魏志倭人伝 第6章
暮らしと葬送・持衰
倭の地は暖かく、冬も夏も生野菜を食べ、皆はだしで歩く。体に朱を塗り、高坏を使って手で食べる。死者は棺に納めて土を盛った塚に葬り、十日あまり喪に服して、喪主は泣き、ほかの人は歌い舞い酒を飲む。海を渡るときは「持衰」という者を一人立て、航海の吉凶の責めを負わせる。

- 1倭倭わののの地地ちははは溫溫おん暖暖だんにしてにしてにして、、、冬冬とう夏夏か生生せい菜菜さいををを食食くらふふう。。。皆皆みな跣跣せんなりなりなり。。。屋屋おく室室しつ有有ありりり。。。父父ふ母母ぼ兄兄けい弟弟てい、、、臥臥が息息そく處處ところををを異異ことにすにすにす。。。丹丹たんををを以以もつててて其其そののの身身しん體體たいににに塗塗ぬるるる。。。中中ちゅう國國ごくののの粉粉ふんををを用用もちゐるがゐるがいるが如如ごときなりきなりきなり。。。食食しょく飲飲いんにはにはには豆豆とうををを用用もちゐゐい、、、手手しゅ食食しょくすすす。。。倭地溫暖冬夏食生菜皆徒跣有屋室父母兄弟臥息異處以朱丹塗其身體如中國用粉也食飲用籩豆手食
- 2其其そののの死死しにはにはには棺棺かん有有ありてりてりて無無なくくく、、、土土つちををを封封ほうじてじてじてををを作作つくるるる。。。始始はじめめめ死死しするやするやするや喪喪もをををむることむることむること十十じゅう餘餘よ日日にち、、、時時ときににに當當あたりてりてりて肉肉にくををを食食くらはずはずわず。。。喪喪そう主主しゅははは哭哭こく泣泣きゅうししし、、、他他た人人にんははは就就つきてきてきて歌歌か舞舞ぶ飲飲いん酒酒しゅすすす。。。已已すでににに葬葬ほうむればればれば、、、家家いえををを舉舉こぞりてりてりて水水すい中中ちゅうににに詣詣いたりてりてりて澡澡そう浴浴よくししし、、、以以もつててて沐沐もくののの如如ごとくすくすくす。。。其死有棺無槨封土作冢始死停喪十餘日當時不食肉喪主哭泣他人就歌舞飲酒已葬舉家詣水中澡浴以如練沐
- 3其其そののの行行こう來來らいしてしてして海海うみををを渡渡わたりりり中中ちゅう國國ごくににに詣詣いたるるるにはにはには、、、恆恆つねににに一一いち人人にんをしてをしてをして頭頭かしらををを梳梳くしけずらずらずらず、、、蟣蟣き蝨蝨しつををを去去さらずらずらず、、、衣衣い服服ふく垢垢こう汚汚おししし、、、肉肉にくををを食食くらはずはずわず、、、婦婦ふ人人じんををを近近ちかづけづけづけずずず、、、喪喪そう人人じんののの如如ごとくせしむくせしむくせしむ。。。之之これををを名名なづけづけづけててて衰衰さいととと爲爲なすすす。。。若若もししし行行ゆくくく者者もの吉吉きつ善善ぜんなればなればなれば、、、共共ともににに其其そののの口口こう・・・財財ざい物物もつををを顧顧かえりみるみるみる。。。若若もししし疾疾しつ病病ぺい有有ありりり、、、暴暴ぼう害害がいににに遭遭あへばへばえば、、、便便すなわちちち之之これををを殺殺ころさんとさんとさんと欲欲ほつすすす。。。其其そののの持持じ衰衰さい謹謹つつしまずとまずとまずと謂謂いへばなりへばなりえばなり。。。其行來渡海詣中國恆使一人不梳頭不去蟣蝨衣服垢汚不食肉不近婦人如喪人名之爲持衰若行者吉善共顧其生口財物若有疾病遭暴害便欲殺之謂其持衰不謹
現代語訳
倭の土地は暖かく、冬も夏も生の野菜を食べる。皆はだしである。家屋があり、父母と兄弟は寝る所を別にしている。朱や丹を体に塗るのは、中国で白粉を用いるようなものである。飲食には高坏(たかつき)を用い、手で食べる。
人が死ぬと、棺はあるが外側の槨(ひつぎを納める室)はなく、土を盛って塚を作る。死んだ当初は、喪に服して十日あまり遺体をとどめ、その間は肉を食べない。喪主は声をあげて泣き、ほかの人々はそばで歌い舞い酒を飲む。葬り終えると、家じゅうの者が水の中に入って体を洗い清める。中国の練沐(喪明けのみそぎ)のようなものである。
倭人が行き来して海を渡り中国へ来るときには、いつも一人の者に、髪をとかさず、しらみを取らず、衣服を垢で汚れたままにし、肉を食べず、女性を近づけず、喪中の人のようにさせておく。これを持衰と名づける。もし旅がうまくいけば、皆でその者に奴隷や財物を与える。もし病人が出たり、暴風などの災難にあったりすれば、すぐにその者を殺そうとする。持衰の慎みが足りなかったからだと言うのである。
意訳
温暖な気候、はだしの生活、高坏で手づかみの食事。倭人伝は、中国とは違う暮らしを淡々と書き留めています。体に朱を塗る習俗は、弥生時代の墓に朱(水銀朱やベンガラ)が多く使われていることとも通じ、赤い色に魔よけの力を認める考え方があったようです。
葬送の記述は、のちの日本の喪の習俗に通じるものが多く見られます。死者をすぐに葬らずに十日あまりとどめるのは、記紀に見える「殯(もがり)」に、喪主が泣き、ほかの人が歌い舞うのは、天若日子の葬儀で八日八夜「遊び」をした神話に、葬儀のあと水に入って体を清めるのは「禊ぎ」に重なります。持衰は、航海の安全を一身に背負って身を慎む人で、吉なら報われ、凶なら殺される――共同体の不安を一人に負わせる、厳しい習俗でした。
語釈・文法注
- 徒跣
- はだし。くつを履かないこと。
- 朱丹
- 赤い顔料。朱(水銀朱)と丹(赤土・鉛丹)。弥生時代の墓では棺の中に朱をまく例が多い。
- 籩豆
- 祭りや食事に使う器。籩は竹で編んだ高坏、豆は木の高坏。弥生時代の遺跡から木製・土製の高坏が多く出土している。
- 槨
- 棺を納める外側の箱や室。中国の墓では棺の外に槨を設けるのが普通だった。
- 冢
- 土を盛って築いた墓。つか。
- 停
- 「喪を停むること十余日」。死者をすぐに葬らずにとどめておくこと。記紀の殯(もがり)にあたるとされる。
- 練沐
- 中国で喪が明けるとき、練った絹の服を着て沐浴すること。
- 持衰
- 航海の間、身を慎んで安全を祈る役の人。「衰」は喪服の意で、喪に服する人のようにふるまうことからいう。
- 生口
- 奴隷、または捕虜。のちの章で魏への献上品として見える。
文法
- 如〜也
- 「如中國用粉也」は「中国の粉を用ゐるが如きなり」。「如し」は比況の助動詞。
- 使〜(使役)
- 「恆使一人不梳頭…」は「恒に一人をして頭を梳らず…せしむ」と訓む。「使A〜」で「Aに〜させる」。
- 便欲〜
- 「便欲殺之」は「便ち之を殺さんと欲す」。「便」は「すなはち」と訓み、「すぐに」の意。
解説
父母と兄弟が寝所を別にするという記述は、中国の儒教的な家族観から見て倭の社会にも礼があると評価したものとも、実際の住まい方を記したものとも読めます。続く朱の化粧、高坏、手食の記述とあわせて、倭人伝は倭人の暮らしを、未開とも文明ともつかない独特のものとして描いています。
持衰の習俗は、近世まで日本の船乗りの間に残った、航海中の禁忌(髪を切らない、女性を船に乗せないなど)につながるものとして、民俗学でも注目されてきました。倭の使者が魏に渡るとき、実際にこうした役の者を伴っていたのでしょう。
関連
出典
- 底本
- 紹興版魏志倭人傳縮寫(橋本増吉『東洋史上より観たる日本上古史研究』第一 巻頭) 大岡山書店、昭和7年(1932)。国立国会図書館デジタルコレクション コマ12(保護期間満了)
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部(原文は底本による。訓み下し・現代語訳・注は当サイト)
- 更新日