伊勢物語 第13章(第76段〜第79段)
小塩の山と山科の宮
二条の后の大原野詣でに供奉した老いた近衛の翁が神代をしのぶ歌を献じる。多賀幾子女御の法要で、捧げ物の山を詠んだ歌、山科の宮に名石を献じるときに苔を刻んで添えた歌。最後は、在原氏の血を引く皇子の誕生を祝う翁の歌までを読む。
- 1むかしむかしむかし、、、二二に條條じょうのののきさききさききさきののの、、、まだまだまだ春春とう宮宮ぐうのののみやすんみやすんみやすん所所どころととと申申もうしししけるけるける時時とき、、、氏氏うじにににまうでまうでもうで給給たまひひいけるけるけるににに、、、近近この衞衞えづかさづかさづかさにににさぶらひさぶらひさぶらいけるけるける翁翁おきな、、、人人ひと々々びとののの祿祿ろくたまはるたまはるたまわるついでついでついでににに、、、御御み車車くるまよりよりよりたまはりたまはりたまわりててて、、、詠詠よみみみててて奉奉たてまつりりりけるけるける、、、
- 2「「「大大おおはらはらはらやややををおしほしほしおのののももも今日今日きょうこそこそこそははは神神かみ代代よのののことことこともももおもひおもひおもいいづいづいずらめらめらめ」」」
- 3とてとてとて、、、心心こころにににももも悲悲かなしししとととややや思思おもひひいけむけむけん。。。いかゞいかゞいかがおもひおもひおもいけむけむけん知知しらららずずずかしかしかし。。。
- 4昔昔むかし、、、田田た村村むらのののととと申申もうすすすみかどみかどみかどおはしおはしおわしましましましけりけりけり。。。そのそのその時時ときののの女御女御にょうご、、、たかきたかきたかきとととまうすまうすもうすいまそかりいまそかりいまそかりけりけりけり。。。それそれそれうせうせうせ給給たまひひいててて安安あん祥祥じょう寺寺じにににてててみわざみわざみわざしししけりけりけり。。。やよひやよひやよいのののつごもりつごもりつごもりにににしししけりけりけり。。。人人ひと々々びとさゝげさゝげささげものものもの奉奉たてまつりりりけりけりけり。。。奉奉たてまつりりり集集あつめめめたるたるたるものものもの、、、ちちちさゝげさゝげささげばかりばかりばかりありありあり。。。そこばくそこばくそこばくのののさゝげさゝげささげものものものををを木木きののの枝枝えだにににつけつけつけててて堂堂どうののの前前まえににに立立たてててたれたれたればばば、、、山山やまもももさらにさらにさらに堂堂どうののの前前まえににに動動うごききき出出いでででたるたるたるやうやうようににになむなむなん見見みえええけるけるける。。。それそれそれををを右右う大大だい將將しょうにににいまそかりいまそかりいまそかりけるけるける藤藤ふじ原原わらののの常常つねととと申申もうすすすいまそかりいまそかりいまそかりててて、、、講講こうのののをはるをはるおわるほどほどほどににに歌歌うたよむよむよむ人人ひと々々びとををを召召めししし集集あつめめめててて、、、今日今日きょうのののみわざみわざみわざををを題題だいにににててて、、、春春はるののの心心こころばへばへばえあるあるある歌歌うた奉奉たてまつらららせせせ給給たまふふう。。。右右みぎののの馬馬うまのののかみかみかみなりなりなりけるけるけるおきなおきなおきな、、、目目めはははたがひたがひたがいながらながらながらよみよみよみけるけるける、、、
- 5「「「山山やまのののみなみなみなうつりうつりうつりててて今日今日きょうににに逢逢あふふうことことことははは春春はるのののわかれわかれわかれをををとふとふとうとととなるなるなるべしべしべし」」」
- 6とととよみよみよみけるけるけるををを、、、今今いま見見みれれればばばよくよくよくもももあらあらあらざりざりざりけりけりけり。。。そのそのそのかみかみかみはははこれこれこれやややまさりまさりまさりけむけむけん、、、あはれあはれあわれがりがりがりけりけりけり。。。
- 7むかしむかしむかし、、、たかきたかきたかき子子こととと申申もうすすす女御女御にょうごおはしおはしおわしましましましけりけりけり。。。うせうせうせたまひたまひたまいててて、、、なゝなゝなな七日七日なぬかのののみわざみわざみわざ安安あん祥祥じょう寺寺じにににてててしししけりけりけり。。。右右う大大だい將將しょう藤藤ふじ原原わらののの常常つね行行ゆきととといふいふいう人人ひといまそかりいまそかりいまそかりけりけりけり。。。そのそのその御御おおんわざわざわざにににまうでまうでもうで給給たまひひいててて、、、かへさかへさかえさににに山山やま科科しなののの禪禪ぜん師師じのののおはしますおはしますおわしますそのそのその山山やま科科しなののの宮宮みやににに瀧瀧たきおとしおとしおとし水水みずはしらはしらはしらせせせなどなどなどしししててておもしろくおもしろくおもしろくつくらつくらつくられれれたるたるたるにににまうでまうでもうで給給たもうううててて、、、「「「年年としごろごろごろよそよそよそにににはははつかうつかうつこうまつれまつれまつれどどど、、、近近ちかくくくはははいまだいまだいまだ仕仕つこうううまつらまつらまつらずずず。。。今宵今宵こよいはははこゝこゝここににに候候さぶらははわむむん」」」ととと申申もうししし給給たまふふう。。。みこみこみこよろこびよろこびよろこび給給たもうううててて、、、よるよるよるのののおましおましおましののの設設もうけけけせせせさせさせさせ給給たまふふう。。。
- 8さるさるさるにににかのかのかの大大だい將將しょういでゝいでゝいでて人人ひとにににたばかりたばかりたばかり給給たまふふうやうやうよう「「「宮宮みや仕仕づかえのののはじめはじめはじめににに、、、たゞたゞただなほなほなおやややはははあるあるあるべきべきべき。。。三三さん條條じょうのののおほみゆきおほみゆきおおみゆきせせせししし時時とき、、、紀紀きののの國國くにののの千千ち里里さとののの濱濱はまにににありありありけるけるけるいといといとおもしろきおもしろきおもしろき石石いし奉奉たてまつれれれりりりきききおほみゆきおほみゆきおおみゆきののの後後のち奉奉たてまつれれれりりりしかしかしかばばば、、、或或ある人人ひとのののみざうしみざうしみぞうしののの前前まえののの溝溝みぞにににすゑすゑすえたりたりたりしししををを、、、島島しまこのこのこのみみみ給給たまふふう君君きみなりなりなり。。。このこのこの石石いしををを奉奉たてまつらららむむん」」」とととのたまひのたまひのたまいててて、、、みみみずゐじんずゐじんずいじんとねりとねりとねりしししてててとりとりとりにににつかはすつかはすつかわす。。。いくばくいくばくいくばくもももなくなくなくてててもてもてもて來來きぬぬぬ。。。このこのこの石石いし聞聞ききききしししよりよりよりははは見見みるるるはははまされまされまされりりり。。。これこれこれをををたゞたゞただににに奉奉たてまつらららばばばすゞろすゞろすずろなるなるなるべしべしべしとてとてとて、、、人人ひと々々びとににに歌歌うたよまよまよませせせ給給たまふふう。。。右右みぎののの馬馬うまののの頭頭かみなりなりなりけるけるける人人ひとのののをををなむなむなん、、、靑靑あおききき苔苔こけをををきざみきざみきざみててて蒔蒔まき繪繪えのののかたかたかたにににこのこのこの歌歌うたをををつけつけつけててて奉奉たてまつりりりけるけるける、、、
- 9「「「あかあかあかねねねどもどもども岩岩いわにににぞぞぞかふるかふるかうる色色いろ見見みえええぬぬぬ心心こころををを見見みせせせむむんよしよしよしのののなけれなけれなければばば」」」
- 10とととなむなむなんよめよめよめりりりけるけるける。。。
- 11昔昔むかし、、、うぢうぢうじのののなかなかなかにににみこみこみこ生生うまれれれ給給たまへへえりりりけりけりけり。。。御御おおんうぶうぶうぶやややににに人人ひと々々びと歌歌うたよみよみよみけりけりけり。。。御御おおんおほぢおほぢおおじがたがたがたなりなりなりけるけるける翁翁おきなのののよめよめよめるるる、、、
- 12「「「わわわががが門門かどににに千千ちひろひろひろあるあるある蔭蔭かげををを植植うゑゑえつれつれつればばば夏夏なつ冬冬ふゆたれたれたれかかかかくれかくれかくれざるざるざるべきべきべき」」」。。。
- 13これこれこれははは貞貞さだ數數かずのののののの時時ときののの人人ひと、、、中將中將ちゅうじょうののの子子ことととなむなむなんいひいひいいけるけるける。。。兄兄あにののの中納言中納言ちゅうなごんのののむすめむすめむすめのののはらはらはらなりなりなり。。。
現代語訳
〔第76段〕昔、二条の后が、まだ東宮の母の御息所と申し上げていたころ、氏神に参詣なさったときに、近衛府に仕えていた翁が、人々が禄を賜るついでに、后のお車から直接禄を賜って、歌を詠んで献上した、
「大原の小塩の山も、今日こそは、藤原氏の祖神が天孫に仕えた神代のことを思い出していることでしょう」
と詠んで、翁は心の中でも悲しいと思ったのだろうか。どう思ったのかは知らない。
〔第77段〕昔、田村の帝と申し上げる帝がいらっしゃった。その時の女御に、多賀幾子と申し上げる方がいらっしゃった。その方がお亡くなりになって、安祥寺で法要を営んだ。三月の末に行った。人々が捧げ物を奉った。奉り集めた品物は千ほどもあった。たくさんの捧げ物を木の枝につけて、堂の前に立てたので、山がそのまま堂の前に動き出してきたように見えた。それを、右大将でいらっしゃった藤原常行と申し上げる方がいらして、講説が終わるころに、歌を詠む人々を呼び集めて、今日の法要を題にして、春の趣のある歌を奉らせなさる。右馬頭であった翁が、目は見まちがいをしながら詠んだ、
「山がみな移って来て今日の法要に参り合わせたのは、春との別れ、亡き方との別れを弔おうというのでしょう」
と詠んだのを、今見るとたいしてよい歌でもなかった。その当時は、これがほかの歌よりすぐれていたのだろうか、人々は感じ入ったのだった。
〔第78段〕昔、多賀幾子と申し上げる女御がいらっしゃった。お亡くなりになって、四十九日の法要を安祥寺で営んだ。右大将藤原常行という人がいらっしゃった。その法要に参列なさって、帰りがけに、山科の禅師の親王がお住まいの山科の宮で、滝を落とし、水を走らせたりして趣深く造ってある所に参上なさって、「長年、よそながらお仕えしておりますが、お近くではまだお仕えしたことがありません。今夜はこちらにお仕えいたしましょう」と申し上げなさる。親王はお喜びになって、夜の御座所の用意をおさせになる。
ところが、その大将は御前を退出して、人々に相談なさるには、「宮にお仕えする最初に、ただ何もしないでいてよいものか。三条の大行幸があったとき、紀伊の国の千里の浜にあった、たいそう趣のある石を献上した。大行幸のあとに献上したので、ある人の御曹司の前の溝に据えておいたが、親王は庭園の築山や池をお好みになる方だ。この石を献上しよう」とおっしゃって、御随身や舎人に取りに行かせる。まもなく持って来た。この石は、聞いていたよりも見たほうがすばらしかった。これをそのまま献上してはあまりに無趣向だろうというので、人々に歌を詠ませなさる。右馬頭であった人の歌を、青い苔を刻んで蒔絵の模様のようにして、この歌を石に付けて献上した、
「十分ではありませんが、この岩に代えてお贈りします。色に見えない私の心を、お見せする方法がありませんので」
と詠んだのだった。
〔第79段〕昔、在原氏の一族の中に皇子がお生まれになった。御産屋で人々が歌を詠んだ。皇子の祖父方であった翁が詠んだ、
「わが家の門に千尋もある木陰を植えたので、夏も冬も、誰がその陰に隠れないことがあろうか(誰もがこの皇子の恩恵を受けるでしょう)」。
この皇子は貞数親王で、当時の人は、中将の子だと言っていた。兄の中納言行平の娘の産んだ皇子である。
意訳
〔第76段〕二条の后が氏神の大原野神社に参詣した日、供奉した老いた近衛の翁が、后から直接禄を賜り、「藤原氏の祖神も今日は神代を思い出しているでしょう」と祝いの歌を献じる。表向きは后と藤原氏をたたえる歌だが、語り手は「心の中では悲しいと思ったのだろうか」と付け加え、かつて后と恋をした男の秘めた思いをほのめかす。
〔第77・78段〕文徳天皇の女御多賀幾子の法要で、たくさんの捧げ物が山のように立ち並ぶ。右馬頭の翁は、山が移って来て春との別れを弔っていると詠む。四十九日の帰り道、藤原常行は山科の禅師の親王に仕えるはじめの贈り物として、紀伊の名石を献じることにし、右馬頭の歌を青い苔で石に刻んで添えた。目に見えない心の代わりに石を贈るという趣向である。
〔第79段〕在原氏の娘が産んだ皇子の誕生を祝って、祖父方の翁が「千尋の木陰を植えた」と一族の繁栄を詠む。注記は、この皇子を貞数親王とし、世間では中将(業平)の子といううわさがあったと伝える。
語釈・文法注
- 氏神
- 一族の祖神。ここでは藤原氏の氏神を祀る大原野神社(京都市西京区)。春日大社から勧請された。
- をしほの山
- 小塩山。大原野神社の背後の山。
- 田村の帝
- 文徳天皇(827〜858)。陵が田邑(たむら)にあることからの呼び名。
- たかき子
- 藤原多賀幾子(?〜858)。藤原良相の娘で、文徳天皇の女御。常行の妹。
- 藤原の常行
- 藤原常行(836〜875)。良相の子で、多賀幾子の兄。右大将を務めた。
- 禪師のみこ
- 仁明天皇の皇子、人康(さねやす)親王(831〜872)。出家して山科に住んだ。
- 貞數のみこ
- 貞数親王(875〜916)。清和天皇の皇子で、母は在原行平の娘、文子。
- ゆきひら
- 在原行平(818〜893)。業平の異母兄。百人一首第16首の作者。
文法
- 「春宮のみやすん所」
- 東宮(のちの陽成天皇)の母である御息所。
- 「おもひいづらめ」
- 「こそ…らめ」の係り結び。思い出していることだろう。
- 「いかゞおもひけむ知らずかし」
- 語り手の評。どう思ったのか、わからないことだよ。
- 「いまそかりて」
- 底本の表記。「いまそかり」は「あり」の尊敬語で、いらっしゃって。
- 「目はたがひながら」
- 目は見まちがいをしながら、老いて目がかすんでいるさまと解される。
- 「なゝ七日」
- 七日を七たび重ねた日、四十九日。
- 「たゞなほやはあるべき」
- 「やは」は反語。ただ何もしないでいてよいものか。
- 「島このみ給ふ君」
- 「島」は庭園の池や築山。庭造りを好まれる方。
- 「すゞろなるべし」
- 「すずろなり」はつまらない、無趣向だ。
和歌
大はらやをしほの山も今日こそは神代のこともおもひいづらめ
- 詠者
- 近衛府の翁
- 状況
- 二条の后が大原野神社に参詣したとき、禄を賜って献じた歌。『古今和歌集』雑上に在原業平の歌として載る。
修辞
- 擬人法
- 小塩山が神代を思い出していると詠む。
- 寓意
- 「神代」に、藤原氏の祖神(天児屋根命)が天孫に仕えた昔と、后との昔の恋を重ねる読み方がある。
山のみなうつりて今日に逢ふことは春のわかれをとふとなるべし
- 詠者
- 右馬頭の翁
- 状況
- 多賀幾子女御の法要で、捧げ物を立て並べたさまを題に、春の歌として詠んだ歌。
修辞
- 見立て
- 枝につけた捧げ物の列を、移って来た山に見立てる。
- 掛詞
- 「わかれ」に春との別れと、亡き女御との別れを重ねる。
あかねども岩にぞかふる色見えぬ心を見せむよしのなければ
- 詠者
- 右馬頭
- 状況
- 山科の禅師の親王に石を献上するときに、青い苔で刻んで添えた歌。
修辞
- 対比
- 目に見える岩と、目に見えない心を対比する。
わが門に千ひろある蔭を植ゑつれば夏冬たれかかくれざるべき
- 詠者
- 祖父方の翁
- 状況
- 在原氏の娘が産んだ皇子の誕生を祝って詠んだ歌。『古今和歌集』賀に在原行平の歌として載る。
修辞
- 比喩
- 皇子を千尋の大樹にたとえ、その木陰に一族が守られる繁栄を祝う。
- 反語
- 「たれかかくれざるべき」で、誰もが恩恵を受けると強調する。
解説
第76段の大原野神社は、藤原氏が長岡京遷都のころに春日社から勧請した氏神である。二条の后高子は藤原氏の娘として、陽成天皇の母として参詣した。供奉した老翁を業平と見て、かつての恋人が后として華やかに参詣する姿を見送る男の思いを読み取るのが、古くからの読み方である。
第77・78段は、文徳天皇の女御多賀幾子の法要(天安二年、858)を背景にしている。右大将藤原常行は多賀幾子の兄で、右馬頭として登場する人物は業平と考えられる(業平は貞観七年、865に右馬頭)。年代には食い違いもあり、物語は実在の人物を用いながら自由に話を組み立てている。
第79段の貞数親王は、清和天皇と在原行平の娘文子との間に生まれた皇子である。注記の「中将の子」といううわさは、業平が貞数親王の実の父だという風聞があったことを示すとされるが、確かな根拠はない。
関連
出典
- 底本
- 丸岡桂・松下大三郎編『国文大観』物語部三 雑上(伊勢物語) 板倉屋書房、明治36年(1903)、58–60頁(コマ33–34)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日