万葉集 巻第二十 4384〜4394番
曉の かはたれ時に
天平勝宝7年2月、下総国の防人たちの歌十一首。明け方の薄暗い時に島陰を漕いで行った船の行方もわからないという歌、行く先には波が騒ぎ、後ろには子と妻とを置いて来たという歌、門の五株の柳のようにいつもいつも母が恋しがりながら仕事をしていたという歌、千葉の野の児手柏のように幼いがいとしくて置いて来たという歌、旅といっても本当の旅になった、家の妻が着せてくれた衣に垢がついたという歌、潮船の舳先を越す白波のように急に命じられた、思ってもいなかったのにという歌、樞に釘を刺したように固めた妻の心は揺らぐだろうかという歌、国々の社の神に幣を捧げて祈っているだろう妻がいとしいという歌、天地のどの神に祈れば愛しい母にまた言葉を交わせるだろうかという歌、大君の命令なので父母を斎瓮とともに置いて来たのにという歌、大君の命令を恐れ謹んで弓と共寝して夜を過ごすのか、長いこの夜をという歌。
題詞(下總國の防人の歌)
- 1曉曉あかときののの阿加等伎乃4384 他田日奉得大理
- 2かはたれかはたれかわたれ時時ときににに加波多例等枳爾
- 3島島しま陰陰かぎををを之麻加枳乎
- 4漕漕こぎぎぎにににししし船船ふねののの己枳爾之布禰乃
- 5たづきたづきたずき知知しらららずずずももも他都枳之良受母
- 6行行ゆこ先先さきににに由古作枳爾4385 私部石島
- 7浪浪なみなななとゑらひとゑらひとえらい奈美奈等惠良比
- 8後方後方しるえにににははは志流敝爾波
- 9子子こをををととと妻妻つまをををととと古乎等都麻乎等
- 10置置おきききてててともともとも來來きぬぬぬ於枳弖等母枳奴
- 11吾吾わががが門門かつののの和加々都乃4386 矢作部真長
- 12五株五株いつもと柳柳やなぎ以都母等夜奈枳
- 13いつもいつもいつもいつもいつもいつも以都母以都母
- 14母母おもががが戀戀こひひいすすすすすす於母加古比須須
- 15業業なりましましましつつつしもしもしも奈理麻之都之母
- 16千葉千葉ちばののの野野ぬののの知波乃奴乃4387 大田部足人
- 17兒手柏兒手柏このてがしわののの古乃弖加之波能
- 18含含ほほまれまれまれどどど保保麻例等
- 19あやあやあやにににかなしみかなしみかなしみ阿夜爾加奈之美
- 20置置おきききてててたちたちたち來來きぬぬぬ於枳弖他加枳奴
- 21旅旅たびととと云云えどどど多妣等弊等4388 占部虫麻呂
- 22眞眞ま旅旅たびににになりなりなりぬぬぬ麻多妣爾奈理奴
- 23家家いえののの妹妹もががが以弊乃母加
- 24著著きせせせししし衣衣ころもににに枳世之己呂母爾
- 25垢垢あかつきつきつきにににかりかりかり阿加都枳爾迦理
- 26しほしほしお船船ぶねののの志保不尼乃4389 丈部大麻呂
- 27舳舳へ越越こそそそ白白しら浪浪なみ弊古祖志良奈美
- 28俄俄にわしくしくしくももも爾波志久母
- 29科科おうせせせ賜賜たまほかほかほか於不世他麻保加
- 30思思おもははわへなくへなくへなくににに於母波弊奈久爾
- 31群玉群玉むらたまののの牟浪他麻乃4390 刑部志加麻呂
- 32樞樞くるににに釘釘くぎ刺刺さししし久留爾久枳作之
- 33結結かためめめとととししし加多米等之
- 34妹妹いもががが心心こころははは以母加去去里波
- 35搖搖あよぐぐぐなめなめなめかもかもかも阿用久奈米加母
- 36國國國國くにぐにののの久爾具爾乃4391 忍海部五百麻呂
- 37社社やしろののの神神かみににに夜之呂乃加美爾
- 38幣帛幣帛ぬさ奉奉まつりりり奴佐麻都理
- 39贖祈贖祈あがこいすすすなむなむなん阿加古比須奈牟
- 40妹妹いもがががかなしさかなしさかなしさ伊母賀加奈志作
- 41天地天地あめつしののの阿米都之乃4392 大伴部麻与佐
- 42いづれいづれいずれののの神神かみををを以都例乃可美乎
- 43祈祈いのらららばばばかかか以乃良波加
- 44愛愛うつくししし母母ははににに有都久之波波爾
- 45またまたまた言言こと問問とははわむむん麻多己等刀波牟
- 46大君大君おおきみののの於保伎美能4393 雀部広島
- 47命命みことにににささされれればばば美許等爾作例波
- 48父母父母ちちははををを知知波波乎
- 49齋瓮齋瓮いわいべととと置置おきききててて以波比弊等於枳弖
- 50參參まい出出で來來きにににしししををを麻爲弖枳爾之乎
- 51大君大君おおきみののの於保伎美能4394 大伴部子羊
- 52命命みことかしこみかしこみかしこみ美己等加之古美
- 53弓弓ゆみののの共共みた由美乃美他
- 54眞眞さ寢寢ねかかか渡渡わたらららむむん佐尼加和多良牟
- 55長長ながけけけこのこのこの夜夜よををを奈賀氣己乃用乎
現代語訳
〔4384〕明け方の薄暗い時に、島陰を漕いで行った船の、行方もわからないことだ。
〔4385〕行く先には波よ騒がないでくれ。後ろには子と妻とを置いて来たのだから。
〔4386〕わが家の門の五株の柳のように、いつもいつも、母は私を恋しがりながら仕事をしていることだろう。
〔4387〕千葉の野の児手柏の葉のように、まだ幼いけれど、たまらなくいとしくて、置いて出て来た。
〔4388〕旅と言っても本当の旅になってしまった。家の妻が着せてくれた着物に垢がついてしまった。
〔4389〕潮船の舳先を越す白波のように、急に防人の役をお命じになった。思ってもいなかったのに。
〔4390〕(群玉の)樞に釘を刺したように、固く心を結んだ妻の心は、揺らいだりするだろうか。
〔4391〕国々の社の神に幣を捧げて、私の無事を祈っているだろう妻がいとしいことよ。
〔4392〕天地のどの神に祈ったなら、いとしい母にまた言葉を交わせるだろうか。
〔4393〕大君のご命令なので、父母を斎瓮とともに家に置いて参上して来たのに。
〔4394〕大君のご命令を恐れ謹んで、弓と共寝をして過ごすのだろうか。長いこの夜を。
意訳
下総国の防人たちの歌である。明け方の船出の心細さ、置いて来た子と妻、恋しがる母、急な徴発への戸惑い、妻の貞節への信頼と、別れの情をさまざまに詠む。4394番は、妻の代わりに弓と共寝する夜の長さを嘆く。
語釈・文法注
文法・本文
- かはたれ時
- 「彼は誰」と見分けにくい薄暗い時。明け方。
- 島陰
- 「しまかぎ」。「しまかげ」の東国語形。
- たづき
- 手がかり、様子。
- 行先
- 「ゆこさき」。「ゆくさき」の東国語形。
- なとゑらひ
- 騒がないでくれ、の意か。未詳の語。
- 後方
- 「しるへ」。「しりへ」の東国語形。
- 門
- 「かつ」。「かど」の東国語形。
- 戀ひすす
- 「こひつつ」の東国語形。
- 兒手柏
- 「このてがしは」。ひのき科の木。
- 含まれど
- 「ほほまれど」。つぼんでいるが、幼いが。
- 云へど
- 「いへど」。東国語形。
- 眞旅
- 「またび」。本当の旅。
- 垢つきにかり
- 垢がついてしまった。「けり」の東国語形。
- 俄しくも
- 急に。
- 科せ賜ほか
- 「おふせたまほか」。お命じになることだ。
- 思はへなくに
- 思ってもいなかったのに。
- 群玉の
- 「くる」にかかる枕詞。
- 樞
- 「くる」。戸の回転軸。
- 搖ぐなめかも
- 「あよぐなめかも」。揺らぐだろうか。
- 贖祈す
- 「あがこひす」。贖い物を捧げて祈る。
- 天地
- 「あめつし」。「あめつち」の東国語形。
- 齋瓮
- 「いはひべ」。神を祭る瓶。
- 弓の共
- 「ゆみのみた」。弓と一緒に。
- 眞寢
- 「さね」。共寝。
- 長け
- 「ながけ」。「ながき」の東国語形。
和歌
- 作者
- 作者未詳
- 出典
- 『万葉集』巻第二十・部立なし・4384〜4394番
- 歌体
- 短歌(五七五七七)
- 時期
- 第4期(733〜759年(〜万葉集の最後の歌))
- 状況
- 天平勝宝7年2月、下総国の防人たちが詠み、防人部領使が進上した歌。
修辞
- 序詞
- 4386番の「吾が門の五株柳」、4387番の「千葉の野の兒手柏の」、4389番の「しほ船の舳越そ白浪」が、それぞれ下の句を導く。
- 東国方言
- 「かぎ」「ゆこさき」「しるへ」「かつ」「あめつし」など、東国の言葉を多く交える。
解説
下総国は今の千葉県北部と茨城県南西部。
関連
出典
- 底本
- 佐佐木信綱編『新訓万葉集』下巻 岩波文庫、昭和2年(1927)、730頁(コマ158)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 原文
- 佐佐木信綱編『白文万葉集』下巻 岩波書店、昭和5年(1930)、860頁(コマ194)。万葉仮名の原文。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日