万葉集 巻第二十 4373〜4383番
今日よりは 顧みなくて
天平勝宝7年2月、下野国の防人たちの歌十一首。今日からは後ろを顧みることなく、大君の醜の御楯として出で立つのだ私はという歌、天地の神に祈って矢を負い筑紫の島を目指して行く私はという歌、並んだ松の木を見ると家人が見送ろうと立っていた姿のようだという歌、旅に行くとも知らずに母父に言葉もかけずに来て今悔しいという歌、母上が玉であればよい、角髪の中に交えて巻こうにという歌、月日は過ぎても母父の玉の姿は忘れられないという歌、白波の寄せる浜辺で別れたら、どうしようもなく何度も袖を振るという歌、難波門を漕ぎ出て見ると生駒の高嶺に雲がたなびいているという歌、国々の防人が集まって船に乗り別れていくのを見るとどうしようもないという歌、意地悪な人だ、私が病気の時に防人に差し向けたという歌、津の国の海の渚で船の支度をして出発する時に母に逢いたいという歌。
題詞(下野國の防人の歌)
- 1今日今日きょうよりよりよりははは祁布與利波4373 今奉部与曽布
- 2顧顧かえりみみみなくなくなくててて可敝里見奈久弖
- 3大君大君おおきみののの意富伎美乃
- 4醜醜しこののの御御み楯楯たてととと之許乃美多弖等
- 5出出いででで立立たつつつ吾吾われははは伊涅多都和例波
- 6天地天地あめつちののの阿米都知乃4374 大田部荒耳
- 7神神かみををを祈祈いのりりりててて可美乎伊乃里弖
- 8幸幸さつ矢矢や貫貫ぬききき佐都夜奴伎
- 9筑紫筑紫つくしののの島島しまををを都久之乃之麻乎
- 10さしさしさしててて行行いくくく吾吾われははは佐之弖伊久和例波
- 11松松まつののの木木けののの麻都能氣乃4375 物部真島
- 12竝竝なみみみたるたるたる見見みれれればばば奈美多流美禮婆
- 13家家いわ人人びとののの伊波妣等乃
- 14吾吾われををを見見み送送おくるるるととと和例乎美於久流等
- 15立立たたたたりりりししし如如もころ多多理之母己呂
- 16旅旅たび行行ゆきににに多妣由岐爾4376 川上臣老
- 17行行ゆくくくととと知知しらららずずずててて由久等之良受弖
- 18母父母父あもししににに阿母志志爾
- 19言言こと申申もうさささずずずててて己等麻乎佐受弖
- 20今今いまぞぞぞ悔悔くやしけしけしけ伊麻叙久夜之氣
- 21母母あも刀自刀自とじももも阿母刀自母4377 津守小黒栖
- 22玉玉たまにににもがもがもがもやもやもや多麻爾母賀母夜
- 23頂頂いただきききててて伊多太伎弖
- 24角髮角髮みずらののの中中なかににに美都良乃奈可爾
- 25あへあへあえ纏纏まかかかまくまくまくももも阿敝麻可麻久母
- 26月月つく日日ひやややははは都久比夜波4378 中臣部足国
- 27過過すぐぐぐははは往往ゆけけけどもどもども須具波由氣等毛
- 28母父母父あもししががが阿母志志可
- 29玉玉たまののの姿姿すがたははは多麻乃須我多波
- 30忘忘わすれれれ爲爲せなふなふなうももも和須例西奈布母
- 31白白しら浪浪なみののの之良奈美乃4379 大舎人部禰麻呂
- 32寄寄よそるそるそる濱濱はま邊邊へににに與曾流波麻倍爾
- 33別別わかれれれなななばばば和可例奈波
- 34甚甚いともももすべすべすべなみなみなみ伊刀毛須倍奈美
- 35八八や遍遍たび袖袖そで振振ふるるる夜多妣蘇弖布流
- 36難波難波なにわ門門とををを奈爾波刀乎4380 大田部三成
- 37榜榜こぎぎぎ出出でててて見見みれれればばば己岐涅弖美例婆
- 38神神かみさぶるさぶるさぶる可美佐夫流
- 39生駒生駒いこま高高たか嶺嶺ねににに伊古麻多可禰爾
- 40雲雲くもぞぞぞたなびくたなびくたなびく久毛曾多奈妣久
- 41國國國國くにぐにののの具爾具爾乃4381 神麻続部島麻呂
- 42防人防人さきもりつどひつどひつどい佐岐毛利都度比
- 43船船ふな乘乘のりりりててて布奈能里弖
- 44別別わかるるるををを見見みれれればばば和可流乎美禮婆
- 45甚甚いともももすべすべすべ無無なししし伊刀母須敝奈之
- 46ふたほがみふたほがみふたほがみ布多富我美4382 大伴部広成
- 47惡惡あしけしけしけ人人ひとなりなりなり阿志氣比等奈里
- 48あたゆまひあたゆまひあたゆまい阿多由麻比
- 49我我わがががするするする時時ときににに和我須流等伎爾
- 50防人防人さきもりにににさすさすさす佐伎母里爾佐酒
- 51津津つののの國國くにののの都乃久爾乃4383 丈部足人
- 52海海うみのののなぎさなぎさなぎさににに宇美能奈伎佐爾
- 53船船ふな裝裝よそひひい布奈餘曾比
- 54發發たししし出出でももも時時ときににに多志涅毛等伎爾
- 55母母あもががが目目めもがもがもがももも阿母我米母我母
現代語訳
〔4373〕今日からは後ろを顧みることもなく、大君の醜の御楯として、出で立つのだ、私は。
〔4374〕天地の神に祈って、幸矢を負い、筑紫の島を目指して行くのだ、私は。
〔4375〕松の木が並んでいるのを見ると、家の人たちが私を見送ろうと立っていた姿のようだ。
〔4376〕旅に行くとも知らないで、母や父に言葉もかけずに来て、今になって悔しいことだ。
〔4377〕母上が玉であればよいのに。頂いて、角髪の中に交えて巻こうに。
〔4378〕月日は過ぎて行くけれども、母や父の玉のような姿は忘れられないことだ。
〔4379〕白波の寄せる浜辺で別れたならば、どうしようもなくて、何度も袖を振ることだ。
〔4380〕難波の門を漕ぎ出て見ると、神々しい生駒の高嶺に、雲がたなびいている。
〔4381〕国々の防人が集まり、船に乗って別れていくのを見ると、どうしようもなくつらい。
〔4382〕ふたほがみは意地悪な人だ。私が病気をしている時に、防人に差し向けるとは。
〔4383〕津の国の海の渚で船の支度をして、出発する時に、母に逢いたいものだ。
意訳
下野国の防人たちの歌である。4373番の「今日よりは顧みなくて大君の醜の御楯と出で立つ吾は」は忠誠の歌として名高いが、続く歌々には、母父に言葉をかけずに来た悔い、母を玉にして髪に巻きたい思い、病の身を防人に指名した役人への恨みなど、率直な心情が詠まれている。
語釈・文法注
文法・本文
- 醜の御楯
- 「しこのみたて」。卑しい身ながら大君の楯となる者。謙遜の語。
- 幸矢
- 「さつや」。獲物を射る矢、矢。
- 松の木
- 「まつのけ」。東国語形。
- 家人
- 「いはびと」。「いへびと」の東国語形。
- 如
- 「もころ」。のように。
- 母父
- 「あもしし」。母と父。東国語。
- 悔しけ
- 「くやしけ」。「くやしき」の東国語形。
- 角髮
- 「みづら」。男子の髪型。
- 月日
- 「つくひ」。東国語形。
- 忘れ爲なふも
- 忘れられないことだ。「なふ」は東国語の打消。
- 寄そる
- 寄せる。東国語形。
- 八遍
- 「やたび」。何度も。
- 難波門
- 「なにはと」。難波の海峡。
- ふたほがみ
- 未詳。上役の役人を指すとする説がある。
- あたゆまひ
- 急な病気。
- 發し出も時
- 「たしでもとき」。出発する時。東国語形。
和歌
- 作者
- 作者未詳
- 出典
- 『万葉集』巻第二十・部立なし・4373〜4383番
- 歌体
- 短歌(五七五七七)
- 時期
- 第4期(733〜759年(〜万葉集の最後の歌))
- 状況
- 天平勝宝7年2月、下野国の防人たちが詠み、防人部領使が進上した歌。
修辞
- 東国方言
- 「け」「いはびと」「あもしし」「つくひ」「なふ」「たしでも」など、東国の言葉を多く交える。
解説
4373番は近代に忠君愛国の歌として広く知られた。
関連
出典
- 底本
- 佐佐木信綱編『新訓万葉集』下巻 岩波文庫、昭和2年(1927)、729頁(コマ157)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 原文
- 佐佐木信綱編『白文万葉集』下巻 岩波書店、昭和5年(1930)、859頁(コマ193)。万葉仮名の原文。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日