万葉集 巻第一 64番
葦邊ゆく
葦辺を泳ぐ鴨の、たたんだ翼の上に霜が降りて、寒い夕べは大和のことが思われる。難波への行幸に従った志貴皇子が、冬の旅先で故郷を思う歌。

題詞慶雲三年丙午、難波宮に幸せる時、志貴皇子の御作歌
現代語訳
葦辺を泳いでいく鴨の、たたんだ翼の重なり目に霜が降りて、寒い夕べには大和のことが思われる。
意訳
冬の難波の入り江で、枯れ葦のあいだを鴨が泳いでいる。その背の羽の重なりに、白く霜が降りている。鴨さえ凍えるような寒い夕暮れに、旅の身はいっそう寂しく、故郷の大和が恋しく思われる。小さな鴨の背の霜という細やかな情景から、旅愁へと自然に心が移っていく、志貴皇子らしい繊細な歌である。
語釈・文法注
- 羽交(はがひ)
- 鳥の左右の翼が重なり合うところ。背中。
文法・本文
- 大和し思ほゆ
- 「し」は強意の副助詞、「思ほゆ」は自然に思われる。
- 大和(本文)
- 『白文万葉集』は原文を「倭」とし、元暦校本の「和」を注記する。
- 原文「寒暮夕」
- 「寒き夕べ」を「寒暮夕」と三字で書く。
和歌
- 作者
- 志貴皇子(?–716)
天智天皇の皇子。歌人としてすぐれ、清新な歌を残した。子の白壁王が即位して光仁天皇となったため、のちに春日宮天皇と追尊された。 - 出典
- 『万葉集』巻第一・雑歌・64番
- 歌体
- 短歌(五七五七七)
- 時期
- 第2期(672〜710年(壬申の乱〜平城京遷都))
- 状況
- 慶雲3年(706)9月から10月にかけて、文武天皇が難波宮に行幸したとき、従った志貴皇子が詠んだ歌。
解説
志貴皇子は天智天皇の皇子で、政治の表舞台に立つことは少なかったが、歌人としては万葉集でも特に繊細な感覚の持ち主として知られる。この歌は、鴨の背に置く霜という小さな景物に目をとめ、寒さと旅の寂しさを鮮やかに描き出している。
「葦辺」「鴨」「霜」「寒き夕べ」と、冬の水辺の情景を一つずつ重ねていき、最後に「大和し思ほゆ」と心情を述べる構成は、万葉集の叙景歌の完成された姿を示している。後の時代にも高く評価され、多くの歌人に影響を与えた。
関連
出典
- 底本
- 佐佐木信綱編『新訓万葉集』上巻 岩波文庫、昭和2年(1927)、32頁(コマ20)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 原文
- 佐佐木信綱編『白文万葉集』上巻 岩波書店、昭和24年(1949)、25頁(コマ18)。万葉仮名の原文。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日