万葉集 巻第十二 2857〜2863番
菅の根の ねもころごろに
じりじりと照る日にも、妹に逢わずにいて濡れた私の袖は乾くまい。妹を恋うて眠れぬ朝に吹く風よ、妹に触れたなら私にも触れよ。飛鳥川や高川を避けて越えて来たのだ、今夜は夜明けまでいずに帰れようか。八釣川の水が絶えないように、続けて恋う年頃だ。磯の上の小松のように名を惜しんで人に知られず恋い続ける。山川の水陰の山菅のように止まずに妹が思われる。浅葉野の神占の菅の根のように、ねんごろに誰のために恋しないことがあろう。人麻呂歌集の寄物陳思の歌七首。
題詞(物に寄せて思を陳ぶ)
- 1菅菅すがののの根根ねののの菅根之2857
- 2ねもころごろねもころごろねもころごろににに惻隱惻隱
- 3照照てるるる日日ひにににももも照日
- 4乾乾ひめめめややや吾吾わががが袖袖そで乾哉吾袖
- 5妹妹いもににに逢逢あははわずずずしししててて於妹不相爲
- 6妹妹いもににに戀戀こひひい妹戀2858
- 7寢寢いねねねぬぬぬ朝朝あしたににに不寢朝
- 8吹吹ふくくく風風かぜののの吹風
- 9妹妹いもにににししし觸觸ふらららばばば妹經者
- 10吾吾われさへさへさへににに觸觸ふれれれ吾共經
- 11飛鳥飛鳥あすか河河がわ飛鳥河2859
- 12高高たか河河かわ避避よかかかししし高河避紫
- 13越越こえええ來來こしししををを越來
- 14まことまことまこと今今こ夜夜よいははは信今夜
- 15明明あけけけずずず行行ゆかかかめめめややや不明行哉
- 16八釣八釣やつり河河がわ八鉤河2860
- 17水水みな底底そこ絕絕たえええずずず水底不絕
- 18行行ゆくくく水水みずののの行水
- 19續續つぎぎぎてててぞぞぞ戀戀こふるふるうる續戀
- 20こここののの年年とし來來ごろををを是比歲
- 21磯磯いそののの上上うえににに礒上2861
- 22生生おふるふるうる小小こ松松まつののの生小松
- 23名名なををを惜惜おしみしみしみ名惜
- 24人人ひとににに知知しらえらえらえずずず人不知
- 25戀戀こひひいわたるわたるわたるかもかもかも戀渡鴨
- 26山山やま河河がわののの山河2862
- 27水水みず陰陰かげににに生生おふるふるうる水陰生
- 28山山やま草草すげののの山草
- 29止止やまままずずずももも妹妹いもががが不止妹
- 30おもほゆるおもほゆるおもおゆるかもかもかも所念鴨
- 31淺葉淺葉あさは野野ぬににに淺葉野2863
- 32立立たつるつるつる神占神占かむうらののの立神古
- 33菅菅すがののの根根ねののの菅根
- 34ねもころねもころねもころ誰誰たれゆゑゆゑゆえ惻隱誰故
- 35吾吾わががが戀戀こひひいざらざらざらむむん吾不戀
現代語訳
〔2857〕(菅の根の)じりじりと照りつける日にも、乾くことがあろうか、私の袖は。いとしい人に逢わないままで。
〔2858〕いとしい人を恋しく思って眠れなかった朝に吹く風よ。いとしい人に触れたなら、私にも触れておくれ。
〔2859〕飛鳥川や高川を避けて越えて来たのだ。本当に、今夜は夜が明けないうちに帰って行けようか。
〔2860〕八釣川の水底が絶えずに流れて行く水のように、続けて恋い慕っていることだ。この年頃を。
〔2861〕磯の上に生える小松のように、名を惜しんで、人に知られないように恋い続けることだ。
〔2862〕山川の水陰に生える山菅のように、止むことなく、いとしい人が思われることだ。
〔2863〕浅葉野に立てる神占の菅の根のように、ねんごろに、誰のために私が恋しないことがあろうか。
意訳
人麻呂歌集の寄物陳思の歌の終わりである。照る日にも乾かない涙の袖、恋人に触れた風に自分も触れてほしいという歌、川を避けて苦労して来たのだから夜明けまで帰れないという男の歌、八釣川の水のように絶えず恋い続ける歌、名を惜しんで人知れず恋う歌、止まず恋人が思われる歌、ねんごろに恋人を思う歌が並ぶ。2863番の左注により、2841番からの二十三首が人麻呂歌集の歌とわかる。
語釈・文法注
文法・本文
- ねもころごろに
- ねんごろに。ここでは日がじりじり照るさま。
- 乾めや
- 「ひめや」。乾くだろうか。
- 高河避かし
- 高河を避けて。
- 年來
- 「としごろ」。この何年かの間。
- 山草
- 「やますげ」。山菅。
- 神占
- 「かむうら」。神に占うこと。
和歌
- 作者
- 作者未詳
- 出典
- 『万葉集』巻第十二・相聞・2857〜2863番
- 歌体
- 短歌(五七五七七)
- 時期
- 第2期(672〜710年(壬申の乱〜平城京遷都))
- 状況
- 寄物陳思(日・風・川・松・菅に寄せる)。柿本人麻呂歌集の歌。
修辞
- 序詞
- 2860番の上三句が「續ぎて」を、2861・2862番の上三句が「名」「止まず」を、2863番の上三句が「ねもころ」を導く。
- 枕詞
- 2857番の「菅の根の」。
解説
2858番は、恋人に触れた風に自分も触れたいという、繊細な感覚の歌である。
関連
出典
- 底本
- 佐佐木信綱編『新訓万葉集』下巻 岩波文庫、昭和2年(1927)、466頁(コマ26)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 原文
- 佐佐木信綱編『白文万葉集』下巻 岩波書店、昭和5年(1930)、536頁(コマ32)。万葉仮名の原文。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日