万葉集 巻第十 1868〜1873番
かはづ鳴く 吉野の河の
かじかの鳴く吉野川の滝のほとりの馬酔木の花を地に置くな。春雨に負けて庭の桜が咲き始めた。春雨よひどく降るな、まだ見ない桜が散る。散るのが惜しい梅はしばらくつぼみでいてほしい。春日野に霞が立ち咲き匂うのは桜か。いつ夜が明けて鶯の散らす梅が見られるか。春の花の歌六首。
場面イラスト(準備中)
題詞(花を詠める)
- 1かはづかはづかわず鳴鳴なくくく川津鳴1868
- 2吉野吉野よしぬののの河河かはののの吉野河之
- 3瀧瀧たぎののの上上うえののの瀧上乃
- 4馬醉木馬醉木あしびののの花花はなぞぞぞ馬醉之花曾
- 5地地つちににに置置おくくくなななゆめゆめゆめ置末勿勤
- 6春春はる雨雨さめににに春雨爾1869
- 7爭爭あらそひひいかねかねかねててて相爭不勝而
- 8吾吾わががが屋前屋前にはののの吾屋前之
- 9櫻櫻さくらののの花花はなははは櫻花者
- 10咲咲さききき始始そめめめにににけりけりけり開始爾家里
- 11春春はる雨雨さめははは春雨者1870
- 12甚甚いたくくくななな零零ふりりりそそそ甚勿零
- 13櫻櫻さくら花花ばな櫻花
- 14いまだいまだいまだ見見みなくなくなくににに未見爾
- 15散散ちらららまくまくまく惜惜をしししももも散卷惜裳
- 16春春はるされされさればばば春去者1871
- 17散散ちらららまくまくまく惜惜おしきしきしき散卷惜
- 18梅梅うめののの花花はな梅花
- 19暫暫しましははは咲咲さかかかずずず片時者不咲
- 20含含ふふみみみてててもがもがもがももも含而毛欲得
- 21見見み渡渡わたせせせばばば見渡者1872
- 22春日春日かすがののの野野ぬ邊邊べににに春日之野邊爾
- 23霞霞かすみ立立たちちち霞立
- 24咲咲さききき艷艷におへへえるるるははは開艶者
- 25櫻櫻さくら花花ばなかもかもかも櫻花鴨
- 26いついついつしかしかしかももも何時鴨1873
- 27このこのこの夜夜よののの明明あけけけむむん此夜之將明
- 28鶯鶯うぐいすののの鶯之
- 29木木こ傳傳づたひひい散散ちらすらすらす木傳落
- 30梅梅うめののの花花はな見見みむむむ梅花將見
現代語訳
〔1868〕かじかの鳴く吉野の川の滝のほとりの馬酔木の花を、決して地面に落としてくれるな。
〔1869〕春雨に逆らいきれずに、わが家の庭の桜の花は咲き始めたことだ。
〔1870〕春雨よ、ひどく降らないでおくれ。桜の花をまだ見てもいないのに、散ってしまうのが惜しい。
〔1871〕春になると散ってしまうのが惜しい梅の花よ、しばらくは咲かずにつぼみのままでいてほしい。
〔1872〕見渡すと春日の野辺に霞が立ち、咲き匂っているのは桜の花だろうか。
〔1873〕いつになったらこの夜が明けるのだろう。鶯が枝を伝って散らす梅の花を見たいのに。
意訳
春の花の歌の続きである。吉野川の滝のほとりに咲く馬酔木を地に散らすなと願い、春雨に促されて咲き始めた庭の桜を喜び、まだ見ないうちに散らせるなと春雨に頼む。散るのが惜しいので梅にはつぼみのままでいてほしいと願い、春日野の霞の中に咲き匂う桜を眺め、夜明けを待ちかねて鶯の散らす梅を見たいと歌う。
語釈・文法注
文法・本文
- 馬醉木
- 「あしび」。春に白い壺形の花を房状に咲かせる木。
- 爭ひかねて
- 逆らいきれずに。
- 甚くな零りそ
- ひどく降らないでくれ。
- 含みてもがも
- つぼみのままでいてほしい。
和歌
- 作者
- 作者未詳
- 出典
- 『万葉集』巻第十・雑歌・1868〜1873番
- 歌体
- 短歌(五七五七七)
- 時期
- 作者未詳(時代を問わない)
- 状況
- 春の花を詠んだ歌。
修辞
- 擬人
- 1869番は、春雨に負けて咲く桜を人のように詠む。
解説
春雨が花を咲かせ、また散らすという両面が、春の花の歌でくり返し詠まれている。
関連
出典
- 底本
- 佐佐木信綱編『新訓万葉集』上巻 岩波文庫、昭和2年(1927)、381頁(コマ194)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 原文
- 佐佐木信綱編『白文万葉集』上巻 岩波書店、昭和24年(1949)、432頁(コマ222)。万葉仮名の原文。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日