万葉集 巻第二十 4363〜4371番
難波津に 御船下すゑ
天平勝宝7年2月、常陸国の防人たちの歌九首。難波津に船を下ろし据えて八十の楫を通し、今漕ぎ出したと妻に告げてくれという歌、防人に発つ騒ぎに、家の妻がしなければならない仕事を言わずに来てしまったという歌、難波の津から船の支度をして漕ぎ出したと妻に告げてくれという歌、常陸を目指して行く雁がいればよい、私の恋しさを書き付けて妻に知らせようという歌、私の顔を忘れそうな時は筑波嶺を仰ぎ見て偲んでくれという歌、久慈川よ無事で待っていてくれ、船に楫を通して帰って来ようという歌、筑波嶺のさ百合の花のように夜床でもいとしい妻は昼もいとしいという歌、鹿島の神に祈りながら天皇の軍に私は来たのだという歌、橘の下を吹く風の香わしい筑波の山を恋しく思わずにいられようかという歌。
題詞(常陸國の防人の歌)
- 1難波難波なにわ津津づににに奈爾波都爾4363 若舎人部広足
- 2御御み船船ふね下下おろすすすゑゑえ美布禰於呂須惠
- 3八十八十やそ楫楫か貫貫ぬききき夜蘇加奴伎
- 4今今いまははは榜榜こぎぎぎぬぬぬととと伊麻波許伎奴等
- 5妹妹いもににに告告つげげげこそこそこそ伊母爾都氣許曾
- 6防人防人さきもりににに佐伎牟理爾4364 若舎人部広足
- 7發發たたたたむむんさわぎさわぎさわぎににに多多牟佐和伎爾
- 8家家いえののの妹妹いもががが伊敝能伊毛何
- 9業業なるるるべきべきべき事事ことををを奈流倍伎己等乎
- 10言言いははわずずず來來きぬぬぬかもかもかも伊波須伎奴可母
- 11押押おし照照てるるるややや於之弖流夜4365 物部道足
- 12難波難波なにわののの津津つよりよりより奈爾波能津與利
- 13船船ふな裝裝よそひひい布奈與曾比
- 14吾吾あれははは榜榜こぎぎぎぬぬぬととと阿例波許藝奴等
- 15妹妹いもににに告告つぎぎぎこそこそこそ伊母爾都岐許曾
- 16常陸常陸ひたちさしさしさし比多知散思4366 物部道足
- 17行行ゆかかかむむん雁雁かりもがもがもが由可牟加里母我
- 18我我あががが戀戀こいををを阿我古比乎
- 19記記しるしししててて附附つけけけててて志留志弖都祁弖
- 20妹妹いもににに知知しらせらせらせむむん伊母爾志良世牟
- 21我我あががが面面もてののの阿我母弖能4367 占部小竜
- 22忘忘わすれれれももも時時しだははは和須例母之太波
- 23筑波嶺筑波嶺つくばねををを都久波尼乎
- 24ふりふりふり放放さけけけ見見みつつつつつつ布利佐氣美都都
- 25妹妹いもはははしぬばしぬばしぬばねねね伊母波之奴波尼
- 26久慈久慈くじ河河がわははは久自我波波4368 丸子部佐壮
- 27幸幸さけくくく在在ありりり待待まててて佐氣久阿利麻弖
- 28しほしほしお船船ぶねににに志富夫禰爾
- 29眞眞ま楫楫かじ繁繁しじ貫貫ぬききき麻可知之自奴伎
- 30吾吾わははは歸歸かえりりり來來こむむむ和波可敝里許牟
- 31筑波嶺筑波嶺つくばねののの都久波禰乃4369 大舎人部千文
- 32さささ百合百合ゆるののの花花はなののの佐由流能波奈能
- 33夜夜ゆ床床とこにににももも由等許爾母
- 34愛愛かなしけしけしけ妹妹いもぞぞぞ可奈之家伊母曾
- 35晝晝ひるもももかなしけかなしけかなしけ比留毛可奈之祁
- 36霰霰あられ降降ふりりり阿良例布理4370 大舎人部千文
- 37鹿島鹿島かしまののの神神かみををを可志麻能可美乎
- 38祈祈いのりりりつつつつつつ伊能利都都
- 39皇御軍皇御軍すめらみくさににに須米良美久佐爾
- 40吾吾われははは來來きにににしししををを和例波伎爾之乎
- 41橘橘たちばなののの多知波奈乃4371 占部広方
- 42下下した吹吹ふくくく風風かぜののの之多布久可是乃
- 43香香かぐはしきぐはしきぐわしき可具波志伎
- 44筑波筑波つくばののの山山やまををを都久波能夜麻乎
- 45戀戀こひひいずずず在在あらららめめめかもかもかも古比須安良米可毛
現代語訳
〔4363〕難波津に御船を下ろし据えて、多くの楫を通して、今漕ぎ出したと、妻に告げてほしい。
〔4364〕防人に発つ騒ぎに取り紛れて、家の妻がしなければならない仕事のことを、言わずに来てしまったなあ。
〔4365〕(押し照るや)難波の津から船の支度をして、私は漕ぎ出したと、妻に告げてほしい。
〔4366〕常陸を目指して行く雁がいればよいのに。私の恋しさを書き付けて、妻に知らせよう。
〔4367〕私の顔を忘れそうな時は、筑波嶺を仰ぎ見ながら、妻は私を偲んでおくれ。
〔4368〕久慈川よ、無事で待っていてくれ。潮船に左右の楫をたくさん通して、私は帰って来よう。
〔4369〕筑波嶺のさ百合の花の名のように、夜の床でもいとしい妻は、昼もいとしい。
〔4370〕(霰降り)鹿島の神に祈りながら、天皇の軍兵として、私は来たのに。
〔4371〕橘の下を吹く風の香わしい、筑波の山を、恋しく思わずにいられようか。
意訳
常陸国の防人たちの歌で、難波からの船出を妻に知らせたい思い、言い残したことへの心残り、雁に託す便り、筑波嶺や久慈川など故郷の山河への思いを詠む。4370番は鹿島の神に祈って天皇の軍に加わったと詠み、のちに武人の歌として知られた。
語釈・文法注
文法・本文
- 下すゑ
- 「おろすゑ」。下ろし据えて。
- 八十楫
- 「やそか」。多くの楫。
- 告げこそ
- 告げてほしい。
- 業るべき事
- 「なるべきこと」。しなければならない仕事。
- 告ぎこそ
- 「つぎこそ」。「つげこそ」の東国語形。
- 面
- 「もて」。顔。東国語形。
- 忘れも時
- 「わすれもしだ」。忘れそうな時。「しだ」は時の東国語。
- しぬばね
- 偲んでおくれ。
- 幸く
- 「さけく」。「さきく」の東国語形。
- さ百合
- 「さゆる」。「さゆり」の東国語形。
- 夜床
- 「ゆとこ」。「よとこ」の東国語形。
- 愛しけ
- 「かなしけ」。「かなしき」の東国語形。
- 霰降り
- 「鹿島」にかかる枕詞。
- 皇御軍
- 「すめらみくさ」。天皇の軍兵。
和歌
- 作者
- 作者未詳
- 出典
- 『万葉集』巻第二十・部立なし・4363〜4371番
- 歌体
- 短歌(五七五七七)
- 時期
- 第4期(733〜759年(〜万葉集の最後の歌))
- 状況
- 天平勝宝7年2月、常陸国の防人たちが詠み、防人部領使が進上した歌。
修辞
- 東国方言
- 「つぎこそ」「もて」「しだ」「さけく」「さゆる」「ゆとこ」など、東国の言葉を多く交える。
解説
4370番の「霰降り鹿島の神を祈りつつ」は、鹿島神宮が武神として信仰されたことを伝える。
関連
出典
- 底本
- 佐佐木信綱編『新訓万葉集』下巻 岩波文庫、昭和2年(1927)、728頁(コマ157)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 原文
- 佐佐木信綱編『白文万葉集』下巻 岩波書店、昭和5年(1930)、857頁(コマ192)。万葉仮名の原文。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日