万葉集 巻第二 90番
君が行 日長くなりぬ 山たづの
あなたの旅は日数が長くなった。迎えに行こう、もう待ってはいられない。伊予に流された軽太子を追う衣通王の、『古事記』に載る歌。

題詞古事記に曰く、軽太子、軽の太郎女に奸けぬ。故その太子は伊予の湯に流されき。この時衣通王、恋慕に堪へずして追ひ往く時の歌に曰く
現代語訳
あなたのお出かけは、日数が長くなってしまった。(山たづの)お迎えに行こう。もう待ってはいられない。
意訳
兄の軽太子との許されない恋のために、太子は伊予へ流された。残された衣通王は、恋しさに耐えきれず、自分から迎えに行こうと決意する。85番の磐姫の歌が「迎へか行かむ待ちにか待たむ」と迷うのに対し、この歌は「待つには待たじ」と言い切る。二人はのちに伊予で再会し、ともに死を選んだと『古事記』は伝える。
語釈・文法注
- 山たづの
- 「迎へ」にかかる枕詞。山たづ(ニワトコ)は枝や葉が向かい合ってつくことから。左注に「ここに山多豆といへるは、これ今の造木といふ者なり」とある。
文法・本文
- 待つには待たじ
- 「じ」は打消の意志。待つことはもうすまい。
- 左注
- 古事記と類聚歌林とで伝えが異なり、歌の作者も違うことを述べ、日本書紀の仁徳天皇・允恭天皇の記事を引いて考証している。
和歌
- 作者
- 衣通王(伝承の時代)
軽大郎女(かるのおおいらつめ)の別名。允恭天皇の皇女で、その美しさが衣を通して輝いたことから衣通王と呼ばれた。同母兄の軽太子との恋が罪とされ、伊予へ流された太子を追ったと『古事記』は伝える。 - 出典
- 『万葉集』巻第二・相聞・90番
- 歌体
- 短歌(五七五七七)
- 時期
- 伝承の時代(舒明天皇より前)
- 状況
- 『古事記』允恭天皇の条に見える歌。軽太子が同母妹の軽大郎女(衣通王)と通じたため伊予の湯に流され、衣通王が恋しさに耐えずに追っていくときの歌。85番と初句が同じであることから、ここに並べて載せられた。
修辞
- 枕詞
- 「山たづの」が「迎へ」にかかる。
解説
85番の磐姫の歌と上の句がほとんど同じであるため、編者は『古事記』からこの歌を引いて並べ、左注で両者の伝えの違いを詳しく論じている。同じ歌が、違う人物の物語の中で歌われていたことがわかり、古代の歌が伝承の中で生きていた様子をうかがわせる。
85番が「迎へか行かむ待ちにか待たむ」と迷うのに対し、この歌は「待つには待たじ」ときっぱり言い切り、悲劇的な恋に向かって踏み出す強い意志を表している。
関連
出典
- 底本
- 佐佐木信綱編『新訓万葉集』上巻 岩波文庫、昭和2年(1927)、50頁(コマ29)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 原文
- 佐佐木信綱編『白文万葉集』上巻 岩波書店、昭和24年(1949)、44頁(コマ28)。万葉仮名の原文。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日