古事記 中巻
建波邇安王の反乱
崇神天皇は大毘古命を高志へ、建沼河別命を東方十二道へ、日子坐王を丹波へ遣わす。山代の幣羅坂で腰裳をつけた少女が謎の歌を歌い、天皇の庶兄建波邇安王の謀反が明らかになる。大毘古命は日子国夫玖命とともに和訶羅河で建波邇安王を討ち、各地の平定ののち、天皇は「初国知らしし御真木天皇」とたたえられる。
- 1又又また此此こののの御世御世みよににに、、、ののの命命みことをばをばをば、、、高志高志こしののの道道みちににに遣遣つかはしはしわし、、、其其そののの御子御子みこ建沼河別建沼河別たけぬなかわわけののの命命みことをばをばをば、、、東東ひむがしのののににに遣遣つかはしてはしてわして、、、そのそのその伏伏まつろはははぬぬぬ人人ひとどもどもどもををを言向言向ことむけけけ和和やわさしめさしめさしめ、、、又日子坐又日子坐またひこいますののの王王きみをばをばをば、、、旦旦あした波波なみののの國國くにににに遣遣つかはしてはしてわして、、、玖賀耳之御笠玖賀耳之御笠くがみみのみかさををを殺殺ころらしめらしめらしめ給給たまひきひきいき。。。(((此此こははは人人ひとののの名名ななりなりなり。。。)))かれかれかれ大毘古大毘古おおびこののの命命みこと、、、高志高志こしののの國國くにへへへ罷罷まかりりり往往ゆますますます時時ときににに、、、服服けせるせるせる少女少女おとめ、、、山代山代やましろのののににに立立たてりててりててりて、、、歌歌うたひけらくひけらくいけらく、、、こここはやはやはや はやはやはや 御眞木入日子御眞木入日子みまきいりひこはやはやはや 己己おのががが命命みことををを 竊竊ぬすみみみ弑弑しせむとせむとせむと 後後しりつつつ戸戸とよよよ いいい行行ゆきたがきたがきたがひひひ 前前まえつつつ戸戸とよよよ いいい行行ゆききき違違たがひひい 窺窺うかかはははくくく 知知しらにとらにとらにと 御眞木入日子御眞木入日子みまきいりひこはやはやはや こゝにこゝにここに大毘古大毘古おおびこののの命命みこと怪怪あやしとしとしと思思おもひてひていて、、、馬馬うまををを返返かへしてしてして、、、其其そののの少女少女おとめににに、、、「「「汝汝なががが謂謂いへるへるえる言言い、、、如何如何いかににに言言いふことぞふことぞうことぞ。。。」」」ととと問問とひひい給給たまへばへばえば、、、少女少女おとめ、、、「「「吾吾あ物言物言ものいはずはずわず、、、唯唯ただ歌歌うたをををこそこそこそ詠詠うたひつれひつれひつれ。。。」」」ととと答答こたへてへてえて、、、行行ゆ方方かたももも見見みえずえずえず、、、忽忽たちまちにちにちに失失うせにきせにきせにき。。。又此之御世。大毘古命者。遣高志道。其子建沼河別命者。遣東方十二道而。令和平其麻都漏波奴〈自麻下五字以音〉人等。又日子坐王者。遣旦波國。令殺玖賀耳之御笠。〈此人名者也。玖賀二字以音〉故大毘古命。罷往於高志國之時。服腰裳少女。立山代之幣羅坂而。歌曰。古波夜。美麻紀。伊理毘古波夜。美麻紀。伊理毘古波夜。意能賀袁袁。奴須美斯勢牟登。斯理都斗用。伊由岐多賀比。麻幣都斗用。伊由岐多賀比。宇迦迦波久。斯良爾登。美麻紀。伊理毘古波夜。於是大毘古命思怪。返馬。問其少女曰。汝所謂之言。何言。爾少女。答曰吾勿言。唯爲詠歌耳。卽不見其所如而。忽失。
- 2かれかれかれ大毘古大毘古おおびこののの命命みこと、、、更更さらににに還還かえりまゐりまゐりまい上上のぼりてりてりて、、、天皇天皇すめらみことにまにまにまをををすすす時時ときににに、、、天皇天皇すめらみこと詔詔のりたまはくりたまはくりたまわく、、、「「「此此こははは思思おもふにふにうに、、、山代山代やましろののの國國くになるなるなる汝汝なががが庶兄庶兄ままいろせ、、、ののの王王きみののの、、、邪心邪心きたなきこころををを起起おこせるせるせる表表しるしにこそあらめにこそあらめにこそあらめ。。。伯父伯父いろね軍軍いくさををを興興おこしてしてして、、、行行ゆかせかせかせ。。。」」」ととと詔詔のりりり給給たまひてひていて、、、卽卽すなわちちち丸邇丸邇わにののの臣臣おみののの祖祖おや、、、ののの命命みことををを副副そへてへてえて遣遣つかはすはすわす時時ときににに、、、丸邇丸邇わに坂坂さかににに忌瓮忌瓮いわいべををを居居おゑてゑてえて、、、罷罷まかりりり往往ゆましきましきましき。。。こゝにこゝにここに山代山代やましろののの和訶羅河和訶羅河わからがわににに到到いたれるれるれる時時ときににに、、、其其そののの建波邇安建波邇安たけはにやすののの王王きみ、、、軍軍いくさををを興興おこしてしてして、、、待待まちちち遮遮さえぎりりり、、、各各おのおの河河かわををを中中なかにおきてにおきてにおきて、、、對對むききき立立たちてちてちて相挑相挑あいいどみきみきみき。。。かれかれかれ其地其地そこののの名名なををを、、、ととと謂謂いひしひしいしををを、、、今今いまははは伊豆美伊豆美いずみとぞとぞとぞ謂謂いふふう。。。こゝにこゝにここに日子國夫玖日子國夫玖ひこくにぶくののの命命みこと、、、「「「其其そ方方かたののの人人ひと先先まづづずををを放放はなててて。。。」」」ととと乞乞こふふうまゝにまゝにままに、、、建波邇安建波邇安たけはにやすののの王射王射みこいつれどもつれどもつれども得得え中中なかてざりきてざりきてざりき。。。こゝにこゝにここに國夫玖國夫玖くにぶくののの命命みことののの放放はなてるてるてる矢矢やははは、、、建波邇安建波邇安たけはにやすののの王王きみににに射中射中いあてててててて死死しにきにきにき。。。かれかれかれ其其そののの軍軍いくさ悉悉ことごとににに破破やぶれてれてれて、、、逃逃にげげげ散散ちらけぬらけぬらけぬ。。。こゝにこゝにここに其其そののの逃逃にぐるぐるぐる軍軍いくさををを追追おひひい迫迫せめてめてめて、、、久須婆之渡久須婆之渡くすばのわたりににに到到いたるるる時時ときににに、、、皆皆みな迫迫せめらえめらえめらえ窘窘たしなみてみてみて、、、屎屎くそ出出いでてでてでて褌褌はかまににに懸懸さがりきりきりき。。。かれかれかれ其地其地そこののの名名なををを屎褌屎褌くそばかまととと謂謂いひしひしいしををを、、、今今いまはははととと謂謂いふふう。。。またまたまた其其そののの逃逃にぐるぐるぐる軍軍いくさををを遮遮さえぎりてりてりて斬斬きればればれば、、、鵜鵜うのごとのごとのごと河河かはににに浮浮うきたりききたりききたりき。。。かれかれかれ其其そののの河河かはををを、、、鵜河鵜河うかわととと謂謂いふふう。。。またまたまた其其そののの軍士軍士いくさびとををを斬斬きりりり屠屠ほうりしりしりし故故かれににに、、、其地其地そこののの名名なををを、、、となもとなもとなも謂謂いふふう。。。かくかくかく平平たいらけけけ訖訖をへてへてへて、、、まゐまゐまい上上のぼりてりてりて覆奏覆奏かえりごとしきしきしき。。。故大毘古命。更還參上。請於天皇時。天皇答詔之。此者爲。在山代國我之庶兄。建波邇安王。起邪心之表耳。〈波邇二字以音〉伯父興軍。宜行。卽副丸邇臣之祖。日子國夫玖命而。遣時。卽於丸邇坂居忌瓮而。罷往。於是到山代之和訶羅河時。其建波邇安王。興軍待遮。各中挾河而。對立相挑。故號其地。謂伊杼美。今謂伊豆美也。爾日子國夫玖命。乞云其廂人先忌矢可彈。爾其建波邇安王雖射。不得中。於是國夫玖命彈矢者。卽射建波邇安王而。死。故其軍悉破而。逃散。爾追迫其逃軍。到久須婆之度時。皆被迫窘而。屎出。懸於褌。故號其地。謂屎褌。今者謂久須婆。又遮其逃軍以斬者。如鵜浮於河。故號其河謂鵜河也。亦斬波布理其軍士故。號其地。謂波布理曾能。〈自波下五字以音〉如此平訖。參上。覆奏。
- 3かれかれかれ大毘古大毘古おおびこののの命命みことははは、、、先先さきののの命命みことのののまに〳〵まに〳〵まにまに、、、高志高志こしののの國國くにににに罷罷まかりりり行行ゆましきましきましき。。。こゝにこゝにここに東東ひむがしののの方方かたよりよりより遣遣まけしけしけし、、、建沼河別建沼河別たけぬなかわわけ、、、其其そののの父父ちち、、、大毘古大毘古おおびこととと共共ともににに、、、ににに往往ゆききき遇遇あひたまひきひたまひきひたまいき。。。かれかれかれ其地其地そこををを相津相津あいづととと謂謂いふふう。。。こゝこゝここををを以以もつててて各罷各罷おのもおのもまけつるけつるけつる國國くにののの政政まつりごと、、、言向言向ことむけてけてけて、、、覆奏覆奏かえりごとしたまひきしたまひきしたまいき。。。かれかれかれ天天あめののの下平下平したたいらぎぎぎ、、、人民富人民富おおみたからとみみみ榮榮さかえきえきえき。。。こゝにこゝにここに初初はじめてめてめて男男をのののののの調調みつぎ、、、女女おみなののの手末手末たなすえののの貢貢みつぎををを調調みつぎらしめらしめらしめ給給たまひきひきいき。。。かれかれかれ其其そののの御世御世みよををを稱稱しようへまつりてへまつりてえまつりて、、、らししらししらしし、、、御眞木御眞木みまきののの天皇天皇すめらみこととまとまとまをををすすす。。。またこのまたこのまたこの御世御世みよににに、、、依網依網よさみののの池池いけををを作作つくりりり、、、またまたまた輕輕かるののの酒折酒折さかおりののの池池いけををを作作つくらしきらしきらしき。。。このこのこの天皇天皇すめらみこと、、、御歲壹百六十八歲御歲壹百六十八歲みとしももちまりむそじまりやつ、、、御陵御陵みはかははは山山やまののの邊邊べののの道道みちののの勾勾まがりののの岡岡をかののの上上うえにありにありにあり。。。故大毘古命者。隨先命而。罷行高志國。爾自東方所遣。建沼河別。與其父大毘古共。往遇于相津。故其地。謂相津也。是以各和平所遣之國政而。覆奏。爾天下太平。人民富榮。於是初令貢男弓端之調。女手末之調。故稱其御世。謂所知初國之御眞木天皇也。又是之御世。作依網池。亦作輕之酒折池也。天皇。御歲壹佰陸拾捌歲。御陵在山邊道勾之岡上也。
現代語訳
また、この天皇の御代に、大毘古命を高志(北陸)への道に遣わし、その子の建沼河別命を東方の十二の道に遣わして、従わない者たちを説き伏せて平らげさせ、また日子坐王を丹波の国に遣わして、玖賀耳之御笠を討たせなさった(これは人の名である)。さて大毘古命が高志の国へ下っていくとき、腰裳をつけた少女が山代の幣羅坂に立っていて、歌った。
ああ、御真木入日子(崇神天皇)よ、御真木入日子よ。自分の命をひそかに奪おうと、裏の戸から行きちがい、表の戸から行きちがって、ねらっているとも知らずに、御真木入日子よ。
そこで大毘古命は不思議に思って、馬を引き返して、その少女に「おまえが言った言葉は、どういう意味か」と尋ねると、少女は「私は何も言っていません。ただ歌を歌っただけです」と答えて、行方もわからず、たちまち消えてしまった。
そこで大毘古命は、引き返して参上し、天皇に申し上げると、天皇はおっしゃった。「これは思うに、山代の国にいる私の庶兄(原文。訓み下しは「汝が庶兄」)の建波邇安王が、邪心を起こしたしるしであろう。伯父よ、軍を起こして行きなさい」。そして丸邇臣の祖、日子国夫玖命を副えて遣わしたとき、丸邇坂に神聖な甕を据えて神を祭り、出かけていった。
そして山代の和訶羅河に着いたとき、建波邇安王が軍を起こして待ち構え、両軍は川をはさんで向かい合って挑み合った。それでその地を伊杼美(いどみ)と呼んだのを、今は伊豆美(いずみ)という。そこで日子国夫玖命が「そちらの者から先に、神聖な矢を放て」と言うと、建波邇安王は射たが当たらなかった。そこで国夫玖命が放った矢は、建波邇安王に命中して、王は死んだ。そのため王の軍はすっかり敗れて、逃げ散った。そこで逃げる軍を追い詰めて、久須婆の渡しに着いたとき、敵はみな追い詰められて苦しみ、糞が出て袴にかかった。それでその地を屎褌(くそばかま)と呼んだのを、今は久須婆という。またその逃げる軍をさえぎって斬ると、鵜のように川に浮かんだ。それでその川を鵜河という。またその兵士たちを斬りほふったので、その地を波布理曾能(はふりその)という。このように平定し終えて、参上して報告した。
さて大毘古命は、先の命令のとおりに高志の国に下っていった。そして東の方から遣わされた建沼河別命は、父の大毘古命と相津で出会った。それでその地を相津という。こうしてそれぞれが遣わされた国の政事を平定して、報告申し上げた。こうして天下は平らかになり、人民は富み栄えた。そこで初めて、男には弓の端で得た獲物を、女には手先で織った布を、貢ぎ物として納めさせなさった。それでその御代をたたえて、「初国知らしし御真木天皇(はじめて国を治めた御真木天皇)」と申し上げる。
またこの御代に、依網の池を作り、また軽の酒折の池をお作りになった。
この天皇はお年百六十八歳でお亡くなりになった。御陵は山の辺の道の勾の岡の上にある。
意訳
崇神天皇の代に、大毘古命・建沼河別命・日子坐王が各地に遣わされたという話は、日本書紀では「四道将軍」の派遣として語られます。北陸・東海・西道(吉備)・丹波へと将軍を送ったというのは、大和の王権が周辺の地域に勢力を広げていった過程を、一つの代の出来事としてまとめたものと考えられます。
幣羅坂の少女の歌は、天皇の命をねらう者がいることを、謎めいた言葉で告げる予言の歌です。歌い終えた少女は姿を消し、天皇がその意味を解き明かします。このような、事件を予言する童謡(わざうた)は、日本書紀にも多く見え、神の意思が歌の形で人に伝えられると考えられていました。
建波邇安王との戦いの話には、伊杼美(泉)・久須婆(樟葉)・鵜河・波布理曾能(祝園)といった地名の由来が次々に語られます。敵が恐怖のあまり糞をもらしたという生々しい描写も、地名起源説話として語られているところに、古事記の素朴な語り口が表れています。各地の平定が終わると、課税(調)の制度が始まり、崇神天皇は「初国知らしし天皇」とたたえられました。
語釈・文法注
- 大毘古の命・建沼河別の命
- 大毘古命は孝元天皇の皇子、建沼河別命はその子。日本書紀の四道将軍の大彦命・武渟川別命にあたる。親子が北陸と東海から進んで会津で出会ったという話は、会津の地名の由来とされる。
- 東の方十二道
- 東国の十二の国々への道。伊勢・尾張・三河・遠江・駿河・甲斐・伊豆・相模・武蔵・総・常陸・陸奥とする説がある。
- 腰裳服せる少女
- 腰に巻く裳(スカートのような衣)をつけた少女。神の意を伝える巫女とも考えられる。
- 山代の幣羅坂
- 山城国(京都府)の坂。木津川市市坂の辺りとされる。
- こはや御眞木入日子はや
- 崇神天皇の命がねらわれていることを告げる謎の歌。日本書紀では「童謡(わざうた)」とされる。
- 建波邇安の王
- 孝元天皇と波邇夜須毘売の子で、崇神天皇の父開化天皇の異母兄弟(崇神天皇から見ると叔父)。山代にいて謀反を起こした。
- 日子國夫玖の命
- 丸邇(和珥)臣の祖。建波邇安王を射殺した。丸邇氏は奈良盆地東北部(天理市和爾町)を本拠とした豪族。
- 忌矢
- 戦いの始めに神に誓って放つ神聖な矢。先に射た方が負けるという信仰があったともいわれる。
- 伊杼美・伊豆美
- 「いどみ(挑み)」から「いづみ(泉)」になったとする地名起源。京都府木津川市の泉川(木津川)の辺り。
- 久須婆
- 樟葉(大阪府枚方市楠葉)。「屎褌(くそばかま)」が転じた地名だとする。
- 波布理曾能
- 祝園(京都府精華町)。「はふる(斬り散らす)」に由来するとする。
- 相津
- 会津(福島県)。大毘古命と建沼河別命の親子が出会った(相会った)所とする地名起源説話。
- 男の弓端の調、女の手末の貢
- 男は狩りの獲物、女は手で織った布を税として納めること。課税の始まりとされる。
- 初國知らしし御眞木の天皇
- 国を初めて治めた天皇。日本書紀では「御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)」と書き、神武天皇の「始馭天下之天皇」と同じ読みであることから、崇神天皇を実質的な初代天皇とみる説がある。
文法
- 我之庶兄と汝が庶兄
- 原文は「在山代國我之庶兄」とするが、底本の訓み下しは「汝が庶兄」とする。系譜上、建波邇安王は崇神天皇の父の異母兄弟で、天皇は大毘古命(同じく孝元天皇の皇子)に「あなたの異母兄弟」と言ったと解する。
- 伯父軍を興して行かせ
- 天皇が叔父の大毘古命に呼びかけた言葉。原文は「伯父興軍。宜行」。
- 原文の歌
- 少女の歌は原文では一字一音の万葉仮名で書かれる(古波夜。美麻紀。伊理毘古波夜…)。
- 御歲壹百六十八歲
- 原文は「壹佰陸拾捌歲」。底本の訓み下しは「壹百六十八歲」と書く。
歌謡
こはや 御眞木入日子はや 御眞木入日子はや 己が命を 竊み弑せむと 後つ戸よ い行きたがひ 前つ戸よ い行き違ひ 窺はく 知らにと 御眞木入日子はや
- 詠者
- 腰裳をつけた少女
- 状況
- 高志へ向かう大毘古命の前に、山代の幣羅坂で現れた少女が歌った謎の歌。建波邇安王の謀反を予言していた。
修辞
- くり返し
- 「御眞木入日子はや」を三度くり返し、天皇への呼びかけを強める。
- 対句
- 「後つ戸よ い行きたがひ/前つ戸よ い行き違ひ」と対句を重ね、陰謀の動きを表す。
- 童謡
- 事件を予言する謎の歌(わざうた)の形をとる。
解説
建波邇安王の反乱は、崇神天皇の時代を代表する事件として語られます。皇族の謀反を巫女のような少女の歌が予言し、天皇がそれを解いて未然に討つという筋は、天皇が神意を読み取る力をもっていたことを示しています。日本書紀では、倭迹迹日百襲姫命が歌の意味を解き明かしたとされます。
崇神天皇の時代には、祭祀の整備(三輪山の神の祭り)、四方への将軍の派遣、課税の開始など、国家の基礎が築かれたと古事記は語ります。このことから、崇神天皇を実在した最初の天皇、あるいは初期ヤマト王権の始祖とみる説が多くの研究者に支持されています。御陵とされる奈良県天理市の行燈山古墳は、四世紀前半の巨大な前方後円墳です。
関連
出典
- 底本
- 古事記(佐伯常麿校註) 国民図書、昭和4年(1929)。154〜158頁。国立国会図書館デジタルコレクション(保護期間満了)
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部(原文・訓み下しは底本による。現代語訳・注は当サイト)
- 更新日