平家物語 巻第十二
土佐坊斬られの事
平家を滅ぼした功労者でありながら、義経は梶原の讒言によって頼朝の不審を受け、つけられた大名たちもみな鎌倉へ帰ってしまった。頼朝は大軍を送れば京が騒ぐと考え、土佐坊昌俊に、物詣でを装って義経を討てと命じた。上洛した土佐坊は義経に問い詰められ、熊野参詣のためだと偽って七枚の起請文を書いて許されたが、その夜、大番衆を集めて義経の館を襲った。愛妾の静が異変に気づき、義経は鎧を着て迎え撃ち、駆けつけた郎等たちとともに土佐坊を退けた。鞍馬に逃れた土佐坊は捕らえられ、義経は主君への忠義をほめて助命を申し出たが、土佐坊は頼朝に命を捧げた身だと断り、六条河原で斬られた。
- 1さるさるさる程程ほどににに判判ほう官官がんにににははは、、、鎌鎌かま倉倉くら殿殿どのよりよりより大大だい名名みょう十十じゅう人人にんつけつけつけられられられたりたりたりけるけるけるががが、、、内内ない々々ない御御ご不不ふ審審しんををを蒙蒙こうぶりりり給給たまふふうととと聞聞きこえええしかしかしかばばば、、、心心こころををを合合あははわせせせててて、、、一一ひと人人りづゝづゝずつ皆皆みな下下くだりりりはてはてはてにににけりけりけり。。。兄兄きょう弟弟だいなるなるなる上上うえ、、、ことにことにことに父父ふ子子しののの契契ちぎりりりをををしししててて、、、一一いちののの谷谷たに、、、壇壇だんののの浦浦うらににに至至いたるるるまでまでまで、、、平平へい家家けををを攻攻せめめめ亡亡ほろぼしぼしぼし、、、内内ない侍侍し所所どころ、、、しるししるししるしののの御御おん箱箱はこ、、、事事こと故故ゆえなうなうのう都都みやこへへへ返返かえししし入入いれれれ奉奉たてまつりりり、、、一一いっ天天てんををを鎭鎭しずめめめ、、、四四し海海かいをををすますすますすます。。。勸勸けん賞賞じょう行行おこなははわるるるべきべきべき所所ところににに、、、何何なにののの仔仔し細細さいあつあつあってててかかか、、、かかるかかるかかる聞聞きこえええのののありありありけんけんけんととと、、、上上かみ一一いち人人じんよりよりより下下しも萬萬ばん民民みんににに至至いたるるるまでまでまで、、、人人ひとみなみなみな不不ふ審審しんをををなすなすなす。。。そのそのその故故ゆえはははこのこのこの春春はる攝攝つ津津のののの國國くに渡渡わた邊邊なべにににててて、、、逆逆さか艣艣ろ立立たてててううう、、、立立たてててじじじののの論論ろんをををしししててて、、、大大おおきききににに嘲嘲あざむかかかれれれししし事事ことををを、、、梶梶かじ原原はら遺遺い恨恨こんににに思思おもひひい、、、常常つねははは讒讒ざん言言げんしししててて、、、遂遂ついににに失失うしなひひいけるけるけるとととぞぞぞ、、、後後のちにににははは聞聞きこえええししし。。。
- 2鎌鎌かま倉倉くら殿殿どの、、、判判ほう官官がんににに勢勢せいのののつかつかつかぬぬぬ閒閒まににに、、、今今いま一一ひと日日ひももも先先さきににに討討うつ手手てををを上上のぼせせせたうたうとうははは思思おもははわれれれけれけれけれどもどもども、、、大大だい名名みょうどもどもどもさしさしさし上上のぼせせせばばば、、、宇宇う治治じ、、、勢勢せ多多たののの橋橋はしをををももも引引ひききき、、、京京きょう都都とのののさわぎさわぎさわぎともともともなりなりなりててて、、、なか〳〵なか〳〵なかなかあしかりあしかりあしかりなんずなんずなんず、、、いかゞいかゞいかがせせせんんんととと思思おもははわれれれけるけるけるががが、、、こゝこゝここににに土土と佐佐さ坊坊ぼう昌昌しょう俊俊しゅんををを召召めしししててて、、、「「「わわわ僧僧そう上上のぼつつっててて、、、ものものもの詣詣もうでででするするするやうやうようででで、、、たばかつたばかつたばかっててて討討うててて。。。」」」とととのたまへのたまへのたまえばばば、、、土土と佐佐さ坊坊ぼう畏畏かしこまりまりまり承承うけたまわつつっててて、、、宿宿しゅく所所しょへへへももも歸歸かえらららずずず、、、すぐすぐすぐににに京京きょうへへへぞぞぞ上上のぼりりりけるけるける。。。九九く月月がつ二二に十十じゅう九九く日日にち、、、土土と佐佐さ坊坊ぼう都都みやこへへへ上上のぼつつったりたりたりけれけれけれどもどもども、、、次次つぎののの日日ひまでまでまで判判ほう官官がん殿殿どのへへへははは參參さんぜぜぜずずず。。。判判ほう官官がん土土と佐佐さ坊坊ぼうががが上上のぼつつったるたるたる由由よしををを聞聞きこし召召めしししててて、、、武武む藏藏さし坊坊ぼう辨辨べん慶慶けいををを以以もっててて召召めささされれれけれけれければばば、、、やがてやがてやがてつれつれつれてててぞぞぞ參參まいりりりたるたるたる。。。
- 3判判ほう官官がん、、、「「「いかにいかにいかに土土と佐佐さ坊坊ぼう、、、鎌鎌かま倉倉くら殿殿どのよりよりより御御おん文文ふみはははなきなきなきかかか。。。」」」ととと宣宣のたまへへえばばば、、、「「「別別べちののの御御おん事事ことももも候候そうらははわぬぬぬ閒閒あいだ、、、御御おん文文ふみをををばばば參參まいらららせせせられられられずずず候候そうろう。。。御御おんことばことばことばででで申申もうせせせととと仰仰おおせせせ候候そうらひひいつるつるつるははは、、、當當とう時時じ都都みやこににに別別べちののの仔仔し細細さいののの候候そうらははわぬぬぬははは、、、さてさてさて渡渡わたらららせせせ給給たまふふう御御おん故故ゆえなりなりなり。。。相相あい構構かまへへえてててよく〳〵よく〳〵よくよく守守しゅ護護ごせせせさせさせさせ給給たまへへえととと申申もうせせせとととこそこそこそ仰仰おおせせせ候候そうらひひいつれつれつれ。。。」」」ととと申申もうしししけれけれければばば、、、判判ほう官官がん、、、「「「よもよもよもさささはははあらあらあらじじじ、、、義義よし經經つね討討うちちちににに上上のぼつつったるたるたる御御おん使使つかいなりなりなり。。。大大だい名名みょうどもどもどもさしさしさし上上のぼせせせばばば、、、宇宇う治治じ、、、勢勢せ多多たののの橋橋はしをををももも引引ひききき、、、京京きょう都都とのののさわぎさわぎさわぎともともともなりなりなりててて、、、なか〳〵なか〳〵なかなかあしかりあしかりあしかりなんずなんずなんず。。。わわわ僧僧そう上上のぼつつってててものものもの詣詣もうでででするするするやうやうようででで、、、たばかつたばかつたばかっててて討討うてててととと、、、仰仰おおせせせつけつけつけられられられたなたなたな。。。」」」とととのたまへのたまへのたまえばばば、、、土土と佐佐さ坊坊ぼう大大おおきききににに驚驚おどろききき、、、「「「何何なにににに依依よつつってててかかか、、、たゞたゞただ今今いまさるさるさる御御おん事事ことののの候候そうろうべきべきべき。。。これこれこれははは聊聊いささかかか宿宿しゅく願願がんののの仔仔し細細さい候候そうらひひいててて、、、熊熊くま野野の參參さん詣詣けいののの爲爲ためにににまかりまかりまかり上上のぼつつっててて候候そうろう。。。」」」ととと申申もうしししけれけれければばば、、、そのそのその時時とき判判ほう官官がん、、、「「「景景かげ時時ときががが讒讒ざん言言げんににに依依よつつっててて、、、鎌鎌かま倉倉くら中中じゅうへへへだにだにだに入入いれれれられられられずずずしししててて、、、追追おひひい上上のぼせせせられられられしししことことことはははいかにいかにいかに。。。」」」土土と佐佐さ坊坊ぼう、、、「「「そのそのその御御おん事事ことはははいかゞいかゞいかがましましましましましまし候候そうろうやらんやらんやらん、、、知知しりりり參參まいらららせせせずずず候候そうろう。。。昌昌しょう俊俊しゅんにににおいおいおいてててははは全全まったくくく御御おん腹腹はら黑黑ぐろくくく思思おもひひい奉奉たてまつらららぬぬぬ候候そうろう。。。」」」一一いっ向向こう不不ふ忠忠ちゅうなきなきなき由由よしののの起起き請請しょう文文もんををを、、、書書かききき進進しんずずずべきべきべき由由よしををを申申もうすすす。。。判判ほう官官がん、、、「「「とてもとてもとてもかくかくかくてててももも、、、鎌鎌かま倉倉くら殿殿どのににによしよしよしととと思思おもははわれれれ奉奉たてまつつつったるたるたる身身みならならならばばばこそこそこそ。。。」」」とととててて、、、以以もってててののの外外ほかににに氣氣け色色しきあしあしあしげげげににに見見みえええたまへたまへたまえばばば、、、土土と佐佐さ坊坊ぼう一一いっ旦旦たんののの害害がいををを遁遁のがれれれんんんががが爲爲ためににに、、、ゐゐいながらながらながら七七しち枚枚まいののの起起き請請しょうををを書書かききき、、、或或あるいははは燒燒やいいいててて飮飮のみみみ、、、或或あるいははは社社やしろののの寶寶ほう殿殿でんににに籠籠こめめめなどなどなどしししててて、、、ゆりゆりゆりててて歸歸かえりりり、、、大大おお番番ばん衆衆しゅののの者者ものどもどもども催催もよおししし集集あつめめめててて、、、そのそのその夜夜よやがてやがてやがて寄寄よせせせんんんとととすすす。。。
- 4判判ほう官官がんははは磯磯いそののの禪禪ぜん師師じととといふいふいう白白しら拍拍びょう子子しががが女女むすめ、、、靜靜しずかととといふいふいう女女おんなををを寵寵ちょう愛愛あいせせせられられられけりけりけり。。。靜靜しずか傍傍かたわらををを片片へん時時じももも立立たちちちさるさるさることことことなしなしなし。。。靜靜しずか申申もうしししけるけるけるははは、、、「「「大大おお路路じはははみなみなみな武武む者者しゃにににててて候候そうろうなるなるなる。。。御御み内内うちよりよりより催催もよおしししのののなからなからなからんんんににに、、、これこれこれほどほどほどまでまでまで大大おお番番ばん衆衆しゅののの者者ものどもどもどもががが騒騒さわぐぐぐべきべきべき事事ことややや候候そうろうべきべきべき。。。いかさまいかさまいかさまにににもももこれこれこれははは晝晝ひるののの起起き請請しょう法法ぼう師師しががが所所し爲爲わざととと覺覺おぼえええ候候そうろう。。。人人ひとををを遣遣つかははわしししててて見見みせせせ候候そうらははわばやばやばや。。。」」」とととててて、、、六六ろく波波は羅羅らののの故故こ入入にゅう道道どう相相しょう國國こくののの召召めし使使つかははわれれれけるけるける禿禿かぶろををを、、、三三さん四四よ人人にん召召めし使使つかははわれれれけるけるけるををを、、、二二に人人にん見見みせせせににに遣遣つかははわすすす。。。程程ほどふるふるふるまでまでまで歸歸かえらららずずず。。。女女おんなはははなか〳〵なか〳〵なかなか苦苦くるしかるしかるしかるまじまじまじとてとてとて、、、はしたはしたはした者者ものををを一一いち人人にん見見みせせせににに遣遣つかははわすすす。。。やがてやがてやがて走走はしりりり歸歸かえつつっててて、、、「「「禿禿かぶろとととおぼしきおぼしきおぼしき者者ものははは、、、二二ふた人人りながらながらながら土土と佐佐さ坊坊ぼうががが門門かどののの前前まえににに斬斬きりりり伏伏ふせせせられられられててて候候そうろう。。。門門かどののの前前まえにににははは鞍鞍くら置置おききき馬馬むまどもどもども引引ひき立立たて〳〵て〳〵てひきたて、、、大大おお幕幕まくののの中中うちにににははは者者ものどもどもども鎧鎧よろい著著き、、、兜兜かぶとののの緒緒ををををしめしめしめ、、、矢矢やかきかきかき負負おひひい、、、弓弓ゆみおしおしおし張張はりりり、、、只只ただ今今いま寄寄よせせせんんんととと出出いででで立立たちちち候候そうろう。。。少少すこしししもももものものもの詣詣もうでででののの氣氣け色色しきとととははは見見みえええ候候そうらははわずずず。。。」」」ととと申申もうしししけれけれければばば、、、判判ほう官官がんされされさればばばこそこそこそとてとてとて、、、太太た刀刀ち取取とつつっててて出出いでででたまへたまへたまえばばば、、、靜靜しずか、、、きせながきせながきせなが取取とつつっててて投投なげげげかけかけかけ奉奉たてまつるるる。。。高高たか紐紐ひも許許ばかりりりしししててて出出いででで給給たまへへえばばば、、、馬馬むまににに鞍鞍くら置置おいいいててて中中ちゅう門門もんののの口口くちににに引引ひき立立たてててたりたりたり。。。判判ほう官官がんこれこれこれににに打打うちちち乘乘のりりり、、、「「「門門もんあけあけあけよよよ。。。」」」とてとてとて開開あけけけさせさせさせ、、、今今いまや〳〵や〳〵やいまやととと侍侍まちちち給給たまふふう所所ところににに、、、夜夜や半半はんばかりばかりばかりににに土土と佐佐さ坊坊ぼうひたひたひた兜兜かぶと四四し五五ご十十じっ騎騎き、、、總總そう門門もんののの前前まえにににおしおしおし寄寄よせせせててて、、、鬨鬨ときをををどつどつどっとととぞぞぞつくりつくりつくりけるけるける。。。判判ほう官官がん鐙鐙あぶみふんばりふんばりふんばり立立たち上上あがりりり、、、大大だい音音おん聲聲じょうをををあげあげあげててて、、、「「「夜夜よ討討うちにににももも、、、またまたまた晝晝ひる軍軍いくさにににももも、、、義義よし經經つねたやすうたやすうたやすう討討うつつつべきべきべき者者ものははは、、、日日に本本ほん國國ごくにににははは覺覺おぼえええぬぬぬものものものををを。。。」」」とてとてとて、、、馳馳はせせせ廻廻まわりりり給給たまへへえばばば、、、馬馬むまににに當當あてててられられられじじじとととややや思思おもひひいけんけんけん、、、みなみなみな中中なかをををあけあけあけてててぞぞぞ通通とおしししけるけるける。。。
- 5さるさるさる程程ほどににに伊伊い勢勢せののの三三さぶ郎郎ろう義義よし盛盛もり、、、奧奧おう州州しゅうののの佐佐さ藤藤とう四四し郎郎ろう兵兵びょう衞衞え忠忠ただ信信のぶ、、、江江え田田だののの源源げん三三ぞう、、、熊熊くま井井いののの太太た郎郎ろう、、、武武む藏藏さし坊坊ぼう辨辨べん慶慶けいなどなどなどいふいふいう一一いち人人にん當當とう千千ぜんののの兵兵つわものどもどもども、、、御御み内内うちににに夜夜よ討討うち入入いつつったりたりたりとととててて、、、あそこあそこあそこののの宿宿しゅく所所しょ、、、こゝこゝここののの屋屋や形形かたよりよりより馳馳はせせせ來來きたるるる程程ほどににに、、、判判ほう官官がん程程ほどなくなくなく六六ろく七七しち十十じっ騎騎きににになりなりなり給給たまひひいぬぬぬ。。。土土と佐佐さ坊坊ぼう心心こころははは猛猛たきょううう寄寄よせせせたれたれたれどもどもども、、、助助たすかるかるかる者者ものははは少少すくのううう、、、討討うたたたるゝるゝるる者者ものぞぞぞ多多おおかりかりかりけるけるける。。。土土と佐佐さ坊坊ぼう叶叶かなははわじじじとととややや思思おもひひいけんけんけん、、、稀稀け有有うにににしししててて鞍鞍くら馬馬まののの奧奧おくへへへ引引ひき退退しりぞくくく。。。鞍鞍くら馬馬まははは判判ほう官官がんののの故故こ山山ざんなりなりなりけれけれければばば、、、彼彼か所所しこののの法法ほう師師し搦搦からめめめ取取とつつっててて、、、次次つぎののの日日ひ判判ほう官官がん殿殿どのへへへ遣遣つかははわすすす。。。僧僧そう正正じょうががが谷谷たにととといふいふいう所所ところににに隱隱かくれれれゐゐいたりたりたりけるけるけるとととかやかやかや。。。
- 6土土と佐佐さ坊坊ぼうそのそのその日日ひののの裝裝しょう束束ぞくにににははは、、、褐褐かちののの直直ひた垂垂たれににに黑黑くろ革革かわ縅縅おどしののの鎧鎧よろい著著きててて、、、出出しゅっ張張ちょう頭頭と巾巾きんをををぞぞぞ著著きたりたりたりけるけるける。。。判判ほう官官がん緣緣えんににに立立たつつっててて、、、土土と佐佐さ坊坊ぼうををを大大おお庭庭にわへへへ引引ひきききすゑすゑすえさせさせさせ、、、「「「いかにいかにいかに土土と佐佐さ坊坊ぼう、、、起起き請請しょうにににははは早早はやくくくもももうてうてうてたるたるたるぞぞぞかしかしかし。。。」」」とととのたまへのたまへのたまえばばば、、、「「「さんさんさん候候ぞうろう。。。あるあるあることことことににに書書かいいいててて候候そうらへへえばばばうてうてうてててて候候そうろう。。。」」」ととと申申もうすすす。。。判判ほう官官がん涙涙なみだをををはらはらはらはらはらはらととと流流ながいいいててて、、、「「「主主しゅ君君くんののの命命めいををを重重おもんんんじじじててて、、、私私わたくしののの命命めいををを輕輕かろんんんずずず。。。志志こころざしののの程程ほどまことまことまことににに神神しん妙妙びょうなりなりなり。。。わわわ僧僧そう命命いのち惜惜おしくしくしくばばば、、、助助たすけけけててて鎌鎌かま倉倉くらへへへ歸歸かえししし遣遣つかははわさささんんんはははいかにいかにいかに。。。」」」ととと宣宣のたまへへえばばば、、、土土と佐佐さ坊坊ぼうゐゐい直直なおりりり、、、畏畏かしこまつまつまっててて、、、「「「こここははは口口くち惜惜おしきしきしき事事ことをををももものたまふのたまふのたまうものものものかなかなかな。。。助助たすからからからうううととと申申もうさささばばば、、、殿殿とのははは助助たすけけけ給給たまふふうべきべきべきかかか。。。鎌鎌かま倉倉くら殿殿どのののの、、、『『『法法ほう師師しなれなれなれどもどもどもおのれおのれおのれぞぞぞ狙狙ねらははわんんんずるずるずるものものものををを。。。』』』ととと、、、仰仰おおせせせををを蒙蒙こうぶつつっしししよりよりよりこのこのこのかたかたかた、、、命命いのちをををばばば兵兵ひょう衞衞えののの佐佐すけ殿殿どのににに奉奉たてまつりりりぬぬぬ。。。なじかはなじかはなじかわ再再ふたたびびび取取とり返返かえししし奉奉たてまつるるるべきべきべき。。。たゞたゞただ芳芳ほう恩恩おんにににはははとう〳〵とう〳〵とうとう頭頭こうべををを刎刎はねねねられられられ候候そうらへへえ。。。」」」ととと申申もうしししけれけれければばば、、、さらばさらばさらばとてとてとて、、、やがてやがてやがて六六ろく條條じょう河河かわ原原らへへへ引引ひき出出いだいいいてててぞぞぞ斬斬きつつってててんげるんげるんげる。。。譽譽ほめめめぬぬぬ人人ひとこそこそこそなかりなかりなかりけれけれけれ。。。
現代語訳
さて判官には鎌倉殿から大名が十人つけられていたが、判官が内々ご不審を受けておられると聞こえたので、心を合わせて一人ずつみな下ってしまった。兄弟であるうえ、とりわけ父子の契りまで結んで、一の谷から壇の浦に至るまで平家を攻め滅ぼし、内侍所と神璽の御箱を無事に都へお返し申し、天下を鎮め、四海を平らげた。恩賞が行われるべきところに、どういうわけでこのような噂があるのだろうと、上は天子から下は万民に至るまで、人はみな不審に思った。そのわけは、この春に摂津国渡辺で逆艣を立てる立てないの論をして、大いに嘲られたことを梶原が恨みに思い、いつも讒言して、ついに滅ぼしたのだと、後には聞こえた。
鎌倉殿は、判官に勢がつかないうちに、一日でも早く討手を差し向けたいとは思われたが、大名たちを差し上らせれば、宇治・勢多の橋を引き落とし、京都の騒ぎにもなって、かえってまずいだろう、どうしようかと思われたが、ここに土佐坊昌俊を呼んで、「おまえが上って、物詣でをするようにして、だまして討て」とおっしゃったので、土佐坊はかしこまって承り、宿所にも帰らずにすぐに京へ上った。九月二十九日、土佐坊は都に上ったが、翌日まで判官殿のもとへは参らなかった。判官は土佐坊が上ったことをお聞きになって、武蔵坊弁慶を使いとしてお呼びになったので、すぐに連れられて参った。
判官が「どうだ土佐坊、鎌倉殿からお手紙はないか」とおっしゃると、「特別のこともございませんので、お手紙は差し上げられません。言葉で申せと仰せられましたのは、『今都に別に事がないのは、こうしてあなたがおいでになるからだ。決してよくよく守護してください』と申せと仰せられました」と申したので、判官は「まさかそうではあるまい。義経を討ちに上ってきた御使いだ。大名たちを差し上らせれば、宇治・勢多の橋を引き落とし、京都の騒ぎにもなって、かえってまずいだろう。おまえが上って物詣でをするようにして、だまして討てと仰せつけられたな」とおっしゃると、土佐坊はたいそう驚いて、「どうして今そのようなことがありましょう。これは少し宿願がございまして、熊野参詣のために上ってきたのです」と申したので、そのとき判官は「景時の讒言によって鎌倉の中にさえ入れられず、追い返されたのはどういうことか」。土佐坊は「そのことはどのようなことでいらっしゃるのか、存じ上げません。昌俊においては決して腹黒く思い申してはおりません」。まったく不忠のないことの起請文を書いて差し上げようと申した。判官は「どちらにしても、鎌倉殿によいと思われ申している身ならともかく」といって、たいそう機嫌が悪そうに見えたので、土佐坊はその場の害を逃れるために、座ったまま七枚の起請文を書き、あるいは焼いて飲み、あるいは社の宝殿に納めなどして、許されて帰り、大番衆の者たちを呼び集めて、その夜すぐに寄せようとした。
判官は磯禅師という白拍子の娘で、静という女を寵愛しておられた。静は片時もおそばを離れることがない。静が申すには、「大路はみな武者でいっぱいだそうです。こちらからの召集もないのに、これほどまで大番衆の者たちが騒ぐことがありましょうか。きっとこれは昼の起請文の法師のしわざと思われます。人を遣わして見させましょう」といって、六波羅の故入道相国が召し使っておられた禿を三、四人召し使っておられたのを、二人見に遣わした。しばらくたっても帰らない。女ならかえって差しつかえあるまいといって、下女を一人見に遣わした。すぐに走って帰ってきて、「禿と思われる者は、二人とも土佐坊の門の前に斬り伏せられております。門の前には鞍を置いた馬を何頭も引き立て、大幕の中では者どもが鎧を着、兜の緒をしめ、矢を背負い、弓を張って、今にも寄せようと出で立っております。少しも物詣での様子とは見えません」と申したので、判官は「やはりそうか」といって太刀を取って出られると、静が鎧を取って投げかけ申した。高紐だけを結んで出られると、馬に鞍を置いて中門の口に引き立ててあった。判官はこれに乗り、「門を開けよ」といって開けさせ、今か今かと待っておられるところに、夜半ごろ土佐坊が兜をつけた四、五十騎で総門の前に押し寄せ、鬨の声をどっとあげた。判官は鐙を踏んばって立ち上がり、大音声をあげて、「夜討ちにせよ昼の戦にせよ、義経をたやすく討てる者は日本国にはいないと思うぞ」といって馳せ回られると、馬に蹴られまいと思ったのか、みな中をあけて通した。
そのうちに伊勢三郎義盛、奥州の佐藤四郎兵衛忠信、江田源三、熊井太郎、武蔵坊弁慶などという一人当千の兵たちが、館に夜討ちが入ったといって、あちらの宿所、こちらの屋形から馳せ参じたので、判官はまもなく六、七十騎になられた。土佐坊は心は猛く寄せたけれども、助かる者は少なく、討たれる者が多かった。土佐坊はかなわないと思ったのか、かろうじて鞍馬の奥へ逃げこんだ。鞍馬は判官のふるさとの山だったので、そこの法師が捕らえて、翌日判官殿のもとに送ってきた。僧正が谷という所に隠れていたということである。
土佐坊はその日の装束に、褐の直垂に黒革縅の鎧を着て、出張頭巾をかぶっていた。判官は縁に立って、土佐坊を大庭に引き据えさせ、「どうだ土佐坊、起請文の罰がもう当たったな」とおっしゃると、「さようでございます。ないことを書いたので当たったのです」と申す。判官は涙をはらはらと流して、「主君の命を重んじて自分の命を軽んじる。その志はまことに殊勝だ。おまえ、命が惜しいなら、助けて鎌倉へ帰してやろうと思うがどうだ」とおっしゃると、土佐坊は居ずまいを正してかしこまり、「これは情けないことをおっしゃるものです。助かりたいと申したら、殿はお助けになるのですか。鎌倉殿から『法師ではあるがおまえこそ狙えるはずだ』と仰せを受けてからこのかた、命は兵衛佐殿に差し上げたのです。どうして再び取り返せましょう。ただご恩情には、早く早く首をお刎ねください」と申したので、それではといって、すぐに六条河原へ引き出して斬ってしまった。ほめない人はなかった。
意訳
平家を滅ぼした義経が、兄頼朝から討手を差し向けられるに至る章段である。逆艣の論以来の梶原の恨みと讒言が、兄弟の対立を決定的にしたと語られる。物詣でを装って義経を討とうとする土佐坊の計略と、それを見抜く義経・静の機転が、緊迫した夜討ちの場面を形づくっている。
捕らえられた土佐坊が、助命を断って主君への忠義を貫く姿は、敵ながら人々の称賛を受ける。義経もまたその志を涙ながらにほめており、武士の主従関係の厳しさと、それを理解しあう武人同士の心のつながりが描かれている。
語釈・文法注
文法
- 「父子の契り」
- 義経は頼朝の養子になる約束をしていたとされる。
- 「逆艣立てう、立てじの論」
- 巻第十一「逆櫓の事」の義経と梶原の論争。底本は「艣」と刷る。
- 「勢のつかぬ閒に」
- (義経に)味方の軍勢が集まらないうちに。
- 「わ僧」
- おまえ。僧を親しみまたは軽んじて呼ぶ語。
- 「ゆりて」
- 許されて。
- 「大番衆」
- 諸国から交代で京の警護にあたる武士たち。
- 「禿」
- 清盛が京中に放った、おかっぱ頭の少年の密偵(巻第一「禿童の事」)。
- 「きせなが」
- 着背長。大将の着る大鎧。
- 「侍ち給ふ所に」
- 底本は「侍ち」と刷る。「待ち」の誤植であろう。
- 「起請には早くもうてたるぞかし」
- 起請文に背いた罰がもう当たったな。
- 「斬つてんげる」
- 「斬つてけり」の強調形。斬ってしまった。
解説
土佐坊昌俊の堀川夜討は文治元年(1185)十月十七日のことで、『吾妻鏡』にも見える。この事件を契機に、義経は後白河法皇から頼朝追討の院宣を得て挙兵を図るが、兵は集まらず、都を落ちることになる。静御前はのちに吉野で捕らえられ、鎌倉で頼朝の前で舞ったことで知られる。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、828–832頁(コマ443–445)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日