古事記 中巻
倭建命の御子と成務天皇
倭建命の六柱の御子と、その子孫が祖となった氏族を記す。景行天皇は百三十七歳で崩じ、山辺の道のほとりに葬られる。第十三代成務天皇は近淡海の志賀の高穴穂宮で天下を治め、建内宿禰を大臣として、国々の国造・県主と国の境を定めた。
- 1此此こののの倭建倭建やまとたけるののの命命みこと、、、伊久米伊久米いくめののの天皇天皇すめらみことのののののの命命みことににに娶娶あひましてひましていまして、、、御子御子みこ、、、ののの命命みことををを生生うみましきみましきみましき。。。(((一柱一柱ひとはしら。。。)))又又またかのかのかの海海うみににに入入いりまししりまししりましし弟橘比賣弟橘比賣おとたちばなひめののの命命みことににに娶娶あひましてひましていまして、、、生生うみませるみませるみませる御子御子みこ、、、ののの王王きみ。。。(((一柱一柱ひとはしら。。。)))又又また近近ちかつつつ淡海淡海おうみののの安安やすののの國國くにののの造造みやつこののの祖祖おや、、、意富多牟和氣意富多牟和氣おおたむわけががが女女むすめ、、、布多遲比賣布多遲比賣ふたじひめををを娶娶あしてしてして、、、生生うみませるみませるみませる御子御子みこ、、、稻依別稻依別いなよりわけののの王王きみ。。。(((一柱一柱ひとはしら。。。)))またまたまた吉備吉備きびののの臣建日子臣建日子おみたけひこののの妹妹いも、、、大吉備建比賣大吉備建比賣おおきびたけひめををを娶娶あしてしてして、、、生生うみませるみませるみませる御子御子みこ、、、ののの王王きみ。。。(((一柱一柱ひとはしら。。。)))またまたまた山代山代やましろののの玖々麻毛理比賣玖々麻毛理比賣くくまもりひめををを娶娶あしてしてして、、、生生うみませるみませるみませる御子御子みこ、、、足鏡別足鏡別あしかがみわけののの王王きみ。。。(((一柱一柱ひとはしら。。。)))またあるまたあるまたある妻妻めののの生生うみませるみませるみませる御子御子みこ、、、息長田別息長田別おきながたわけののの王王きみ。。。すべてこのすべてこのすべてこの倭建倭建やまとたけるののの命命みことののの御子御子みこたちたちたち幷幷あわせてせてせて六柱六柱むはしらませりませりませり。。。かれかれかれ帶中津日子帶中津日子たらしなかつひこののの命命みことははは、、、天天あめののの下治下治したしろしめしきしめしきしめしき。。。次次つぎににに稻依別稻依別いなよりわけののの王王きみははは、、、(((犬上犬上いぬかみののの君君きみ、、、建部建部たけべののの君等君等きみらががが祖祖おや。。。)))次次つぎににに建貝兒建貝兒たけかいこののの王王きみははは、、、(((讚岐讚岐さぬきののの綾綾あやののの君君きみ、、、伊豫之別伊豫之別いよのわけののの君君きみ、、、登袁之別登袁之別とおのわけ、、、麻佐麻佐まさののの首首おびと、、、宮首之別等宮首之別等みやじのわけらががが祖祖おや。。。)))足鏡別足鏡別あしかがみわけののの王王きみははは、、、(((鎌倉之別鎌倉之別かまくらのわけ、、、小津小津おつののの君君きみ、、、石代之別石代之別いわしろのわけ、、、漁田之別漁田之別ふきだのわけののの祖祖おやなりなりなり。。。)))次次つぎににに息長田別息長田別おきながたわけののの王王きみののの御子御子みこ、、、杙俣長日子杙俣長日子くいまたながひこののの王王きみ。。。此此こののの王王きみののの御子御子みこ、、、飯野眞黑比賣飯野眞黑比賣いいぬまくろひめののの命命みこと。。。次次つぎににに息長眞若中津比賣息長眞若中津比賣おきながまわかなかつひめ。。。次次つぎににに弟比賣弟比賣おとひめ。。。(((三柱三柱みはしら。。。)))故故かれ上上うえにいへるにいへるにいえる若建若建わかたけるののの王王きみ、、、飯野眞黑比賣飯野眞黑比賣いいぬまくろひめににに娶娶あひてひていて生生うみませるみませるみませる御子御子みこ、、、須賣伊呂大中津日子須賣伊呂大中津日子すめいろおおなかつひこののの王王きみ。。。此此こののの王王きみ、、、淡海之柴野入杵淡海之柴野入杵おうみのしばぬいりきががが女女むすめ、、、柴野比賣柴野比賣しばぬひめににに娶娶あひてひていて生生うみませるみませるみませる御子御子みこ、、、ののの命命みこと。。。故故かれ大帶日子大帶日子おおたらしひこののの天皇天皇すめらみこと、、、此此こののの迦具漏比賣迦具漏比賣かぐろひめののの命命みことををを娶娶あしてしてして、、、御子大江御子大江みこおおえののの王王きみををを生生うみましきみましきみましき。。。(((一柱一柱ひとはしら。。。)))此此こののの王王きみ、、、庶妹銀庶妹銀ままいもしろがねののの王王きみににに娶娶あひてひていて生生うみませるみませるみませる御子御子みこ、、、大名方大名方おおながたののの王王きみ。。。次次つぎににに大中津比賣大中津比賣おおなかつひめののの命命みこと。。。(((二柱二柱ふたはしら。。。)))かれかれかれ此此こののの大中津比賣大中津比賣おおなかつひめののの命命みことははは、、、ののの王忍熊王忍熊みこおしくまののの王王きみののの御祖御祖みおやにますにますにます。。。此此こののの大帶日子大帶日子おおたらしひこののの天皇天皇すめらみことののの御年壹百參拾七歲御年壹百參拾七歲みとしももちまりみそじまりななつ。。。御陵御陵みはかはははののの上上うえにありにありにあり。。。此倭建命。娶伊玖米天皇之女。布多遲能伊理毘賣命。〈自布下八字以音〉生御子帶中津日子命。〈一柱〉又娶其入海弟橘比賣命。生御子若建王。〈一柱〉又娶近淡海之安國造之祖。意富多牟和氣之女。布多遲比賣。生御子稻依別王。〈一柱〉又娶吉備臣建日子之妹。大吉備建比賣。生御子建貝兒王。〈一柱〉又娶山代之玖玖麻毛理比賣。生御子足鏡別王。〈一柱〉又一妻之子。息長田別王。凡是倭建命之御子等。幷六柱。故帶中津日子命者。治天下也。次稻依別王者。〈犬上君。建部君等之祖。〉次建貝兒王者。〈讚岐綾君。伊勢之別。登袁之別。麻佐首。宮首之別等之祖。〉足鏡別王者。〈鎌倉之別。小津。石代之別。漁田之別祖也。〉次息長田別王之子。杙俣長日子王。此王之子。飯野眞黑比賣命。次息長眞若中比賣。次弟比賣。〈三柱〉故上云若建王。娶飯野眞黑比賣生子。須賣伊呂大中日子王。〈自須至呂以音〉此王。娶淡海之柴野入杵之女。柴野比賣生子。迦具漏比賣命。故大帶日子天皇。娶此迦具漏比賣命。生子大江王。〈一柱〉此王。娶庶妹銀王生子。大名方王。次大中比賣命。〈二柱〉故此之大中比賣命者。香坂王忍熊王之御祖也。此大帶日子天皇之御年。壹佰參拾漆歲。御陵在山邊之道上也。
- 2ののの天皇天皇すめらみこと。。。近近ちかつつつ淡海淡海おうみののの志賀志賀しがのののののの宮宮みやにましましてにましましてにましまして天天あめののの下治下治したしろしめしきしめしきしめしき。。。此此こののの天皇天皇すめらみこと、、、穗積穗積ほずみののの臣等臣等おみらががが祖祖おや、、、建忍山垂根建忍山垂根たけおしやまたりねののの女女むすめ、、、名名なははは弟財弟財おとたからののの郞女郞女いらつめををを娶娶あしてしてして、、、御子和訶奴氣御子和訶奴氣みこわかぬけののの王王きみををを生生うみましきみましきみましき。。。(((一柱一柱ひとはしら。。。)))かれかれかれののの宿禰宿禰すくねををを大臣大臣おおおみとしたまひとしたまひとしたまい、、、ののの國國くにののの造造みやつこををを定定さだめたまひめたまひめたまい、、、又又また國々國々くにぐにののの堺堺さかい、、、またまたまた大縣小縣大縣小縣おおあがたおあがたののの縣主縣主あがたぬしををを定定さだめたまひきめたまひきめたまいき。。。このこのこの天皇天皇すめらみこと、、、御年九拾五歲御年九拾五歲みとしここのそじまりいつつ、、、御陵御陵みはかはははにありにありにあり。。。若帶日子天皇。坐近淡海之志賀高穴穗宮。治天下也。此天皇。娶穗積臣等之祖。建忍山垂根之女。名弟財郞女。生御子。和訶奴氣王。〈一柱〉故建內宿禰爲大臣。定賜大國小國之國造。亦定賜國國之堺。及大縣小縣之縣主也。天皇御年玖拾伍歲。御陵在沙紀之多他那美也。
現代語訳
この倭建命は、伊玖米天皇(垂仁天皇)の皇女、布多遅能伊理毘売命を妻として、御子の帯中津日子命をお生みになった。(一柱。)また、あの海に入った弟橘比売命を妻として生んだ御子は若建王。(一柱。)また近淡海の安の国造の祖、意富多牟和気の娘、布多遅比売を妻として生んだ御子は稲依別王。(一柱。)また吉備臣建日子の妹、大吉備建比売を妻として生んだ御子は建貝児王。(一柱。)また山代の玖玖麻毛理比売を妻として生んだ御子は足鏡別王。(一柱。)また、ある妻が生んだ御子は息長田別王。すべてこの倭建命の御子たちは、あわせて六柱いらっしゃった。
そして帯中津日子命(仲哀天皇)は天下を治められた。次に稲依別王は、犬上君・建部君らの祖。次に建貝児王は、讃岐の綾君・伊勢の別(訓み下しは伊予の別の君)・登袁の別・麻佐首・宮首の別らの祖。足鏡別王は、鎌倉の別・小津の君・石代の別・漁田の別の祖である。次に息長田別王の御子は杙俣長日子王。この王の御子は、飯野真黒比売命、次に息長真若中比売、次に弟比売。(三柱。)さて、先に述べた若建王が飯野真黒比売を妻として生んだ御子は須売伊呂大中日子王。この王が近江の柴野入杵の娘、柴野比売を妻として生んだ御子は迦具漏比売命。そして大帯日子天皇(景行天皇)は、この迦具漏比売命を妻として、御子の大江王をお生みになった。(一柱。)この王が異母妹の銀王を妻として生んだ御子は、大名方王、次に大中比売命。(二柱。)そしてこの大中比売命は、香坂王・忍熊王の母君である。この大帯日子天皇のお年は百三十七歳。御陵は山辺の道のほとりにある。
若帯日子天皇(成務天皇)は、近淡海(近江)の志賀の高穴穂の宮にいらして天下を治められた。この天皇は、穂積臣らの祖、建忍山垂根の娘、名は弟財郎女を妻として、御子の和訶奴気王をお生みになった。(一柱。)そして建内宿禰を大臣とし、大小の国々の国造を定め、また国々の境界と、大小の県の県主を定められた。この天皇のお年は九十五歳。御陵は沙紀の多他那美にある。
意訳
倭建命の物語のあとには、その妃と御子たちの系譜が置かれます。弟橘比売命との間にも御子があったことがここで語られ、その子孫の迦具漏比売命は、なんと倭建命の父の景行天皇の妃になっています。系譜の上では世代が合わず、さまざまな伝承を一つにまとめたことによる矛盾と考えられます。
倭建命の御子、帯中津日子命は、のちに仲哀天皇として即位します。英雄は自らは天皇にならず、その子が皇位を継いだことになります。古事記が倭建命を「倭建天皇」に近い扱いで語っていることの表れとも言えます。
成務天皇の記事はごく短く、建内宿禰を大臣としたことと、国造・県主を定め、国の境界を定めたことだけが記されています。倭建命が平定した国々を、制度の上で整えた天皇として位置づけられています。
語釈・文法注
- 布多遲能伊理毘賣の命
- 垂仁天皇の皇女。倭建命の妃で、仲哀天皇の母。日本書紀では両道入姫命。
- 帶中津日子の命
- 倭建命の子で、第十四代仲哀天皇。
- 若建の王
- 倭建命と弟橘比売命の子。その孫の迦具漏比売命は景行天皇の妃になったとされる。
- 建貝兒の王
- 倭建命の子。讃岐の綾君などの祖。
- 迦具漏比賣の命
- 倭建命の曾孫で、景行天皇の妃。景行天皇の段にも名が見える。
- 香坂の王・忍熊の王
- 仲哀天皇と大中津比売命の子。仲哀天皇の段で、神功皇后と応神天皇に反乱を起こす。
- 山邊之道の上
- 景行天皇陵。奈良県天理市の渋谷向山古墳に治定されている。
- 若帶日子の天皇
- 第十三代成務天皇。景行天皇の子。
- 近つ淡海の志賀の高穴穗の宮
- 近江国滋賀郡(滋賀県大津市穴太)にあったとされる宮。
- 建內の宿禰
- 孝元天皇の孫(または曾孫)とされる。成務・仲哀・応神・仁徳の各天皇に仕えた長寿の忠臣として伝えられる。
- 國の造・縣主
- 国造は地方の国を治める豪族、県主は朝廷の直轄地(県)を治める豪族。
- 沙紀之多他那美
- 成務天皇陵。奈良市山陵町の佐紀石塚山古墳に治定されている。
文法
- 伊勢之別と伊豫之別
- 原文は「伊勢之別」、底本の訓み下しは「伊豫之別の君」とする。どちらも底本どおりとした。
- 大中日子と大中津日子
- 原文は「須賣伊呂大中日子王」「息長眞若中比賣」「大中比賣命」と書き、底本の訓み下しはいずれも「津」を補って訓む。
- 御年
- 原文は景行天皇を「壹佰參拾漆歲」、成務天皇を「玖拾伍歲」と書き、訓み下しは「壹百參拾七歲」「九拾五歲」と書く。
- (一柱。)
- 底本の訓み下しは、原文の小字の「一柱」などを括弧に入れて訓む。
解説
倭建命の系譜は、その子孫と称する氏族の名を多く含んでいます。讃岐の綾君、鎌倉の別、犬上君など、各地の豪族が英雄倭建命を祖と仰いだことがわかります。弟橘比売命の子孫が景行天皇の妃となるという世代の矛盾は、古くから指摘されてきました。
成務天皇は、古事記ではわずか数行で語られる天皇です。日本書紀でも事績は少なく、国造・県主を定めたことが中心です。地方を統治する制度の起源をこの天皇の代に置くことで、倭建命の征討によって広がった支配が、制度として固められたことを示しています。
関連
出典
- 底本
- 古事記(佐伯常麿校註) 国民図書、昭和4年(1929)。193〜196頁。国立国会図書館デジタルコレクション(保護期間満了)
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部(原文・訓み下しは底本による。現代語訳・注は当サイト)
- 更新日