万葉集 巻第十二 2950〜2955番
吾妹子が 夜戸出の光儀
妹が夜に戸口へ出た姿を見てから心は宙に浮いている、土は踏んでいても。海石榴市の辻で結び合った紐を解くのは惜しい。年老いて衰えたので、袖の馴れ親しんだ君を思う。君を恋うて泣く涙に袖まで濡れてどうしようもない。もう逢うまいと思うのか、私の袖は乾く時もない。夢かと心が惑った、久しく離れていた君の便りが届いたので。正述心緒の歌六首。
場面イラスト(準備中)
題詞(正に心緒を述ぶ)
- 1吾吾わぎ妹妹も子子こががが吾妹子之2950
- 2夜夜よ戸戸と出出でののの光儀光儀すがた夜戶出乃光儀
- 3見見みてててしししよりよりより見之從
- 4情情こころ空空そらなりなりなり情空成
- 5地地つちははは蹈蹈ふめめめどもどもども地者雖踐
- 6海石榴市海石榴市つばいちののの海石榴市之2951
- 7八十八十やそののの衢衢ちまたににに八十衢爾
- 8立立たちちち平平ならししし立平之
- 9結結むすべべべるるる紐紐ひもををを結紐乎
- 10解解とかかかまくまくまく惜惜をしもしもしも解卷惜毛
- 11吾吾わががが齡齡よわいししし吾齡之2952
- 12衰衰おとろへへえぬれぬれぬればばば衰去者
- 13白細布白細布しろたえののの白細布之
- 14袖袖そでののの狎狎なれれれにににししし袖乃狎爾思
- 15君君きみをををしししぞぞぞ念念おもふふう君乎母准其念
- 16君君きみににに戀戀こひひい戀君2953
- 17吾吾わががが哭哭なくくく涙涙なみだ吾哭涕
- 18しろたへしろたへしろたえののの白妙
- 19袖袖そでさへさへさへぬれぬれぬれててて袖兼所漬
- 20爲爲せむむむ術術すべもももなしなしなし爲便母奈之
- 21今今いまよりよりよりははは從今者2954
- 22逢逢あははわじじじとととすれすれすれややや不相跡爲也
- 23白白しろ妙妙たえののの白妙之
- 24我我わががが衣衣ころも手手でののの我衣袖之
- 25干干ひるるる時時ときもももなきなきなき干時毛奈吉
- 26夢夢いめかかかととと夢可登2955
- 27情情こころ惑惑まどひひいぬぬぬ情班
- 28月月つき數多數多まねくくく月數多
- 29離離かれれれにににししし君君きみががが干西君之
- 30言言ことののの通通かよへへえばばば事之通者
現代語訳
〔2950〕いとしい人が夜に戸口へ出た姿を見てからというもの、心は空に浮いている。土は踏んでいるけれど。
〔2951〕海石榴市の八十の辻に立ち並んで結び合った紐を、解くのは惜しいことだ。
〔2952〕私の年が衰えてしまったので、白妙の袖が馴れ親しんだあなたのことを、思うことだ。
〔2953〕あなたを恋しく思って私が泣く涙に、白妙の袖まで濡れて、どうしようもない。
〔2954〕今からはもう逢うまいとお思いなのか。白妙の私の袖の、乾く時もないことだ。
〔2955〕夢かと心が惑ってしまった。幾月も離れていたあなたの便りが届いたので。
意訳
正述心緒の歌の続きである。夜に戸口に出た恋人の姿を見てから心が宙に浮いた歌、海石榴市の歌垣で結び合った紐を解くのが惜しいという歌、年老いて昔馴染んだ人を思う歌、涙で袖が濡れてどうしようもない歌、もう逢わないつもりかと袖の乾く間もない歌、久しく離れていた恋人から便りが届き夢かと思う歌が並ぶ。
語釈・文法注
文法・本文
- 夜戸出
- 「よとで」。夜、戸口に出ること。
- 情空なり
- 心が宙に浮いている。
- 海石榴市
- 「つばいち」。大和の三輪山麓の市。歌垣が行われた。
- 八十の衢
- 「やそのちまた」。多くの道の分かれる辻。
- 立ち平し
- 立って踏みならして。
- 狎れにし
- 「なれにし」。馴れ親しんだ。
- 離れにし
- 「かれにし」。離れていた。
和歌
- 作者
- 作者未詳
- 出典
- 『万葉集』巻第十二・相聞・2950〜2955番
- 歌体
- 短歌(五七五七七)
- 時期
- 作者未詳(時代を問わない)
- 状況
- 正述心緒。作者未詳。
修辞
- 対照
- 2950番は「空」と「地」を対比する。
- 枕詞
- 「白妙の」を用いる。
解説
2951番の海石榴市は歌垣の場として知られ、そこで結び合った紐は契りのしるしであった。
関連
出典
- 底本
- 佐佐木信綱編『新訓万葉集』下巻 岩波文庫、昭和2年(1927)、473頁(コマ29)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 原文
- 佐佐木信綱編『白文万葉集』下巻 岩波書店、昭和5年(1930)、544頁(コマ36)。万葉仮名の原文。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日