万葉集 巻第九 1740〜1741番
春の日の 霞める時に
住吉の岸で釣船を見て、昔の浦島子の話を思い出す。浦島子は海神の娘と結ばれて常世の宮で暮らしたが、家に帰ると家も里も見えず、開けるなと言われた箱を開けると白雲が常世へ流れ、たちまち老いて死んだ。高橋虫麻呂の浦島伝説の長歌。
題詞水江の浦島子を詠める一首并に短歌
- 1春春はるののの日日ひののの霞霞かすめめめるるる時時ときににに春日之 霞時爾1740 長歌
- 2住吉住吉すみのえののの岸岸きしににに出出いででで居居いててて墨吉之 岸爾出居而
- 3釣釣つり船船ぶねのののとをらふとをらふとおらう見見みれれればばば釣船之 得乎良布見者
- 4古古いにしえののの事事ことぞぞぞ念念おもほゆるほゆるおゆる古之 事曾所念
- 5水江水江みずのえののの浦島浦島うらしま兒兒のこががが水江之 浦島兒之
- 6堅魚堅魚かつお釣釣つりりり鯛鯛たい釣釣つりりり矜矜ほこりりり堅魚釣 鯛釣矜
- 7七日七日なぬかまでまでまで家家いえにににももも來來こずずずててて及七日 家爾毛不來而
- 8海界海界うなさかををを過過すぎぎぎててて榜榜こぎぎぎ行行ゆくくくににに海界乎 過而榜行爾
- 9海若海若わたつみののの神神かみののの女女おみなににに海若 神之女爾
- 10邂邂たまさかにににいいい榜榜こぎぎぎ向向むかひひい邂爾 伊許藝趍
- 11あひあひあいとぶらひとぶらひとぶらいことことこと成成なりりりしかしかしかばばば相誂良比 言成之賀婆
- 12かきかきかき結結むすびびび常世常世とこよににに至至いたりりり加吉結 常代爾至
- 13海若海若わたつみののの神神かみののの宮宮みやののの海若 神之宮乃
- 14內內うちののの重重へののの妙妙たえなるなるなる殿殿とのににに內隔之 細有殿爾
- 15携携たずさはりはりわり二二ふた人人り入入いりりり居居いててて携 二人入居而
- 16老老おいもももせせせずずず死死しにもももせせせずずずしてしてして耆不爲 死不爲而
- 17永永ながききき世世よににに在在ありりりけるけるけるものものものををを永世爾 有家留物乎
- 18世世よのののなかなかなかののの愚愚おろか人人びとののの世間之 愚人之
- 19吾吾わぎ妹妹も子子こににに告告のりりりててて語語かたらくらくらく吾妹兒爾 告而語久
- 20須臾須臾しましくははは家家いえににに歸歸かえりりりててて須臾者 家歸而
- 21父父ちち母母ははににに事事ことももも告告のらひらひらい父母爾 事毛告良比
- 22明日明日あすののの如如ごと吾吾われははは來來きなななむむんととと如明日 吾者來南登
- 23言言いひひいけれけれければばば妹妹いもがががいへいへいえらくらくらく言家禮婆 妹之答久
- 24常世常世とこよ邊邊べにににまたまたまた歸歸かえりりり來來きててて常世邊 復變來而
- 25今今いまのののごとごとごと逢逢あははわむむんとととならならならばばば如今 將相跡奈良婆
- 26このこのこの篋篋くしげ開開ひらくくくななな努努ゆめととと此篋 開勿勤常
- 27許多許多そこらくににに堅堅かためめめししし言言ことををを曾己良久爾 堅目師事乎
- 28住吉住吉すみのえににに還還かえりりり來來きたりりりててて墨吉爾 還來而
- 29家家いえ見見みれれれどどど家家いえももも見見みかねかねかねててて家見跡 宅毛見金手
- 30里里さと見見みれれれどどど里里さとももも見見みかねかねかねててて里見跡 里毛見金手
- 31恠恠あやしししとととそこそこそこににに念念おもはくはくわく恠常 所許爾念久
- 32家家いえゆゆゆ出出いでででててて三三み歲歲とせののの間間ほどににに從家出而 三歲之間爾
- 33墻墻かきももも無無なくくく家家いえ滅滅うせせせめめめやややととと墻毛無 家滅目八跡
- 34このこのこの筥筥はこををを開開ひらきききててて見見みてててばばば此筥乎 開而見手歯
- 35舊舊もとののの如如ごと家家いえはははあらあらあらむむんととと如本 家者將有登
- 36玉玉たま篋篋くしげ少少すこししし開開ひらくくくににに玉篋 小披爾
- 37白白しら雲雲くもののの箱箱はこよりよりより出出いでででててて白雲之 自箱出而
- 38常世常世とこよ方方べににに棚棚たな引引びきききぬれぬれぬればばば常世邊 棚引去者
- 39立立たちちち走走はしりりり叫叫さけびびび袖袖そで振振ふりりり立走 叫袖振
- 40反側反側こいまろびびび足足あしずりずりずりしししつつつつつつ反側 足受利四管
- 41たちまちたちまちたちまちににに情情こころ消消け失失うせせせぬぬぬ頓 情消失奴
- 42若若わかかりかりかりししし膚膚はだももも皺皺しわみみみぬぬぬ若有之 皮毛皺奴
- 43黑黑くろかりかりかりししし髪髪かみももも白白しらけけけぬぬぬ黑有之 髪毛白斑奴
- 44ゆなゆなゆなゆなゆなゆなははは氣氣いきさへさへさへ絕絕たえええててて由奈由奈波 氣左倍絕而
- 45後後のちつひにつひについに壽壽いのち死死しにににけるけるける後遂 壽死祁流
- 46水江水江みずのえののの浦島浦島うらしま子子のこががが家地家地いえどころ見見みゆゆゆ水江之 浦島子之 家地見
- 47常世常世とこよ邊邊べににに常世邊1741 反歌
- 48住住すむむむべきべきべきものものものををを可住物乎
- 49劒劒つるぎ刀刀たち劒刀
- 50己己なががが心心こころからからから己之心柄
- 51鈍鈍おそやややこのこのこの君君きみ於曾也是君
現代語訳
〔1740〕春の日の霞んでいる時に、住吉の岸に出て腰をおろし、釣船が波に揺れているのを見ると、昔の事が思い出される。水江の浦島の子が、鰹を釣り鯛を釣って得意になり、七日経っても家にも帰らずに、海の果てを越えて漕いで行くと、海神の娘にたまたま漕ぎ合わせて、言葉を交わして結婚がまとまったので、契りを結んで常世の国に至り、海神の宮殿の奥の美しい御殿に、手を取り合って二人で入って暮らし、老いもせず死にもしないで、永遠に生きていられたのに、世の中の愚か者が、妻に告げて言うには、「しばらく家に帰って、父母に事情も話し、明日にでも私は戻って来よう」と言ったので、妻が言うことには、「この常世にまた帰って来て、今のように逢おうと思うなら、この櫛笥を決して開けないでください」と、くれぐれも固く約束した言葉だったのに、住吉に帰って来て、家を見ても家も見つからず、里を見ても里も見つからず、不思議に思って、そこで考えたことには、「家を出てからたった三年の間に、垣根もなくなり家も消えてしまうことがあろうか。この箱を開けて見たら、もとのように家は現れるだろう」と、玉櫛笥を少し開けると、白雲が箱から立ち出でて、常世の方へたなびいていったので、跳び上がって走り、叫んで袖を振り、ころげ回って地団駄を踏みながら、たちまち気を失ってしまった。若々しかった肌も皺がより、黒かった髪も白くなってしまった。やがては息さえ絶えて、のちにはとうとう命が尽きて死んでしまった。その水江の浦島の子の家の跡が見える。
〔1741〕常世の国にずっと住んでいられたものを、自分の心がけのせいで、なんと愚かなことよ、この人は。
意訳
住吉の岸で釣船を眺めながら、浦島子の伝説を思い起こす歌である。漁に出た浦島子は海神の娘と結ばれ、常世の宮で不老不死の暮らしを得たが、父母に会いたいと一時帰郷する。三年のうちに家も里も消えていることに驚き、開けるなと言われた櫛笥を開けると、白雲が常世の方へ流れ去り、たちまち老い衰えて死んでしまう。反歌は、常世にいればよかったのに、自分の心から台無しにした愚かな人だと、哀れみをこめて結ぶ。
語釈・文法注
文法・本文
- とをらふ
- 揺れ動く。波にたゆたう。
- 海界
- 「うなさか」。海の果て、海神の国との境。
- 海若
- 「わたつみ」。海の神。
- 許多に
- 「そこらくに」。はなはだしく、くれぐれも。
- ゆなゆなは
- のちのちは、やがては。
- 鈍やこの君
- 「おそ」は愚か、間抜け。愚かなことよ、この人は。
和歌
- 作者
- 作者未詳
- 出典
- 『万葉集』巻第九・雑歌・1740〜1741番
- 歌体
- 長歌(五七をくり返し、五七七で結ぶ)
- 時期
- 第3期(710〜733年(平城京遷都〜山上憶良の没年ごろ))
- 状況
- 住吉の岸で浦島子の伝説を詠んだ歌。高橋虫麻呂歌集に出る。
修辞
- 対句
- 「家見れど 家も見かねて 里見れど 里も見かねて」「若かりし 膚も皺みぬ 黑かりし 髪も白けぬ」。
- 反歌
- 長歌の語り手が、浦島子を「鈍やこの君」と評して結ぶ。
解説
浦島子の話は『日本書紀』雄略天皇22年条や『丹後国風土記』逸文にも見える。この長歌では舞台を摂津の住吉に置き、亀は登場せず、海神の娘と出会い常世の国へ行く。後の御伽草子の浦島太郎の原型の一つである。
関連
出典
- 底本
- 佐佐木信綱編『新訓万葉集』上巻 岩波文庫、昭和2年(1927)、354頁(コマ181)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 原文
- 佐佐木信綱編『白文万葉集』上巻 岩波書店、昭和24年(1949)、402頁(コマ207)。万葉仮名の原文。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日