万葉集 巻第十 2266〜2272番
出でて去なば 天飛ぶ鴈の
出て行けば雁のように泣くだろうと、今日か今日かと言ううちに年が経った。鹿の伏す小野の草が若く隠れきれないように、人に知られるな。鹿の草伏のようにはっきりと、問わないのに人が知っている。明け方に鳴く鶴のように思いは消えず恋がまさる。尾花の下の思草のように今さら何を思おう。こおろぎの鳴く庭の萩を見に君はいつ来るのか。水草の花のように、思っても直接逢わないので知るまい。鳥・鹿・草・花に寄せた恋の歌七首。
題詞鴈に寄す/鹿に寄す/鶴に寄す/草に寄す/花に寄す
- 1出出いでででててて去去いなななばばば出去者2266 鴈
- 2天天あま飛飛とぶぶぶ鴈鴈かりののの天飛鴈之
- 3なきなきなきぬぬぬべみべみべみ可泣美
- 4今日今日きょう今日今日きょうととといふいふいうににに且今日且今日云二
- 5年年としぞぞぞ經經へにににけるけるける年曾經去家類
- 6さささををお鹿鹿しかののの左小牡鹿之2267 鹿
- 7朝朝あさ伏伏ふすすす小小お野野ぬののの朝伏小野之
- 8草草くさ若若わかみみみ草若美
- 9隱隱かくろひろひろいかねかねかねててて隱不得而
- 10人人ひとににに知知しらゆらゆらゆななな於人所知名
- 11さささををお鹿鹿しかののの左小牡鹿之2268 鹿
- 12小小お野野ぬののの草草くさ伏伏ぶし小野草伏
- 13いちじろくいちじろくいちじろく灼然
- 14吾吾わががが問問とはははなくなくなくににに吾不問爾
- 15人人ひとののの知知しれれれらくらくらく人乃知良久
- 16このこのこの夜夜よらららののの今夜乃2269 鶴
- 17曉曉あかとき降降くだちちち曉降
- 18鳴鳴なくくく鶴鶴たずののの鳴鶴之
- 19念念おもいははは過過すぎぎぎずずず念不過
- 20戀戀こいこそこそこそまされまされまされ戀許增益也
- 21道道みちののの邊邊べののの道邊之2270 草
- 22尾尾お花花ばなががが下下もとののの乎花我下之
- 23思思おもい草草ぐさ思草
- 24今今いまさらさらさらににになぞなぞなぞ今更爾何
- 25物物ものかかか念念おもははわむむん物可將念
- 26草草くさ深深ふかみみみ草深三2271 花
- 27こほろぎこほろぎこおろぎ多多さわににに蟋多
- 28鳴鳴なくくく屋前屋前にはののの鳴屋前
- 29萩萩はぎ見見みににに君君きみははは芽子見公者
- 30何時何時いつかかか來來きまさまさまさむむん何時來益牟
- 31秋秋あきづけづけずけばばば秋就者2272 花
- 32水水み草草くさののの花花はなののの水草花乃
- 33あえあえあえぬぬぬがががににに阿要奴蟹
- 34思思おもへへえどどど知知しらららじじじ思跡不知
- 35直直ただににに逢逢あははわざれざれざればばば直爾不相在者
現代語訳
〔2266〕私が出て行ってしまったら、(天飛ぶ)雁のようにあなたは泣くだろうと、今日か今日かと言っているうちに、年が過ぎてしまった。
〔2267〕牡鹿が朝伏している小野の草がまだ若いので隠れきれないように、私たちの仲が人に知られないでください。
〔2268〕牡鹿が小野の草に伏した跡がはっきりしているように、私が問いもしないのに、人が知っていることよ。
〔2269〕この夜の明け方近くに鳴く鶴のように、思いは消え去らず、恋しさがいっそうまさることだ。
〔2270〕道のほとりの尾花の下の思草のように、今さらどうして物思いをしようか。
〔2271〕草が深いので、こおろぎがたくさん鳴いているわが家の庭の萩を見に、あなたはいつおいでになるのでしょう。
〔2272〕秋になると水草の花がこぼれ落ちそうになるように、思っていても知らないだろう。直接逢わないので。
意訳
鳥・鹿・草・花に寄せた恋の歌である。旅立てば相手が雁のように泣くだろうと出発を延ばすうちに年が過ぎた歌、鹿の伏す若草のように隠れきれない恋が人に知られるのを恐れる歌、鹿の草伏の跡のようにはっきりと人に知られた恋、明け方に鳴く鶴のように消えない思い、尾花の陰の思草のように今さら物思いはするまいという歌、こおろぎの鳴く庭の萩を見に来てほしいという誘い、水草の花のようにこぼれそうな思いも直接逢わなければ伝わらないという嘆きが並ぶ。
語釈・文法注
文法・本文
- なきぬべみ
- 泣いてしまいそうなので。
- 草伏
- 「くさぶし」。鹿が草に伏した跡。
- 曉降ち
- 「あかときくだち」。夜明けが近づいて。
- 思草
- 「おもひぐさ」。なんばんぎせるとされる。
- あえぬがに
- こぼれ落ちそうに。
和歌
- 作者
- 作者未詳
- 出典
- 『万葉集』巻第十・相聞・2266〜2272番
- 歌体
- 短歌(五七五七七)
- 時期
- 作者未詳(時代を問わない)
- 状況
- 秋の相聞。鳥・鹿・草・花に寄せた恋の歌。
修辞
- 序詞
- 2267番・2268番・2269番・2270番・2272番の上の句が下の句を導く。
解説
2270番の思草は、尾花(すすき)の根に寄生して咲く花で、うつむいて咲く姿が物思いにふける人にたとえられた。
関連
出典
- 底本
- 佐佐木信綱編『新訓万葉集』上巻 岩波文庫、昭和2年(1927)、414頁(コマ211)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 原文
- 佐佐木信綱編『白文万葉集』上巻 岩波書店、昭和24年(1949)、473頁(コマ242)。万葉仮名の原文。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日