古事記 下巻
清寧天皇と二王子の発見
第二十二代清寧天皇(白髪大倭根子命)には皇后も御子もなく、崩じたあとは皇位を継ぐ者がいなかったので、市辺之忍歯王の妹、飯豊王が葛城の角刺宮にいた。播磨に赴任した山部連小楯が志自牟の新築祝いの宴に出ると、火焚きの少年二人が舞を譲り合い、弟が舞いながら自分たちは市辺之押歯王の子だと名乗る。小楯は驚いて二人を迎え、飯豊王は喜んで都に呼び寄せる。
- 1白髮白髮しらかのののののの命命みこと、、、伊波禮伊波禮いわれのののののの宮宮みやにましましてにましましてにましまして、、、天天あめののの下知下知したし召召めしきしきしき。。。此此こののの天皇天皇すめらみこと、、、皇后皇后おおきさきましまさずましまさずましまさず。。。御子御子みこもまさざりきもまさざりきもまさざりき。。。かれかれかれ、、、御名代御名代みなしろとしてとしてとして、、、白髮部白髮部しらかべををを定定さだめめめ給給たまひきひきいき。。。かれかれかれ、、、天皇天皇すめらみこと崩崩かむあがりましてりましてりまして後後のち、、、天天あめののの下知下知したしらすべきらすべきらすべき御子御子みこましまさずましまさずましまさず。。。是是ここににに日繼日繼ひつぎ知知しろしめさむろしめさむろしめさむ王王きみををを問問とふにふにうに、、、市邊市邊いちのべののの忍齒忍齒おしは別別わけののの王王みこののの妹妹いも、、、忍海忍海おしぬみののの郞女郞女いらつめ、、、またのまたのまたの御名御名みなはははののの王王きみ、、、葛城葛城かずらきののの忍海忍海おしぬみののの高木高木たかぎのののののの宮宮みやにましましきにましましきにましましき。。。白髮大倭根子命。坐伊波禮之甕栗宮。治天下也。此天皇。無皇后。亦無御子。故御名代。定白髮部。故天皇崩後。無可治天下之王也。於是問日繼所知之王也。市邊忍齒別王之妹。忍海郞女。亦名飯豐王。坐葛城忍海之高木角刺宮也。
- 2こゝにこゝにここに、、、山部山部やまべののの連連つら、、、針間針間はりまののの國國くにのののににに任任まかれるれるれる時時ときににに、、、そのそのその國國くにののの人民人民おおみたから、、、名名なははは志自牟志自牟しじむががが新室新室にいむろににに到到いたりてりてりて樂樂うたげすすす。。。こゝにこゝにここに盛盛さかりにりにりに樂樂うたけてけてけて、、、酒酣酒酣さかなかなるなるなる時時とき、、、次第次第ついでのまゝにのまゝにのままに皆皆みな舞舞まひすひすいす。。。かれかれかれ、、、二人二人ふたり、、、竈竈かまどののの傍傍かたえににに居居いたるたるたる、、、そのそのその少子少子わらわどもにもどもにもどもにも舞舞まはしむるにはしむるにわしむるに、、、そのそのその一一いち人人ひとののの少子少子わらわ、、、「「「汝兄汝兄なせ先先まづづず舞舞まひひい給給たまへへえ。。。」」」といへばといへばといえば、、、そのそのその兄兄いろせももも、、、「「「汝弟汝弟なおと先先まづづず舞舞まひひい給給たまへへえ。。。」」」といふといふという。。。かくかくかく相讓相讓あいゆずるるる時時ときににに、、、そのそのその會會つどへるへるえる人人ひとどもどもども、、、そのそのその相讓相讓あいゆずるるる狀狀さまををを笑笑わらひきひきいき。。。かれかれかれ、、、遂遂ついににに、、、兄兄いろせ先先まづづず舞舞まひひい訖訖おりてりてりて、、、次次つぎににに弟舞弟舞おとまはむとするはむとするわむとする時時ときににに、、、しつらくしつらくしつらく、、、物部物部もののふののの 我我あががが夫子夫子せこががが 取取とりりり佩佩はけるけるける 太刀太刀たちののの手上手上たかみににに 丹畫丹畫にかききき著著つけけけ そのそのその緒緒をにににははは 赤幡赤幡あかはたををを 載載たちちち 赤幡立赤幡立あかはたたてててててて 見見みゆればゆればゆれば五十隱五十隱いかくるるる 山山やまののの三尾三尾みおののの 竹竹たけををを 本搔本搔もとかききき刈刈かりりり 末押末押すえおししし靡靡なびかすなすかすなすかすなす 八絃八絃やつおののの琴琴ことををを調調しらべたるごとべたるごとべたるごと 天天あめののの下治下治したしろめめめ給給たまひしひしいし 伊邪本和氣伊邪本和氣いざほわけののの天皇天皇すめらみことののの御子御子みこ 市邊市邊いちのべののの押齒押齒おしはののの王王みこののの ととと告告のりりり給給たまへばへばえば、、、卽卽すなわちちち小楯小楯おたてののの連連つら、、、聞聞きききき驚驚おどろきてきてきて、、、牀牀とこよりよりより墮墮おちちち轉轉まろびてびてびて、、、そのそのその室室むろなるなるなる人人ひとたちたちたちををを追追おひひい出出いしてしてして、、、そのそのその二柱二柱ふたはしらののの王子王子みこををを、、、左右左右ひだりみぎりののの膝膝ひざののの上上うえににに坐坐ませせせ奉奉たてまつりてりてりて、、、泣泣なききき悲悲かなしみてしみてしみて、、、人民等人民等おおみたからどもををを集集つどへてへてへて、、、假宮假宮かりみやををを作作つくりてりてりて、、、そのそのその假宮假宮かりみやににに坐坐ませせせ奉奉たてまつりりり置置おきてきてきて、、、驛使驛使はゆまづかい貢貢たてまつりきりきりき。。。是是ここににに、、、そのそのその御姨飯豐御姨飯豐みおばいいとよののの王王きみ聞聞きききき歡歡よろこばしてばしてばして、、、宮宮みやににに上上のぼらしめらしめらしめ給給たまひきひきいき。。。爾山部連小楯。任針間國之宰時。到其國之人民名志自牟之新室。樂。於是盛樂。酒酣。以次第皆儛。故燒火少子二口。居竈傍。令儛其少子等。爾其一少子曰。汝兄先儛。其兄亦曰汝弟先儛。如此相讓之時。其會人等。咲其相讓之狀。爾遂兄儛訖。次弟將儛時。爲詠曰。物部之。我夫子之。取佩。於大刀之手上。丹畫著。其緒者。載赤幡。立赤幡。見者五十隱。山三尾之。竹矣。本訶岐〈此二字以音〉苅。末押縻魚簀。如調八絃琴。所治賜天下。伊邪本和氣天皇之御子。市邊之押齒王之。奴末爾。卽小楯連聞驚而。自牀墮轉而。追出其室人等。其二柱王子。坐左右膝上。泣悲而。集人民。作假宮。坐置其假宮而。貢上驛使。於是其姨飯豐王。聞歡而。令上於宮。
現代語訳
白髪大倭根子命(清寧天皇)は、伊波礼の甕栗の宮にいらして天下を治められた。この天皇には、
皇后がいらっしゃらず、御子もなかった。そこで御名代として白髪部を定められた。そして天皇がお亡くなりになった後、天下を治めるべき御子がいらっしゃらなかった。そこで皇位を継ぐべき王を探すと、市辺之忍歯別王の妹の忍海郎女、またの名は飯豊王が、葛城の忍海の高木の角刺の宮にいらっしゃった。
さて、山部連小楯が針間の国の長官に任じられたとき、その国の人民で名を志自牟という者の
新築の祝いの宴に行った。宴が盛り上がり、酒もたけなわになったとき、順番に皆が舞った。そこで、かまどの火を焚く二人の少年がかまどのそばにいたので、その少年たちにも舞わせることにした。するとその一人の少年が「兄さんが先に舞ってください」と言うと、その兄も「弟が先に舞いなさい」と言った。こうして譲り合っているのを、集まった人々は笑った。そしてついに兄が先に舞い終わり、次に弟が舞おうとするとき、こう詠い上げた。
もののふである私の夫子(せこ)が腰に帯びている太刀の柄に、赤い色を塗りつけ、その緒には赤い旗を付け、赤い旗を立てて見えるので、山の峰の竹を、根もとを刈り取り、先を押しなびかせるように、八絃の琴を調べ整えるように、天下を治められた伊邪本和気天皇(履中天皇)の御子、市辺之押歯王の、子孫であるぞ、私は。
こう告げられると、小楯連は聞いて驚き、座から転げ落ちて、その部屋にいた人々を追い出し、その二柱の王子を左右の膝の上に座らせ、泣き悲しんで、人民を集めて仮宮を作り、その仮宮にお住まわせして、早馬の使いを都に送った。そこで、その叔母の飯豊王はお聞きになって喜び、二人を宮へ上らせなさった。
意訳
清寧天皇には跡継ぎがなく、皇統が途絶えそうになります。このとき政をとったのは、市辺之忍歯王の妹(日本書紀では娘)の飯豊王でした。飯豊王は、日本書紀では「飯豊天皇」とも呼ばれ、女性が天皇に近い立場で国を治めたことを伝える貴重な記録です。
一方、播磨では、父を殺されて身を隠していた意富祁王・袁祁王の兄弟が、火焚きの少年として働いていました。新築祝いの宴で舞を譲り合ったあと、弟の袁祁王が舞いながら、勇ましい言葉で自分たちの素性を明かします。国司の山部小楯は驚いて座から転げ落ち、二人を膝に抱いて泣いたといいます。身分を隠していた貴い人が正体を明かす、貴種流離譚の最も劇的な場面です。
語釈・文法注
- 白髮の大倭根子の命
- 第二十二代清寧天皇。雄略天皇の子。生まれつき白髪だったとされる。
- 伊波禮の甕栗の宮
- 奈良県橿原市・桜井市の辺りにあったとされる宮。
- 飯豐の王
- 忍海郎女。市辺之忍歯王の妹(日本書紀では娘)。清寧天皇の死後、角刺宮で政をとったと伝えられる。
- 葛城の忍海の高木の角刺の宮
- 奈良県葛城市忍海の角刺神社の辺りとされる。
- 山部の連小楯
- 播磨の国司。二王子を見いだした。日本書紀では伊予来目部小楯。
- 宰
- 「みこともち」。天皇の命を受けて地方を治める官。
- 燒火少子
- 「ひたきわらは」。かまどの火を焚く少年。
- 詠言
- 節をつけて詠みあげる言葉。
- 奴末
- 「やつこみすゑ」。子孫の意。へりくだって言う。
文法
- 原文の「本訶岐苅」
- 底本は原文の「本」を枠で囲んで刷る。翻刻では枠を入れなかった。
- 原文の「末押縻魚簀」
- 底本の原文は「末押縻魚簀」と刷る。訓み下しは「末押し靡かすなす」。
- 押齒
- 原文・訓み下しとも、ここでは「押齒」と書く。前の段では「忍齒」。
歌謡
物部の 我が夫子が 取り佩ける 太刀の手上に 丹畫き著け その緒には 赤幡を 載ち 赤幡立てて 見ゆれば五十隱る 山の三尾の 竹を 本搔き刈り 末押し靡かすなす 八絃の琴を調べたるごと 天の下治め給ひし 伊邪本和氣の天皇の御子 市邊の押齒の王の 奴末
- 詠者
- 袁祁王(顕宗天皇)
- 状況
- 志自牟の新築祝いの宴で、舞いながら自分たちの素性を明かした詠言。
修辞
- 序詞
- 竹を刈りなびかせ、琴を調べることを、天下を治めることのたとえにする。
解説
二王子の発見の話は、日本書紀・播磨国風土記にも伝えられています。日本書紀では弟の弘計王(袁祁王)が長い室寿(むろほぎ)の詞を述べたあとに名を明かし、播磨国風土記では二人が志深村の首の家で牛飼いをしていたとされます。
飯豊王(飯豊青皇女)は、日本書紀では清寧天皇の崩御後に「臨朝秉政」したと記され、のちの史書では「飯豊天皇」と数えられることもあります。皇統の断絶の危機を、女性の皇族がつないだことを伝えています。
関連
出典
- 底本
- 古事記(佐伯常麿校註) 国民図書、昭和4年(1929)。283〜285頁。国立国会図書館デジタルコレクション(保護期間満了)
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部(原文・訓み下しは底本による。現代語訳・注は当サイト)
- 更新日