万葉集 巻第二 108番
吾を待つと
私を待ってあなたがぬれたという山のしずく。そのしずくになれたらよかったのに。大津皇子の歌に、石川郎女が返した歌。

題詞石川郎女、和へ奉れる歌一首
現代語訳
私を待つというので、あなたがぬれたという、その(あしひきの)山のしずくに、私はなれたらよかったのに。
意訳
「待ちぼうけでぬれてしまった」と恨む皇子に、石川郎女は言い訳をせず、「そのしずくになって、あなたの身にふれていたかった」と返す。行かなかったことをわびるかわりに、しずくになってでもそばにいたかったという思いを伝え、相手の恨みを甘い言葉で受け止めている。皇子の歌の言葉「あしひきの山の雫に」をそのまま取り入れ、巧みに切り返した才気あふれる返歌である。
語釈・文法注
- 沾れけむ
- 「けむ」は過去の推量の助動詞。あなたがぬれたという(その)。連体形で「山の雫」にかかる。
- ならましものを
- 「まし」は反実仮想の助動詞で、実際にはそうでないことを願う意を表す。「ものを」は詠嘆をこめた逆接。なれたらよかったのになあ。
文法・本文
- 君が沾れけむ あしひきの 山の雫に
- 「君が沾れけむ」が連体修飾で「山の雫」にかかる。間に枕詞「あしひきの」をはさむ。
- 反実仮想
- 「…ましものを」。現実にはかなわないことを仮に想像し、そうであればよかったのにと願う表現。
和歌
- 作者
- 石川郎女(生没年未詳(7世紀後半))
大津皇子・草壁皇子と歌を交わした女性。万葉集には「石川郎女」「石川女郎」と呼ばれる女性が何人か登場し、同じ人物かどうかははっきりしない。 - 出典
- 『万葉集』巻第二・相聞・108番
- 歌体
- 短歌(五七五七七)
- 時期
- 第2期(672〜710年(壬申の乱〜平城京遷都))
- 状況
- 107番の大津皇子の歌に、石川郎女が答えた歌。
修辞
- 本歌の言葉の取り込み
- 皇子の歌の「あしひきの」「山の雫に」をそのまま用い、贈答の歌らしく言葉をつないでいる。
- 反実仮想
- 「ならましものを」で結び、相手への思いをかなわぬ願いの形で表す。
解説
贈答歌では、相手の歌の言葉を受け取り、それを生かしながら別の意味に切り返すことが、歌の腕の見せどころとされた。石川郎女は、大津皇子の「山の雫に」の句をそのまま受け、ぬれた原因であるしずくに、自分がなりたかったと詠む。皇子の恨みを否定も弁解もせず、むしろ恋の言葉に変えてしまうところに、才気あふれる女性の姿が浮かぶ。
万葉集には、相手の言葉を巧みに受けて返す女性の歌が多く残されている。この贈答は、宮廷の若い皇子と女性との間で交わされた恋の歌の典型であり、のちの平安時代の歌物語にもつながる、機知に富んだやりとりとして読むことができる。
関連
出典
- 底本
- 佐佐木信綱編『新訓万葉集』上巻 岩波文庫、昭和2年(1927)、53頁(コマ30)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 原文
- 佐佐木信綱編『白文万葉集』上巻 岩波書店、昭和24年(1949)、47頁(コマ29)。万葉仮名の原文。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日