古典ライブラリー

百人一首 第10首

これやこの

蝉丸(せみまる)

これがあの、都から出て行く人も帰る人も、知り合いも見知らぬ人も、ここで別れてはまた逢うという逢坂の関なのだなあ。人の出会いと別れを、関所の情景に託した歌。

逢坂の関で旅人たちが行き交う中、道端に座って琵琶を抱き、目を閉じて人々の足音に耳を傾ける蝉丸(AI生成)
逢坂の関で旅人たちが行き交う中、道端に座って琵琶を抱き、目を閉じて人々の足音に耳を傾ける蝉丸
  1. 1これこれこれややや初句
  2. 2ゆくゆくゆくもももかへるかへるかえるももも二句
  3. 3別れわかれ別れわかれわかれててて三句
  4. 4知るしる知るしるしるももも知らしら知らしらしらぬぬぬももも四句
  5. 5ののの結句

引用の仕方

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現代語訳

これがあの、都から東国へ出て行く人も都へ帰って来る人も、ここで別れてはまた逢い、知っている人も知らない人も、ここで出逢うという逢坂の関なのだなあ。

意訳

逢坂の関を絶え間なく行き交う大勢の人々の姿に、人生そのものの縮図を見た歌である。人は出会っては別れ、別れてはまた出会う。「逢う」という名をもつ関所で、出会いと別れが繰り返されていく。

「行く・帰る」「知る・知らぬ」「別れ・逢ふ」と、対になる言葉を畳みかける調子のよさの裏には、出会った者は必ず別れるという仏教の「会者定離」の思想が流れている。関所のそばに住み、人の往来をじっと見つめる隠者の目がとらえた、無常の世の姿でもある。

語釈・文法注

これやこの
「これがあの(有名な)〜か」。噂に聞いていたものを目の前にした感動を表す。
別れては
別れてはまた(逢う)。「別れ」と結句の「逢ふ」が対になっている。
あふ坂
逢坂(おうさか)。「逢ふ(出逢う)」との掛詞。
関
逢坂の関。山城国(京都府)と近江国(滋賀県)の境にあった関所で、都から東国へ向かう交通の要所。現在の滋賀県大津市。

文法

対句の反復
「ゆくもかへるも」「知るも知らぬも」と、反対の意味の語を「も」で並べ、往来の多さとリズムを生む。
掛詞(あふ坂)
地名の「逢坂」と、動詞「逢ふ」を掛ける。

和歌

詠者
蝉丸(生没年未詳(9〜10世紀頃))
逢坂の関のあたりに庵を結んで住んだと伝えられる人物。琵琶の名手で盲目であったとも、醍醐天皇の皇子であったともいわれるが、いずれも後世の伝説で、実像はほとんど分からない。
出典
『後撰和歌集』巻十五・雑一・1089(国歌大観番号)
状況
詞書に「相坂の関に庵室をつくりて住み侍りけるに、行きかふ人を見て」とある。逢坂の関のそばに庵を結んで住んでいたとき、行き交う人々を見て詠んだという。

修辞

対句・反復
「ゆくもかへるも」「知るも知らぬも」。
掛詞
「あふ坂(逢坂・逢ふ)」。
体言止め
「あふ坂の関」と名詞で結ぶ。

解説

逢坂の関は、東海道・東山道が都へ入る手前の峠に置かれた関所で、都と東国を結ぶ玄関口だった。「逢坂」という地名から、和歌では人の出逢いや恋の逢瀬を連想させる歌枕として、数多く詠まれた。

蝉丸については、『今昔物語集』に、琵琶の名手で盲目の蝉丸のもとに源博雅が三年通い続けて秘曲を伝授されたという話が見える。また、醍醐天皇の皇子で盲目のため逢坂山に捨てられたという伝説もあり、謡曲『蝉丸』の題材となった。いずれも確かな史実ではない。

『百人一首一夕話』は、肖像を盲人の姿に描くのは誤りだと批判している。蝉丸の姿は、伝説が重なるうちに形作られていったものである。

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歌に詠まれた場所

出典

底本
尾崎雅嘉『百人一首一夕話』 天保4年(1833)刊、巻2。国立国会図書館デジタルコレクション
校合
古谷知新編『日本歴史図会』第12輯(百人一首一夕話) 国民図書、大正9–10年。国立国会図書館デジタルコレクション
松下大三郎・渡辺文雄編『国歌大観』歌集部 明治34–36年
校訂・訳・注
古典ライブラリー編集部
更新日