万葉集 巻第十六 3884番
伊夜彦
弥彦の神の山のふもとで、今日もまた鹿が伏しているだろう。毛皮の衣を着て、角をつけたままで。万葉集にただ一首の仏足石歌体の歌。

題詞越中國の歌四首
現代語訳
弥彦の神の山のふもとに、今日もまた鹿が伏しているのだろうか。毛皮の衣を着て、角をつけたままで。
意訳
越中国(のちの越後国)の弥彦山は、神の宿る山としてあがめられていた。そのふもとで、今日も鹿が静かに伏しているだろうと思いやる。鹿は神の使いとされ、「毛皮の衣を着て、角をつけたまま」と、人に見立てたおかしみのある言い方で鹿の姿を描いている。神をたたえる祭りの場で歌われた歌謡と考えられ、最後の一句をくり返すように加えた六句の形に、歌謡らしい響きが残っている。
語釈・文法注
- 伊夜彦(いやひこ)
- 弥彦山と、その山をまつる弥彦神社の神。今の新潟県弥彦村にある。当時は越中国に属していた。
- 今日らもか
- 「ら」は語調を整える接尾語。「もか」は疑問・詠嘆。今日もまた…だろうか。
- 鹿(か)
- しか。古くは「か」とも言った。
- 伏すらむ
- 「伏す」を底本は「こやす」と訓む。横たわっているだろう。
- 皮服(かはごろも)
- 毛皮の衣。鹿の毛皮を人の衣に見立てた。
文法・本文
- 原文「神乃布本」
- 原文は「麓(ふもと)」を「布本」と書き、「に」を表す字はない。底本は「麓に」と、助詞を補って訓む。
- 伊夜彦(本文)
- 底本は、初句を西本願寺本によって「伊夜彦」とする。
和歌
- 作者
- 作者未詳
- 出典
- 『万葉集』巻第十六・雑歌・3884番
- 歌体
- 仏足石歌(五七五七七七)
- 時期
- 作者未詳(時代を問わない)
- 状況
- 巻第十六の終わり近く、「越中國の歌四首」の一首。家持が越中守であったころに採録された、土地の神をたたえる歌とみられる。
修辞
- 仏足石歌体
- 五七五七七に七音の句をもう一つ加えた、五七五七七七の六句の形。最後の句が前の句をくり返したり補ったりして、歌謡らしい余韻を残す。
- 擬人
- 鹿を「皮服着て 角附きながら」と、衣を着た人のように描く。
解説
仏足石歌体は、五七五七七の短歌に、七音の句をもう一つ加えた六句の形である。奈良の薬師寺には、釈迦の足跡を刻んだ仏足石とともに、この形の歌二十一首を刻んだ「仏足石歌碑」が残っており、その名で呼ばれている。万葉集では、この一首だけがこの形をとっている。
弥彦山は越後平野にそびえる神の山で、今も弥彦神社がまつられている。この歌は、神の山のふもとに伏す鹿の姿を、毛皮の衣を着た人のように描いて神をたたえ、祭りの場で歌われた歌謡であったと考えられる。巻第十六には、このほか越中・能登など各地の歌謡が集められており、宮廷の和歌とは異なる地方の歌の姿を伝えている。
関連
出典
- 底本
- 佐佐木信綱編『新訓万葉集』下巻 岩波文庫、昭和2年(1927)、601頁(コマ93)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 原文
- 佐佐木信綱編『白文万葉集』下巻 岩波書店、昭和5年(1930)、704頁(コマ116)。万葉仮名の原文。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日