古典ライブラリー

万葉集 巻第七 1272番

劒の後

柿本人麻呂歌集(かきのもとのひとまろかしゅう)

入野で葛を引いている娘さん、その両袖で、あの人に着せる衣を作ろうというのか、夏草を刈っているよ。五七七・五七七の旋頭歌。

夏の野で、袖をからげて葛のつるを引く娘と、道からその姿を見つめる旅の男
夏の野で、袖をからげて葛のつるを引く娘と、道からその姿を見つめる旅の男

題詞旋頭歌

  1. 1劒たち劒たちたちののの劒後
  2. 2鞘さや鞘さやさやににに納いり納いりいりににに鞘納野邇
  3. 3引ひ引ひひくくく吾わぎ吾わぎわぎ妹も妹もも葛引吾妹
  4. 4眞ま眞ままもちもちもち眞袖以
  5. 5著き著ききせせせてててむむんととと著點等鴨
  6. 6夏なつ夏なつなつ草くさ草くさくさ苅か苅かかるるるももも夏草苅母

引用の仕方

レポート・論文で引用する場合の表記例です。行番号を選んでから開くと、その行へのリンクになります。

現代語訳

(劒の後を鞘に入れるという)入野で葛を引いている娘さんよ、その両袖で、(誰かに)着せようというのだろうか、夏草を刈っていることよ。

意訳

夏の野で、葛のつるを引いたり草を刈ったりして働く娘を、通りがかりの男が眺めている。葛の繊維は布の材料になるので、「その布で恋しい人に衣を作って着せるつもりなのだろうか」と想像してからかっている。前半の三句で娘の姿を描き、後半の三句でその心をおしはかる。もとは野で働く若い男女がかけ合いで歌った、民謡風の歌であったと考えられる。

語釈・文法注

劒の後(たちのしり)
太刀の柄から遠い方の端。太刀の後ろを鞘に入れることから、「鞘に入る」を導いて地名「入野」にかける序詞。
納野(いりぬ)
地名「入野」。所在には諸説がある。「鞘に納(い)る」と掛けて表記している。
葛(くず)
マメ科のつる草。茎の繊維から葛布を織った。
眞袖(まそで)
左右の袖、両袖。「ま」は完全である意の接頭語。
著せてむとかも
「てむ」は完了「つ」と推量「む」で、きっと着せようと。「かも」は疑問。着せようというのだろうか。

文法・本文

原文「著點等鴨」
「點」を「て」、「鴨」を「かも」と訓む。漢字の音や訓を借りて助詞・助動詞を書き表す、万葉仮名らしい表記。
苅るも
「も」は詠嘆の終助詞。刈っていることよ。
左注
この歌から始まる二十三首の旋頭歌の後に「右の二十三首は柿本朝臣人麿の歌集に出づ」とある。

和歌

作者
柿本人麻呂歌集(7世紀後半〜8世紀初め)
万葉集の編纂に使われた歌集の一つで、今は伝わらない。柿本人麻呂が自作や、各地で集めた歌を記したものと考えられている。旋頭歌や、簡潔な表記の恋の歌を多く含む。
出典
『万葉集』巻第七・雑歌・1272番
歌体
旋頭歌(五七七五七七)
時期
第2期(672〜710年(壬申の乱〜平城京遷都))
状況
巻第七・雑歌の旋頭歌の部の最初の歌。柿本人麻呂歌集から採られた歌の一首である。

修辞

旋頭歌の形式
五七七・五七七の六句からなり、前半で娘の動作を描き、後半でその心を推しはかる。上と下が同じ形で、問いかけと答えのような構成になっている。
序詞
「劒の後 鞘に」が「納(入)野」を導く。

解説

旋頭歌は、五七七を二度くり返す六句の歌の形である。「頭(はじめ)に旋(かえ)る」歌という名のとおり、後半が前半と同じ調子でくり返されることから、もとは二人で問答したり、かけ合いで歌ったりする歌謡の形であったと考えられている。万葉集には約六十首の旋頭歌があり、その多くは柿本人麻呂歌集から採られたものである。

この歌は、野で働く娘への男の呼びかけの形をとる。前半の「劒の後鞘に」は、地名「入野」を導くための序詞で、太刀を鞘に「入る」という言葉の連想を利用している。後半では、娘が刈る草を、恋人のための衣の材料と見立ててからかう。素朴で明るい労働の場の歌であり、短歌とは異なる、ゆったりとしたくり返しの調子を味わうことができる。

関連

出典

底本
佐佐木信綱編『新訓万葉集』上巻 岩波文庫、昭和2年(1927)、275頁(コマ141)。国立国会図書館デジタルコレクション
原文
佐佐木信綱編『白文万葉集』上巻 岩波書店、昭和24年(1949)、303頁(コマ157)。万葉仮名の原文。国立国会図書館デジタルコレクション
校訂・訳・注
古典ライブラリー編集部
更新日