万葉集 巻第一 51番
釆女の
かつては采女たちの袖をひるがえしていた明日香の風が、都が遠くなった今は、むなしく吹いている。藤原京への遷都の後、旧都明日香をしのぶ志貴皇子の歌。

題詞明日香宮より藤原宮に遷居りましし後、志貴皇子の御作歌
現代語訳
采女たちの袖をひるがえしていた明日香の風は、都が遠くなったので、今はむなしく吹いている。
意訳
都が明日香から藤原京へ移ると、明日香の宮は人けのない場所になった。かつては美しい采女たちが行き交い、その袖を風がひるがえしていた。今も同じように風は吹いているが、袖をひるがえす人はもういない。「明日香風」という言葉に、華やかだった都の記憶と、去っていった時代へのなつかしさがこめられている。
語釈・文法注
- 釆女(うねめ)
- 地方の豪族の娘から選ばれ、宮中で天皇の食事などに仕えた女官。美しい女性が選ばれた。
- いたづらに
- むなしく、甲斐もなく。
文法・本文
- 京を遠み
- 「…を…み」の形で理由を表す。都が遠いので。
- 原文「婇女」「無用」
- 采女を「婇女」、「いたづら」を「無用」と書く。
和歌
- 作者
- 志貴皇子(?–716)
天智天皇の皇子。歌人としてすぐれ、清新な歌を残した。子の白壁王が即位して光仁天皇となったため、のちに春日宮天皇と追尊された。 - 出典
- 『万葉集』巻第一・雑歌・51番
- 歌体
- 短歌(五七五七七)
- 時期
- 第2期(672〜710年(壬申の乱〜平城京遷都))
- 状況
- 持統天皇8年(694)、都が明日香の浄御原宮から藤原宮へ遷った後に、志貴皇子が旧都明日香を思って詠んだ歌。
修辞
- 造語
- 「明日香風」は明日香の地を吹く風を一語にした表現で、土地の雰囲気を凝縮している。
解説
藤原京は明日香の北西わずか数キロの所にあり、明日香がそれほど遠くなったわけではない。それでも、都でなくなった明日香は、人々にとって急に遠い場所になってしまった。志貴皇子は、その寂しさを「明日香風」がむなしく吹く情景で表している。
采女の袖という華やかな過去の情景と、今はむなしく吹く風との対比が、短い言葉の中に時の流れを感じさせる。志貴皇子の清らかで品のある歌風がよく表れた一首として、古くから愛誦されてきた。
関連
出典
- 底本
- 佐佐木信綱編『新訓万葉集』上巻 岩波文庫、昭和2年(1927)、30頁(コマ19)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 原文
- 佐佐木信綱編『白文万葉集』上巻 岩波書店、昭和24年(1949)、23頁(コマ17)。万葉仮名の原文。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日