統太上天皇の三河行幸に従った高市黒人の歌。
修辞
- 倒置・体言止め
- 「棚無し小舟」を最後に置き、去っていった舟の姿を印象づける。
解説
高市黒人は、旅の歌を得意とした歌人である。黒人の歌は、柿本人麻呂のような雄大さはないが、目の前の小さな景物をじっと見つめ、旅人の孤独や寂しさをひそやかに表す点に特徴がある。
この歌でも、見えなくなった小舟の行方を気にかけるという、ささやかな心の動きを描きながら、旅の夕暮れの心細さを伝えている。行幸に従う華やかな旅の中でも、黒人の目は一艘の小舟に向けられている。
関連
出典
- 底本
- 佐佐木信綱編『新訓万葉集』上巻 岩波文庫、昭和2年(1927)、31頁(コマ19)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 原文
- 佐佐木信綱編『白文万葉集』上巻 岩波書店、昭和24年(1949)、24頁(コマ18)。万葉仮名の原文。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日