源氏物語 第22帖 玉鬘(1)
夕顔をしのぶ右近と筑紫への旅
年月が過ぎても、源氏は夕顔を忘れられない。夕顔の侍女だった右近は紫の上に仕えているが、夕顔が生きていれば明石の君ほどには大切にされたろうにと悲しむ。夕顔の遺児(玉鬘)は、乳母の夫が大宰少弐になったので、四歳で筑紫へ連れて行かれる。乳母たちは夕顔の行方を知らないまま、幼い姫君を船に乗せて都を離れ、母を恋う姫君の言葉に涙しながら、船歌を聞いて歌を詠み交わす。

- 1年年とし月月つきへだゝりへだゝりへだたりぬれぬれぬれどどど飽飽あかかかざりざりざりししし夕顏夕顏ゆうがおをををつゆつゆつゆ忘忘わすれれれ給給たまははわずずず、、、心々心々こころごころなるなるなる人人ひとののの有樣有樣ありさまどもどもどもををを見見み給給たまひひい重重かさぬるぬるぬるにににつけつけつけてててもももあらあらあらましかましかましかばばばとととあはれあはれあわれにににくちをしくくちをしくくちおしくのみのみのみおぼしおぼしおぼし出出いづづず。。。
- 2右近右近うこんははは何何なにののの人人ひと數數かずならならならねねねどどどなほなほなおそのそのそのかたみかたみかたみととと見見み給給たまひひいてててらうたきらうたきろうたきものものものにににおぼしおぼしおぼしたれたれたればばば、、、ふるふるふる人人ひとののの數數かずににに仕仕つかうまつりうまつりうまつり馴馴なれれれたりたりたり須磨須磨すまののの御御おんうつろひうつろひうつろいののの程程ほどにににたいたいたいののの上上うえののの御御おん方方かたににに皆皆みな人々人々びと聞聞きこえええわたしわたしわたし給給たまひひいしししほどほどほどよりよりよりそなたそなたそなたににに侍侍さぶらふふう。。。
- 3心心こころよくよくよくかいかいかいひそめひそめひそめたるたるたるものものものににに女君女君おんなぎみもももおぼしおぼしおぼしたれたれたれどどど、、、心心こころのののうちうちうちにににははは故故こ君君きみものしものしものし給給たまははわましかましかましかばばば明石明石あかしののの御御おん方方かたばかりばかりばかりのののおぼえおぼえおぼえにににははは劣劣おとりりり給給たまははわざらざらざらましましまし、、、さしもさしもさしも深深ふかききき御御おん心心こころざしざしざしなかりなかりなかりけるけるけるをををだにだにだにおとしおとしおとしあふさあふさあうさずずず取取とりりりしたゝめしたゝめしたため給給たまふふう御心御心みこころながさながさながさなりなりなりけれけれければばば、、、まいてまいてまいてやんごとなきやんごとなきやんごとなきつらつらつらにににこそこそこそあらあらあらざらざらざらめめめ、、、このこのこの御御おん殿殿とのうつりうつりうつりののの數數かずののの中中なかにににはははまじらひまじらひまじらい給給たまひひいなななましましましととと思思おもふふうににに飽飽あかかかずずず悲悲かなしくしくしくなむなむなん思思おもひひいけるけるける。。。
- 4かのかのかの西西にしののの京京きょうにににとまりとまりとまりししし若君若君わかぎみをををだにだにだにゆくへゆくへゆくえももも知知しらららずずずひとへひとへひとえににに物物ものををを思思おもひひいつゝみつゝみつつみ「「「又又また今今いま更更さらにににかひなきかひなきかいなきことことことににによりよりよりてててわがわがわがなななもらすもらすもらすななな」」」ととと口口くち固固がためめめ給給たまひひいしししををを憚憚はばかりりり聞聞きこえええててて尋尋たずねねねてててももも音音おとづれづれずれ聞聞きこえええざりざりざりしししほどほどほどににに、、、そのそのその御御おんめのとめのとめのとのののをとこをとこおとこににになりなりなりててていきいきいきけれけれければばばくだりくだりくだりにににけりけりけり。。。かのかのかの若君若君わかぎみののの四四よつつつににになるなるなる年年としぞぞぞ筑紫筑紫つくしへへへはははいきいきいきけるけるける。。。
- 5母君母君ははぎみののの御御おんゆくへゆくへゆくえををを知知しらららむむんとととよろづよろづよろずののの神神かみ佛佛ほとけににに申申もうしししてててよるひるよるひるよるひる泣泣なききき戀戀こひひいてててさるべきさるべきさるべきところどころところどころところどころををを尋尋たずねねね聞聞きこえええけれけれけれどどど遂遂ついにににえええ聞聞きききき出出いでででずずず。。。
- 6さらばさらばさらばいかゞいかゞいかがはははせせせむむん、、、若君若君わかぎみをををだにだにだにこそこそこそははは御御おんかたみかたみかたみににに見見み奉奉たてまつらららめめめ、、、あやしきあやしきあやしき身身みににに添添そへへえ奉奉たてまつりりりててて遙遙はるかなるなるなるほどほどほどにににおはせおはせおわせむむんことことことののの悲悲かなしきしきしきことことことなどなどなどををを父父ちち君君きみにににほのめかさほのめかさほのめかさむむんととと思思おもひひいけれけれけれどどど、、、「「「さるべきさるべきさるべきたよりたよりたよりもももなきなきなきうちうちうちににに母君母君ははぎみのののおはしおはしおわしけむけむけんかたかたかたもももしらしらしらずずず尋尋たずねねね問問とひひい給給たまははわゞゞばいかゞいかゞいかがきこえきこえきこえむむん。。。
- 7又又またよくよくよくももも見見みなれなれなれ給給たまははわぬぬぬににに幼幼おさなききき人人ひとをををとゞめとゞめとどめ奉奉たてまつりりり給給たまははわむむんももも後後うしろめたかるめたかるめたかるべしべしべし。。。知知しりりりながらながらながらはたはたはた、、、ゐゐいてててくだりくだりくだりねねねととと許許ゆるししし給給たまふふうべきべきべきにににもももあらあらあらずずず」」」などなどなどおのおのおのがががしゝしゝしし語語かたらひらひらいあはせあはせあわせててて、、、いといといとうつくしううつくしううつくしゅう只只ただ今今いまからからからけけけ高高だかくくく淸淸きよらなるらなるらなる御御おんさまさまさまををを、、、ことことことなるなるなるしつらひしつらひしつらいなきなきなき船船ふねににに載載のせせせててて漕漕こぎぎぎ出出いづるづるずるほどほどほどはははいといといとあはれあはれあわれににになむなむなんおぼえおぼえおぼえけるけるける。。。
- 8幼幼おさなききき心心ここちちちににに母君母君ははぎみををを忘忘わすれれれずずずをりをりをりをりおりおりににに「「「母母ははののの御御おん許許もとへへへいくいくいくかかか」」」ととと問問とひひい給給たまふふうにににつけつけつけててて淚淚なみだ絕絕たゆるゆるゆる時時ときなくなくなくむすめむすめむすめどもどもどもゝゝも思思おもひひいこがるゝこがるゝこがるるををを、、、「「「ふなみちふなみちふなみちゆゝしゆゝしゆゆし」」」とととかつかつかつははは諫諫いさめめめけりけりけり。。。
- 9おもしろきおもしろきおもしろきところどころところどころところどころををを見見みつゝつゝつつ心心こころわかうわかうわこうおはせおはせおわせしししものものものををを、、、かゝるかゝるかかる道道みちをををももも見見みせせせ奉奉たてまつるるるものものものにににもがなもがなもがな、、、おはせおはせおわせましかましかましかばばば我我われ等等らははは下下くだらららざらざらざらましましましととと京京きょうののの方方かたををを思思おもひひいやらやらやらるゝるゝるるににに、、、かへるかへるかえる波波なみももも羨羨うらやましくしくしく心心こころぼそきぼそきぼそきににに、、、
- 10船船ふな子子こどもどもどもののの荒荒あら々々あらしきしきしき聲聲こえにてにてにて「「「うらがなしくうらがなしくうらがなしくももも遠遠とおくくく來來きにににけるけるけるかなかなかな」」」ととと謠謠うたふふうををを聞聞きくくくまゝまゝままににに、、、二人二人ふたりさしさしさし向向むかひひいててて泣泣なきききけりけりけり。。。「「「船船ふな人人びとももも誰誰たれをををこふこふこうとととかかかおほおほおお島島しまのののうらがなしげうらがなしげうらがなしげににに聲聲こえののの聞聞きこゆるゆるゆる」」」。。。「「「來來きししし方方かたもももゆくへゆくへゆくえももも知知しらららぬぬぬ沖沖おきににに出出いでででゝゝてあはれあはれあわれいづくいづくいずくににに君君きみををを戀戀こふふうらむらむらん」」」。。。鄙鄙ひなののの別別わかれにににおのおのおのがががしゞしゞしじ心心こころをををやりやりやりててていひいひいいけるけるける。。。
現代語訳
年月は隔たってしまったけれど、源氏は飽きることのなかった夕顔を少しもお忘れにならず、さまざまな性格の女性たちの様子を次々にご覧になるにつけても、あの人が生きていたらと、しみじみと残念にばかりお思い出しになる。
右近は、たいした身分の者ではないけれど、やはりあの人の形見とご覧になって、かわいいものとお思いになっているので、古参の女房の一人としてお仕えし慣れていた。須磨へのお移りのころに、対の上(紫の上)の御方に女房たちを皆お預けになったときから、そちらにお仕えしている。
気立てがよく控えめな者と女君(紫の上)もお思いになっているけれど、右近は心の中では、亡き君(夕顔)が生きていらっしゃったら、明石の御方ほどのご寵愛には劣りなさらなかっただろう、それほど深いご愛情もなかった方さえ、お見捨てにならず、きちんとお世話なさる、お心の長い方なのだから、まして高貴な方々の列にこそ入らないとしても、この六条院へのお移りの数の中には加わっていらっしゃっただろうにと思うと、どうしようもなく悲しく思うのだった。
あの西の京に残った若君(玉鬘)の行方さえ知らずに、ひたすら物思いを包み隠して、源氏が「今さらかいのないことのために、私の名を漏らすな」と口止めなさったのを憚り申し上げて、探し出してお便りも申し上げずにいるうちに、その若君の乳母の夫が大宰少弐になって任地に行ったので、乳母も下ってしまった。あの若君が四歳になる年に、筑紫へ行ったのだった。
乳母は、母君(夕顔)の行方を知ろうと、あらゆる神仏にお祈りして、昼も夜も泣き恋しがって、しかるべき所々をお探し申し上げたけれど、ついに聞き出すことはできなかった。
それならしかたがない、せめて若君だけでも形見としてお世話申し上げよう、いやしい身に添えて、はるかな所にいらっしゃることが悲しいことなどを、父君(頭中将)にそれとなく知らせようと思ったけれど、「しかるべき手づるもないうえに、母君がいらっしゃった所もわからないとお尋ねになったら、どう申し上げたらよいでしょう。
また、よく見慣れてもいらっしゃらないのに、幼い人をお引き取りになっても気がかりでしょう。知りながら、それでは連れて下りなさいとお許しになるはずもありません」などと、それぞれに話し合って、たいそうかわいらしく、今から気品があって美しいご様子を、特別な設備もない船に乗せて漕ぎ出すときは、たいそう悲しく思われた。
幼い心にも母君を忘れず、折々に「母上のところへ行くの」とお尋ねになるにつけて、涙の絶える時もなく、乳母の娘たちも恋い焦がれているのを、乳母は「船旅に涙は縁起でもない」と一方ではたしなめた。
夕顔は、趣のある所々を見ては、若々しい心でいらっしゃったのに、このような旅の道もお見せしたかったものを、生きていらっしゃったら私たちは下らなかったろうにと、都の方を思いやらずにはいられないので、寄せては返す波もうらやましく心細いうえに、
船子たちが荒々しい声で「うら悲しくも遠くまで来たものだなあ」と歌うのを聞くままに、二人の娘は向かい合って泣いた。「船人も誰を恋しく思ってか、大島の浦で、うら悲しげな声が聞こえることよ」。「来た方角も行く先もわからない沖に出て、ああ、どこにいらっしゃるとあなたを恋い慕えばよいのでしょう」。鄙への別れに、それぞれ思いを晴らして詠んだのだった。
意訳
源氏は夕顔を忘れられず、夕顔の侍女だった右近は、紫の上に仕えながら、夕顔が生きていればと悲しむ。夕顔の遺児は、乳母の夫が大宰少弐になったので、四歳で筑紫へ連れて行かれる。
乳母たちは、夕顔の行方も知らず、父の頭中将にも知らせないまま、幼い姫君を船に乗せて都を離れる。母を恋う姫君の言葉に涙しながら、娘たちは船歌を聞いて歌を詠み交わす。
語釈・文法注
- 少貳
- 大宰少弐。九州を統括する大宰府の次官。乳母の夫がこの官に任じられたので、一家は筑紫に下った。
文法
- 反実仮想の「ましかば…まし」(ものし給はましかば…劣り給はざらまし)
- 「生きていらっしゃったら、劣りなさらなかっただろう」。
- 願望の「もがな」(見せ奉るものにもがな)
- 「お見せしたいものだなあ」。
和歌
船人も誰をこふとかおほ島のうらがなしげに聲の聞ゆる
- 詠者
- 乳母の娘
- 状況
- 船子の歌を聞いて詠んだ歌。船人も誰を恋しく思ってか、大島の浦で、うら悲しげな声が聞こえることよ。
修辞
- 掛詞
- 「うら」に「浦」と「うら(心)悲し」をかける。
來し方もゆくへも知らぬ沖に出でゝあはれいづくに君を戀ふらむ
- 詠者
- 乳母の娘
- 状況
- もう一人の娘が詠んだ歌。来た方角も行く先もわからない沖に出て、ああ、どこにいらっしゃるとあなた(夕顔)を恋い慕えばよいのでしょう。
解説
玉鬘の巻は、夕顔の巻から十八年後の物語である。夕顔の死後、行方不明になっていた幼い娘が、筑紫で成長し、やがて源氏のもとに引き取られる。玉鬘十帖と呼ばれる一連の物語の始まりである。
乳母たちが、父の頭中将に姫君のことを知らせなかったのは、夕顔の死を知らず、母の行方を問われても答えられないからであった。この判断が、姫君の長い流浪の始まりとなる。
関連
出典
- 底本
- 丸岡桂・松下大三郎編『国文大観』物語部1(源氏物語 上) 板倉屋書房、明治36年(1903)、414–417頁(コマ211–212)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日