万葉集 巻第十五 3674〜3680番
草枕 旅を苦しみ
筑前の引津の泊まりに船を泊めて作った歌七首。旅を苦しんで恋していると可也の山辺に牡鹿が鳴くという歌、沖の波が高く立つ日に遭ったと都の人は聞いただろうかという歌(二首は大判官)、雁を使いにして奈良の都に便りを送りたいという歌、秋の野の萩は咲いても旅なので見るかいがないという歌、妻を思って眠れないのに牡鹿が妻を恋うて鳴くという歌、船出の時を待つうちに月日がたったという歌、夜長に眠れないのに山彦を響かせて牡鹿が鳴くという歌。
題詞引津亭に船泊てて作れる歌七首
- 1草草くさ枕枕まくら久左麻久良3674
- 2旅旅たびををを苦苦くるしみしみしみ多婢乎久流之美
- 3戀戀こひひい居居おれれればばば故非乎禮婆
- 4可也可也かやののの山山やま邊邊べににに可也能山邊爾
- 5さささををを鹿鹿しか鳴鳴なくくくももも草乎思香奈久毛
- 6沖沖おきつつつ浪浪なみ於吉都奈美3675
- 7高高たかくくく立立たつつつ日日ひににに多可久多都日爾
- 8遇遇あへへえりりりきききととと安敝利伎等
- 9都都みやこののの人人ひとははは美夜古能比等波
- 10聞聞ききききてててけむけむけんかもかもかも伎吉弖家牟可母
- 11天天あま飛飛とぶぶぶややや安麻等夫也3676
- 12雁雁かりををを使使つかいににに可里乎都可比爾
- 13得得えてててしかしかしかももも衣弖之可母
- 14奈良奈良ならののの都都みやこににに奈良能彌夜古爾
- 15言言こと告告つげげげ遣遣やらららむむん許登都礙夜良武
- 16秋秋あきののの野野のををを秋野乎3677
- 17にほはすにほはすにおわす萩萩はぎははは爾保波須波疑波
- 18咲咲さけけけれれれどもどもども佐家禮杼母
- 19見見みるるるしるししるししるし無無なししし見流之留思奈之
- 20旅旅たびにににしししあれあれあればばば多婢爾師安禮婆
- 21妹妹いもををを思思おもひひい伊毛乎於毛比3678
- 22寐寐いののの寢寢ねらえらえらえぬぬぬににに伊能禰良延奴爾
- 23秋秋あきののの野野のににに安伎乃野爾
- 24さささををを鹿鹿しか鳴鳴なきききつつつ草乎思香奈伎都
- 25妻妻つまおもひおもひおもいかねかねかねててて追麻於毛比可禰弖
- 26大大おお船船ぶねににに於保夫禰爾3679
- 27眞眞ま楫楫かじ繁繁しじ貫貫ぬききき眞可治之自奴伎
- 28時時とき待待まつつつととと等吉麻都等
- 29我我われははは思思おもへへえどどど和禮波於毛倍杼
- 30月月つきぞぞぞ經經えにににけるけるける月曾倍爾家流
- 31夜夜よををを長長ながみみみ欲乎奈我美3680
- 32寐寐いののの寢寢ねらえらえらえぬぬぬににに伊能年良延奴爾
- 33あしひきあしひきあしひきののの安之比奇能
- 34山山やま彦彦びこ響響とよめめめ山妣故等余米
- 35さささををを鹿鹿しか鳴鳴なくくくももも佐乎思賀奈君母
現代語訳
〔3674〕(草枕)旅がつらくて恋い慕っていると、可也の山のあたりで、牡鹿が鳴いていることだ。
〔3675〕沖の波が高く立つ日に私たちが遭ったと、都の人は聞いただろうか。
〔3676〕(天飛ぶや)雁を使いとして得られたらなあ。奈良の都に便りを告げてやろう。
〔3677〕秋の野を美しく彩る萩は咲いたけれど、見るかいもない。旅の身であるので。
〔3678〕いとしい妻を思って眠ることもできないのに、秋の野で牡鹿が鳴いた。妻を思いかねて。
〔3679〕大船に左右の楫を取りつけて、船出の時を待つのだと私は思っていたけれど、月日がたってしまったことだ。
〔3680〕夜が長いので眠ることもできないのに、(あしひきの)山彦を響かせて牡鹿が鳴いていることだ。
意訳
筑前の引津の泊まり(今の福岡県糸島市の引津湾)に泊まった時の歌である。可也山で妻を恋うて鳴く牡鹿の声に自分の思いを重ねる歌が多く、ほかに、嵐に遭ったことを都の人は聞いたかという大判官の歌、雁を使いに都へ便りをしたいという歌、旅では萩の花も見るかいがないという歌、船出を待つうちに月日がたったという歌がある。
語釈・文法注
文法・本文
- 可也の山
- 「かやのやま」。糸島半島の可也山。
- さを鹿
- 牡鹿。白文は「草乎思香」と書く。
- 得てしかも
- 得たいものだ。
- にほはす
- 色美しく彩る。
- 寐の寢らえぬ
- 眠ることができない。
- 山彦響め
- 山彦を響かせて。
和歌
- 作者
- 作者未詳
- 出典
- 『万葉集』巻第十五・部立なし・3674〜3680番
- 歌体
- 短歌(五七五七七)
- 時期
- 作者未詳(時代を問わない)
- 状況
- 遣新羅使人が筑前の引津の泊まりで詠んだ歌。3674・3675番は大判官の作。
修辞
- 情景
- 牡鹿の妻問いの声に、妻を思う旅人の心を重ねる。
解説
3674・3678・3680番と、牡鹿の声に寄せる歌がくり返され、秋の深まりと望郷の思いを伝える。
関連
出典
- 底本
- 佐佐木信綱編『新訓万葉集』下巻 岩波文庫、昭和2年(1927)、563頁(コマ74)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 原文
- 佐佐木信綱編『白文万葉集』下巻 岩波書店、昭和5年(1930)、661頁(コマ94)。万葉仮名の原文。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日