古事記 下巻
大后の怒りと山代への旅
大后石之日売命が御綱柏を採りに紀伊へ出かけた留守に、天皇は八田若郎女と結ばれる。それを聞いた大后は怒って御綱柏を海に投げ捨て、宮に戻らずに堀江をさかのぼって山代へ向かい、故郷の葛城を思う歌を詠んで、筒木の韓人奴理能美の家に入る。
- 1これよりこれよりこれより後後のち、、、大后大后おおきさき、、、豐樂豐樂とよのあかりをををしたまはむとてしたまはむとてしたまわむとて、、、ををを採採とりにりにりに、、、木木きののの國國くににいでませるにいでませるにいでませる間間ほどににに、、、天皇天皇すめらみこと、、、ののの若郞女若郞女わかいらつめににに婚婚よばひましつひましついましつ。。。爾爾ここににに大后大后おおきさきははは、、、御綱柏御綱柏みつなかしわををを御船御船みふねににに積積つもみみててみみててみみてて還還かえりますりますります時時ときににに、、、水取水取もいとりののの司司つかさににに使使つかはははゆるゆるゆる、、、吉備吉備きびののの國國くにののの兒島兒島こじまののの、、、是是これれれ、、、己己おのががが國國くにににに退退そるにるにるに、、、難難かた波波なみののの大渡大渡おおわたりににに、、、おくれたるおくれたるおくれたるののの船船ふねあへりあへりあえり。。。乃乃すなわちちち語語かたりけらくりけらくりけらく、、、「「「天皇天皇すめらみことははは、、、このごろこのごろこのごろ八田八田やたののの若郞女若郞女わかいらつめににに婚婚よばひましてひましていまして、、、晝夜戲晝夜戲よるひるたわぶれますれますれますををを。。。もしもしもし大后大后おおきさきははは、、、このこのこの事事ことををを聞聞きこしめさぬかもしめさぬかもしめさぬかも。。。靜靜しずかにかにかに遊遊あそびいでますびいでますびいでます。。。」」」とぞとぞとぞ語語かたりけるりけるりける。。。かれかれかれ、、、そのそのその倉人女倉人女くらびとめ、、、このこのこの語語かたれるれるれる事事ことををを聞聞ききてきてきて、、、卽卽すなわちちち御船御船みふねににに追追おひしきてひしきていしきて、、、仕丁仕丁よぼろががが言言いひつるごとありさまひつるごとありさまいつるごとありさま具具つぶさににに申申もうしきしきしき。。。こゝにこゝにここに大后大后おおきさき、、、いたくいたくいたく恨恨うらみみみ怒怒いかりましてりましてりまして、、、そのそのその御船御船みふねににに載載のせたるせたるせたる御綱柏御綱柏みつなかしわをばをばをば、、、こと〴〵にこと〴〵にことごとに海海うみににに投投なげうてげうてぎょうて給給たまひきひきいき。。。かれかれかれ其處其處そこをををののの前前さきとととはははいふなりいふなりいうなり。。。自此後時。大后爲將豐樂而。於採御綱柏。幸行木國之間。天皇。婚八田若郞女。於是大后。御綱柏積盈御船。還幸之時。所驅使於水取司。吉備國兒島之仕丁。是退己國。於難波之大渡。遇所後倉人女之船。乃語云。天皇者。皆婚八田若郞女而。晝夜戲遊。若大后不聞看此事乎。靜遊幸行。爾其倉人女。聞此語言。卽追近御船。白之狀具如仕丁之言。於是大后大恨怒。載其御船之御綱柏者。悉投棄於海。故號其地。謂御津前也。
- 2卽卽すなわちちち宮宮みやににに入入いりまさずてりまさずてりまさずて、、、そのそのその御船御船みふねををを引引ひきよせてきよせてきよせて、、、堀江堀江ほりえにさかのにさかのにさかのほらしてほらしてほらして、、、河河かはのののまに〳〵まに〳〵まにまに山代山代やましろににに上上たてまつりいでましきりいでましきりいでましき。。。此此こののの時時ときににに歌歌うたひひい給給たまはくはくわく、、、 山代川山代川やましろがわををを 川川かはのののほりほりほり わがのわがのわがのほればほればほれば 川川かわのべにのべにのべに 生生おひだてるひだてるひだてる ををを さしぶのさしぶのさしぶの木木き 斯斯しががが下下したににに 生生おひだてるひだてるひだてる 葉廣葉廣はびろ ゆつゆつゆつ眞椿眞椿まつばき 斯斯しががが花花はなののの 照照てりいましりいましりいまし 斯斯しががが葉葉はののの ひろりいますひろりいますひろりいますははは 大君大君おおきみろかもろかもろかも卽不入坐宮而。引避其御船。泝於堀江。隨河而。上幸山代。此時歌曰。都藝泥布夜。夜麻志呂賀波袁。迦波能煩理。和賀能煩禮婆。迦波能倍邇。淤斐陀弖流。佐斯夫袁。佐斯夫能紀。斯賀斯多邇。淤斐陀弖流。波毘呂。由都麻都婆岐。斯賀波那能。弖理伊麻斯。芝賀波能。比呂理伊麻須波。淤富岐美呂迦母。
- 3卽卽すなわちちち山代山代やましろよりめぐりてよりめぐりてよりめぐりて、、、那良那良ならののの山山やまののの口口くちにいたりましてにいたりましてにいたりまして、、、歌歌うたひたまはくひたまはくいたまわく、、、つぎねふやつぎねふやつぎねうや 山代川山代川やましろがわををを 宮上宮上みやのぼりりり わがのわがのわがのほればほればほれば 青丹青丹あおによしよしよし 奈良奈良ならををを過過すぎぎぎ をををだてだてだて 大和大和やまとををを過過すぎぎぎ わがわがわが見見みがががほしほしほし國國くにははは 葛城葛城かずらき わぎへのあたりわぎへのあたりわぎえのあたり かくかくかく歌歌うたひてひていて還還かえらしてらしてらして、、、暫暫しまししし、、、筒木筒木つつきののの韓人韓人からいと、、、名名なはははががが家家いえににに入入いりましきりましきりましき。。。卽自山代廻。到坐那良山口。歌曰。都藝泥布夜。夜麻斯呂賀波袁。美夜能煩理。和賀能煩禮婆。阿袁邇余志。那良袁須疑。袁陀弖。夜麻登袁須疑。和賀美賀本斯。久邇波。迦豆良紀。多迦美夜。和藝幣能阿多理。如此歌而還。暫入坐筒木韓人。名奴理能美之家也。
現代語訳
その後、大后は豊楽(宮中の宴)を催そうとして、御綱柏を採りに紀伊の国へお出かけになった。その間に、天皇は八田若郎女と結ばれた。さて大后が、御綱柏を御船にいっぱい積んでお帰りになるとき、水取の司で使われていた吉備の国の児島の仕丁が、自分の国へ帰る途中、難波の大渡で、遅れてきた倉人女の船に出会った。そして「天皇はこのごろ八田若郎女と結ばれて、昼も夜も戯れておられる。大后はこのことをお聞きになっていないのだろうか、のんびりと遊んでおいでだ」と語った。その倉人女はこの話を聞いて、すぐに御船に追いついて、仕丁の言ったとおりに詳しく申し上げた。すると大后はたいへん恨み怒って、その御船に積んだ御綱柏を、すべて海に投げ捨ててしまわれた。それでその場所を御津の崎というのである。
そして宮にはお入りにならず、その御船を引き寄せて、堀江をさかのぼらせ、川の流れに沿って山代へ上っていかれた。このときお歌いになった歌は、
(つぎねふや)山代川を、川をさかのぼって私が上っていくと、川のほとりに生い立っているさしぶの木、そのさしぶの木の下に生い立っている、葉の広い神聖な椿よ。その花のように照り輝いておられ、その葉のようにゆったりと広くいらっしゃるのは、わが大君であることよ。
そして山代から回って、那良の山の入口に着いて、お歌いになった歌は、
(つぎねふや)山代川を、宮へと上っていくと、(あをによし)奈良を過ぎ、(をだて)大和を過ぎて、私が見たいと思う国は、葛城の高宮、わが家のあたりだ。
こう歌って引き返され、しばらく筒木の韓人、名は奴理能美の家にお入りになった。
意訳
宴の準備で大后が留守にしたすきに、天皇は異母妹の八田若郎女と結ばれます。それを知った大后は、苦労して集めた御綱柏をすべて海に捨て、宮に戻らずに山代(京都府南部)へ向かいました。
山代川をさかのぼりながら大后が詠んだ歌は、怒りの中にあっても、椿の花のように照り輝く大君をたたえるものでした。奈良の山口では故郷の葛城を思う歌を詠み、筒木の渡来人奴理能美の家に身を寄せます。夫への愛と怒り、故郷への思いが入り交じった大后の姿が描かれています。
語釈・文法注
- 御綱柏
- 「みつなかしは」。宴で酒や料理を盛る器にした葉。
- 八田の若郞女
- 応神天皇の皇女で、仁徳天皇の異母妹。宇遅能和紀郎子の同母妹。
- 仕丁
- 「よぼろ」。地方から都に上って雑役に従った人。
- 倉人女
- 宮廷の倉の仕事をする女官。
- 御津の前
- 難波の港。大后が御綱柏を投げ捨てたことによる地名とする。
- つぎねふや
- 「山代」にかかる枕詞。
- さしぶ
- 木の名。シャシャンボとする説がある。
- 葛城 高宮
- 大后の故郷。奈良県御所市の辺り。
- 奴理能美
- 山代の筒木(京都府京田辺市)に住んだ渡来人。
文法
- 原文の「皆婚八田若郞女」
- 底本の原文は「皆婚」と刷り、訓み下しは「このごろ」と訓む(通行本文は「比日」)。底本どおりとした。
- 川のほり・わがのほれば
- 底本の訓み下しは「のほり」「のほれば」と濁点なしで刷る。底本どおりとした。
歌謡
つぎねふや 山代川を 川のほり わがのほれば 川のべに 生ひだてる さしぶを さしぶの木 斯が下に 生ひだてる 葉廣 ゆつ眞椿 斯が花の 照りいまし 斯が葉の ひろりいますは 大君ろかも
- 詠者
- 石之日売命
- 状況
- 怒って宮に戻らず、山代川をさかのぼるときに詠んだ歌。
修辞
- 枕詞
- 「つぎねふや」は「山代」にかかる。
- 比喩
- 椿の花と葉に、大君の輝きとおおらかさをたとえる。
つぎねふや 山代川を 宮上り わがのほれば 青丹よし 奈良を過ぎ をだて 大和を過ぎ わが見がほし國は 葛城 高宮 わぎへのあたり
- 詠者
- 石之日売命
- 状況
- 那良の山の入口で、故郷の葛城を思って詠んだ歌。
修辞
- 枕詞
- 「青丹よし」は「奈良」に、「をだて」は「大和」にかかる。
解説
大后の山代行きは、日本書紀では皇后磐之媛が筒城宮に移り、天皇の迎えにも応じずにそこで亡くなったとされています。古事記では、このあと天皇が使者を送り、やがて自ら迎えに行く話が続きます。
関連
出典
- 底本
- 古事記(佐伯常麿校註) 国民図書、昭和4年(1929)。234〜236頁。国立国会図書館デジタルコレクション(保護期間満了)
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部(原文・訓み下しは底本による。現代語訳・注は当サイト)
- 更新日