万葉集 巻第二 110番
大名兒
大名児よ、遠くの野辺で刈る草の一束の、ほんのつかの間も、私はあなたを忘れようか。皇太子草壁皇子が石川女郎に贈った恋の歌。

題詞日並皇子尊、石川女郎に贈り給へる御歌 女郎字を大名兒といふ
現代語訳
大名児よ、遠くの野辺で刈る草の一束の、そのほんのつかの間も、私はあなたを忘れることがあろうか。
意訳
刈り取った草を一つかみに束ねる、その「束(つか)」の短さから、「つかの間」を導く。ほんの短い時間も、あなたを忘れはしないと、石川女郎(大名児)への一途な思いを伝えている。109番で大津皇子と密会した石川郎女と同じ女性とすれば、異母兄弟が一人の女性をめぐって恋の歌を詠んでいたことになる。
語釈・文法注
- 大名兒(おほなこ)
- 石川女郎の字(あざな)。題詞の注にある。
- 彼方(をちかた)
- 遠くの方、向こう側。
文法・本文
- 苅る草の 束の間も
- 刈った草の一束(つか)から「つかの間」へ続ける序詞。
- 吾忘れめや
- 「めや」は反語。忘れることがあろうか、いや忘れない。
- 束の間も(本文)
- 『白文万葉集』は原文を「束間毛」と刷る。
和歌
- 作者
- 草壁皇子(662–689)
天武天皇と持統天皇の子。日並皇子尊(ひなみしのみこのみこと)と尊称された皇太子。即位しないまま二十八歳で亡くなった。子に文武天皇・元正天皇がいる。 - 出典
- 『万葉集』巻第二・相聞・110番
- 歌体
- 短歌(五七五七七)
- 時期
- 第2期(672〜710年(壬申の乱〜平城京遷都))
- 状況
- 皇太子の草壁皇子(日並皇子尊)が、石川女郎(字を大名児という)に贈った歌。
修辞
- 序詞
- 「彼方野邊に苅る草の」が「束の間」を導く。
解説
草壁皇子は、天武天皇と持統天皇の間に生まれた皇太子で、母の持統天皇はこの皇子を皇位につけることを強く望んでいた。しかし皇子は即位しないまま、持統天皇3年(689)に亡くなった。万葉集に残る草壁皇子の歌は、この一首だけである。
石川女郎は、大津皇子と密会した石川郎女(107〜109番)と同一人物とする説がある。もしそうなら、皇位を争う立場にあった二人の皇子が、一人の女性をめぐっても競っていたことになり、大津皇子の悲劇の背景を想像させる。
関連
出典
- 底本
- 佐佐木信綱編『新訓万葉集』上巻 岩波文庫、昭和2年(1927)、53頁(コマ30)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 原文
- 佐佐木信綱編『白文万葉集』上巻 岩波書店、昭和24年(1949)、48頁(コマ30)。万葉仮名の原文。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日