平家物語 巻第十二
判官都落ちの事
義経を見張っていた雑色足立新三郎の知らせで土佐坊の死を知った頼朝は、範頼に討手を命じたが、範頼は「おまえも九郎のようにふるまうな」と言われて恐れ、千枚の起請文を書いたが、ついに討たれた。北条時政の大軍が上洛すると聞いた義経は、緒方惟義を味方につけ、法皇から九州の武士を従える院庁下文を得て、十一月三日、騒ぎも起こさず五百余騎で都を落ちた。摂津の太田頼基を河原津で破ったが、大物の浦から船出すると西風に吹き戻され、住吉の浦に打ち上げられて吉野に籠もった。供の女房たちは浜に捨て置かれ、惟義・行家らの船も散り散りになった。人々はこの風を平家の怨霊と言った。時政が上洛すると、法皇は今度は義経追討の院宣を下した。
- 1こゝこゝここににに足足あ立立だちののの新新しん三三ざぶ郎郎ろうととといふいふいう雜雜ざっ色色しきありありあり。。。「「「きやつきやつきゃつははは下下げ臈臈ろうなれなれなれどもどもども、、、さが〴〵しきさが〴〵しきさがざがしき者者ものにににててて候候そうろう。。。召召めし使使つかははわれれれ給給たまへへえ。。。」」」とととててて、、、鎌鎌かま倉倉くら殿殿どのよりよりより判判ほう官官がんにににつけつけつけられられられたりたりたりけるけるけるとととかやかやかや。。。これこれこれははは内内ない々々ない九九く郎郎ろうがががふるまひふるまひふるまいををを見見みててて、、、我我われににに知知しらせらせらせよよよとととなりなりなり。。。土土と佐佐さ坊坊ぼうががが斬斬きらららるゝるゝるるををを見見みててて、、、夜夜よををを日日ひににについついついででで馳馳はせせせ下下くだりりり、、、このこのこの由由よしかくかくかくととと申申もうしししけれけれければばば、、、鎌鎌かま倉倉くら殿殿どの大大おおきききににに驚驚おどろききき、、、舎舎しゃ弟弟てい三三み河河かわののの守守かみ範範のり賴賴よりににに、、、討討うつ手手てににに上上のぼりりり給給たまふふうべきべきべき由由よしのたまへのたまへのたまえばばば、、、頻頻しきりりりににに辭辭じししし申申もうささされれれけれけれけれどもどもども、、、いかにいかにいかにもももかなふかなふかなうまじきまじきまじき由由よしををを、、、かさねかさねかさねてててのたまふのたまふのたまう閒閒あいだ、、、力力ちから及及およばばばずずず、、、いそぎいそぎいそぎ物物もの具具のぐしししててて、、、御御おん暇暇いとま申申もうしししににに參參まいららられれれたりたりたりけれけれければばば、、、鎌鎌かま倉倉くら殿殿どの、、、「「「わわわ殿殿どのもももまたまたまた九九く郎郎ろうがががふるまひふるまひふるまいししし給給たまふふうなななよよよ。。。」」」とととのたまひのたまひのたまいけるけるける御御おんことばことばことばににに恐恐おそれれれててて、、、宿宿しゅく所所しょににに歸歸かえりりり、、、いそぎいそぎいそぎ物物もの具具のぐぬぎぬぎぬぎ置置おききき、、、京京きょう上上のぼりりりをををばばば思思おもひひい止止とどまりまりまり給給たまひひいぬぬぬ。。。全全まったくくく不不ふ忠忠ちゅうなきなきなき由由よしののの起起き請請しょう文文もんををを、、、一一いち日日にちににに十十じゅう枚枚まいづゝづゝずつ晝晝ひるははは書書かききき、、、夜夜よるははは御御お坪坪つぼののの内内うちにににててて讀讀よみみみ上上あげ〳〵げ〳〵げよみあげ、、、百百ひゃく日日にちににに千千せん枚枚まいののの起起き請請しょうををを書書かいいいててて參參まいらららせせせたりたりたりけれけれけれどもどもども、、、かなはかなはかなわずずずしししててて、、、範範のり賴賴より遂遂ついににに討討うたたたれれれ給給たまひひいけりけりけり。。。
- 2次次つぎににに北北ほう條條じょうののの四四し郎郎ろう時時とき政政まさににに六六ろく萬萬まん餘餘よ騎騎きをををさしさしさし添添そへへえててて、、、討討うつ手手てににに上上のぼせせせらるゝらるゝらるる由由よし聞聞きこえええしかしかしかばばば、、、判判ほう官官がん、、、宇宇う治治じ、、、勢勢せ多多たののの橋橋はしをををももも引引ひききき、、、拒拒ふせがががばやばやばやととと思思おもははわれれれけるけるけるががが、、、こゝこゝここににに緒緒お方方かたののの三三さぶ郎郎ろう惟惟これ義義よしははは平平へい家家けををを九九く國國こくののの中中うちへへへももも入入いれれれずずずしししててて、、、追追おひひい出出いだすすすほとほとほとののの多多た勢勢ぜいののの者者ものなりなりなり。。。「「「われわれわれににに賴賴たのまままれれれよよよ。。。」」」ととと宣宣のたまへへえばばば、、、「「「さささ候候そうらははわばばば御御み内内うちににに候候そうろう菊菊きく池池ちののの次次じ郎郎ろう高高たか直直なおははは、、、年年ねん來來らいののの敵敵かたきででで候候そうろう閒閒あいだ、、、賜賜たまはりはりわりててて斬斬きつつっててて後後のち、、、賴賴たのまままれれれ奉奉たてまつらららんんん。。。」」」ととと申申もうしししけれけれければばば、、、判判ほう官官がんさうなうさうなうそうのうたうたうとうでででけりけりけり。。。やがてやがてやがて六六ろく條條じょう河河かわ原原らへへへ引引ひき出出いだいいいてててぞぞぞ斬斬きつつってててけるけるける。。。そのそのその後後のち惟惟これ義義よし領領りょう狀狀じょうすすす。。。
- 3同同おなじきじきじき十十じゅう一一いち月月がつ二二ふつ日日かののの日日ひ、、、九九く郎郎ろう大大たい夫夫ふ判判ほう官官がん院院いん參參さんしししててて、、、大大おお藏藏くら卿卿きょう泰泰やす經經つねののの朝朝あ臣臣そんををを以以もっててて奏奏そう聞聞もんせせせられられられけるけるけるははは、、、「「「賴賴より朝朝とも郎郎ろう等等どうどもどもどもががが讒讒ざん言言げんににに依依よつつっててて、、、義義よし經經つね討討うたたたんんんととと仕仕つかまつりりり候候そうろう。。。宇宇う治治じ、、、勢勢せ多多たののの橋橋はしをををももも引引ひききき、、、拒拒ふせがががばやばやばやとととははは存存ぞんじじじ候候そうらへへえどもどもども、、、京京きょう都都とのののさわぎさわぎさわぎともともともなつなつなっててて、、、なか〳〵なか〳〵なかなかあしうあしうあしゅう候候そうらひひいなんずなんずなんず。。。ひとまづひとまづひとまず鎭鎭ちん西西ぜいののの方方かたへへへももも落落おちちち行行ゆかかかばやばやばやととと存存ぞんじじじ候候そうろう。。。あはれあはれあわれ院院いんののの廳廳ちょうののの御御おん下下くだし文文ぶみををを賜賜たまはつはつわっててて、、、まかりまかりまかり下下くだりりり候候そうらははわばやばやばや。。。」」」ととと申申もうささされれれたりたりたりけれけれければばば、、、法法ほう皇皇おうこのこのこの事事こといかゞいかゞいかがあらあらあらんんんずずずらんらんらんととと、、、思思おぼし召召めししし煩煩わずらははわせせせ給給たまひひいててて、、、諸諸しょ卿卿きょうににに仰仰おおせせせあはせあはせあわせらるらるらる。。。諸諸しょ卿卿きょう申申もうささされれれけるけるけるははは、、、「「「義義よし經經つね都都みやこににに候候そうらひひいなばなばなば、、、東東とう國國ごくののの大大おお勢勢ぜい亂亂みだれれれ入入いつつっててて、、、京京きょう都都とののの騷騷そう動動どう絶絶たえええまじうまじうまじゅう候候そうろう。。。暫暫しばくくく鎭鎭ちん西西ぜいののの方方かたへへへももも落落おちちち行行ゆききき候候そうらははわばばば、、、そのそのその恐恐おそれれれあるあるあるまじうまじうまじゅう候候そうろう。。。」」」ととと申申もうささされれれたりたりたりけれけれければばば、、、さらばさらばさらばとてとてとて、、、鎭鎭ちん西西ぜいののの者者ものどもどもども、、、緒緒お方方かたののの三三さぶ郎郎ろう惟惟これ義義よしををを始始はじめめめとととしししててて、、、臼臼うす杵杵き、、、戸戸へ次次つぎ、、、松松まつ浦浦ら黨黨とうににに至至いたるるるまでまでまで、、、みなみなみな義義よし經經つねががが下下げ知知じににに從從したがふふうべきべきべき由由よしののの、、、院院いんののの廳廳ちょうののの御御おん下下くだし文文ぶみををを賜賜たまはつはつわっててて、、、あくるあくるあくる三三みつ日日かののの卯卯うののの刻刻こくににに、、、都都みやこににに聊聊いささかかかのののわづらひわづらひわずらいもももなさなさなさずずず、、、波波なみ風風かぜをををももも立立たてててずずずしししててて、、、そのそのその勢勢せい五五ご百百ひゃく餘餘よ騎騎きでででぞぞぞ下下くだららられれれけるけるける。。。
- 4こゝこゝここににに攝攝つ津津のののの國國くに源源げん氏氏じ太太おお田田たののの太太た郎郎ろう賴賴より基基もと、、、このこのこの由由よしををを聞聞きいいいててて、、、鎌鎌かま倉倉くらととと中中なか違違たごうううててて下下くだりりり給給たまふふう人人ひとををを、、、さうなうさうなうそうのうわがわがわが門門かどののの前前まえををを通通とおしししなばなばなば、、、鎌鎌かま倉倉くら殿殿どのののの返返かえりりり聞聞きこし召召めささされれれんんんずるずるずる所所ところもももありありあり、、、矢矢や一一ひとつつつ射射いかけかけかけ奉奉たてまつらららんんんとてとてとて、、、手手て勢勢ぜい六六ろく十十じゅう餘餘よ騎騎き、、、河河か原原はら津津つととといふいふいう所所ところににに追追おつつっつきつきつきててて攻攻せめめめ戰戰たたかふふう。。。判判ほう官官がんそのそのその儀儀ぎならならならばばば一一ひと人人りももも洩洩もらさらさらさずずず討討うてててやややとてとてとて、、、五五ご百百ひゃく餘餘よ騎騎き取取とつつっててて返返かへししし、、、太太おお田田たののの太太た郎郎ろう六六ろく十十じゅう餘餘よ騎騎きををを中中なかににに取取とりりりこめこめこめててて、、、われわれわれ討討うちちち取取とらららんんんとととぞぞぞ進進すすみみみけるけるける。。。太太おお田田たののの太太た郎郎ろう賴賴より基基もと、、、家家いえののの子子こ郎郎ろう等等どう多多おおくくく討討うたたたせせせ、、、わがわがわが身身み手手て負負おひひい、、、馬馬むまののの太太ふと腹腹はら射射いさせさせさせ、、、力力ちから及及およばばばででで引引ひき退退しりぞくくく。。。殘殘のこりりり止止とどまつまつまっててて防防ふせぎぎぎ矢矢や射射いけるけるける兵兵つわもの共共ども二二に十十じゅう餘餘よ人人にんががが首首くび切切きりりりかけかけかけさせさせさせ、、、軍軍いくさ神神がみににに祭祭まつりりり、、、よろこびよろこびよろこびののの鬨鬨ときをををつくりつくりつくり、、、門門かど出出でよしよしよしとととぞぞぞ悅悅よろこばばばれれれけるけるける。。。そのそのその日日ひははは攝攝つ津津のののの國國くに大大だい物物もつののの浦浦うらにににぞぞぞ著著つききき給給たまふふう。。。あくるあくるあくる四四よっ日日かののの日日ひ、、、大大だい物物もつののの浦浦うらよりよりより船船ふねにににててて下下くだららられれれけるけるけるががが、、、折折おりふしふしふし西西にしののの風風かぜはげしうはげしうはげしゅう吹吹ふきききけれけれければばば、、、判判ほう官官がんののの乘乘のりりり給給たまへへえるるる船船ふねははは住住すみ吉吉よしののの浦浦うらへへへ打打うち上上あげげげられられられててて、、、それそれそれよりよりより吉吉よし野野の山山やまへへへぞぞぞ籠籠こもららられれれけるけるける。。。吉吉よし野野の法法ほう師師しににに攻攻せめめめられられられててて奈奈な良良らへへへ落落おつつつ。。。奈奈な良良ら法法ほう師師しににに攻攻せめめめられられられててて、、、またまたまた都都みやこへへへ歸歸かえりりり上上のぼりりり、、、北北ほっ國國こくにににかゝつかゝつかかっててて、、、遂遂ついににに奧奧おくへへへぞぞぞ下下くだららられれれけるけるける。。。
- 5判判ほう官官がんののの都都みやこよりよりより具具ぐせせせられられられたりたりたりけるけるける十十じゅう餘餘よ人人にんののの女女にょう房房ぼうたちたちたちをををばばば、、、みなみなみな住住すみ吉吉よしののの浦浦うらににに捨捨すててて置置おかかかれれれたりたりたりけれけれければばば、、、こゝこゝここやややかしこかしこかしこののの松松まつののの下下した、、、砂砂いさごののの上上うえににに倒倒たおれれれ伏伏ふししし、、、或或あるいははは袴袴はかまふみふみふみしだきしだきしだき、、、或或あるいははは袖袖そでかたかたかたしいしいしいててて泣泣なきききゐゐいたりたりたりけるけるけるををを、、、住住すみ吉吉よしののの神神しん官官かんこれこれこれををを憐憐あわれんんんででで、、、乘乘のり物物ものどもどもどもをををしたてしたてしたてててて、、、みなみなみな京京きょうへへへぞぞぞ送送おくりりりけるけるける。。。判判ほう官官がんのののむねむねむねととと賴賴たのまままれれれたりたりたりけるけるける緒緒お方方かたののの三三さぶ郎郎ろう惟惟これ義義よし、、、信信し太太だののの三三さぶ郎郎ろう先先せん生生じょう義義よし教教のり、、、備備び前前ぜんののの守守かみ行行ゆき家家いえ等等らががが乘乘のつつったるたるたる船船ふねどもどもどもももも、、、こゝこゝここかしこかしこかしこののの浦浦うら々々うら島島しま々々じまににに打打うち上上あげげげられられられててて、、、互互たがいにににそのそのそのゆくへゆくへゆくえをををももも知知しらららざりざりざりけりけりけり。。。西西にしののの風風かぜ忽忽たちまちちちにににはげしうはげしうはげしゅう吹吹ふきききけるけるけるははは、、、平平へい家家けののの怨怨おん靈靈りょうとととぞぞぞ聞聞きこえええししし。。。
- 6同同おなじきじきじき七七なぬ日日かののの日日ひ、、、北北ほう條條じょうののの四四し郎郎ろう時時とき政政まさ、、、六六ろく萬萬まん餘餘よ騎騎きををを相相あい具具ぐしししててて上上しょう洛洛らくすすす。。。あくるあくるあくる八八よう日日かののの日日ひ院院いん參參さんしししててて、、、「「「伊伊い豫豫よののの守守かみ源源みなもとののの義義よし經經つね、、、竝竝ならびににに備備び前前ぜんののの守守かみ行行ゆき家家いえ、、、信信し太太だののの三三さぶ郎郎ろう先先せん生生じょう義義よし教教のり、、、皆皆みな追追つい討討とうすすすべきべきべき由由よしののの院院いん宣宣ぜん賜賜たまはるはるわるべきべきべき由由よし、、、賴賴より朝朝とも申申もうししし候候そうろう。。。」」」ととと申申もうささされれれけれけれければばば、、、法法ほう皇皇おうやがてやがてやがて院院いん宣宣ぜんをををぞぞぞ下下くだささされれれけるけるける。。。去去さんんんぬるぬるぬる二二ふつ日日かののの日日ひははは、、、義義よし經經つね申申もうししし受受うくるくるくる旨旨むねにににまかせまかせまかせててて、、、賴賴より朝朝とも背背そむくくくべきべきべき由由よしののの院院いんののの廳廳ちょうののの御御おん下下くだし文文ぶみをををなさなさなされれれ、、、同同おなじきじきじき八八よう日日かののの日日ひははは、、、賴賴より朝朝とも卿卿きょうののの申申もうし狀狀じょうににに依依よつつっててて、、、義義よし經經つね討討うつつつべきべきべき由由よしののの院院いん宣宣ぜんををを下下くださささるるる。。。朝朝あしたにににかはりかはりかわり夕夕ゆうべににに變變へんずずず。。。たゞたゞただ世世よののの中中なかののの不不ふ定定じょうこそこそこそ悲悲かなしけれしけれしけれ。。。
現代語訳
ここに足立新三郎という雑色がいた。「あいつは身分は低いが、なかなか利口な者です。召し使ってください」といって、鎌倉殿から判官につけられていたということである。これは内々、九郎のふるまいを見て自分に知らせよということであった。土佐坊が斬られるのを見て、夜を日について馳せ下り、このことをかくかくと申したので、鎌倉殿はたいそう驚いて、弟の三河守範頼に討手として上るよう命じられると、範頼はしきりに辞退申したが、どうしてもならないと重ねておっしゃったので、やむをえず急いで武装して、おいとまを申しに参られたところ、鎌倉殿が「おまえもまた九郎のようなふるまいをするなよ」とおっしゃった御言葉に恐れて、宿所に帰り、急いで武具を脱ぎ置いて、上洛を思いとどまられた。決して不忠のないことの起請文を、一日に十枚ずつ昼は書き、夜は御坪の内で読み上げ読み上げ、百日で千枚の起請文を書いて差し上げたが、許されずに、範頼もついに討たれてしまわれた。
次に北条四郎時政に六万余騎を添えて、討手として上らせると聞こえたので、判官は宇治・勢多の橋を引き落として防ごうと思われたが、ここに緒方三郎惟義は、平家を九州の中にも入れずに追い出したほどの大勢の者であった。「私を頼みにせよ」とおっしゃると、「それならば、御内におります菊池次郎高直は長年の敵でございますので、いただいて斬ってから、お頼み申しましょう」と申したので、判官はあっさりと与えてしまった。すぐに六条河原に引き出して斬った。その後惟義は承知した。
同じく十一月二日、九郎大夫判官は院の御所に参って、大蔵卿泰経朝臣を通じて奏上されるには、「頼朝の郎等どもの讒言によって、頼朝は義経を討とうとしております。宇治・勢多の橋を引き落として防ごうとは思いますが、京都の騒ぎにもなって、かえってまずいでしょう。ひとまず九州の方へ落ちて行こうと思います。どうか院庁の御下文をいただいて下りたいのです」と申されたので、法皇はこのことをどうしたものかとお悩みになって、公卿たちに相談された。公卿たちが申すには、「義経が都にいたら、東国の大勢が乱入して、京都の騒動は絶えないでしょう。しばらく九州の方へ落ちて行ったら、その恐れはないでしょう」と申したので、それではといって、九州の者たちは緒方三郎惟義をはじめとして、臼杵・戸次・松浦党に至るまで、みな義経の命令に従えという院庁の御下文をいただいて、翌三日の卯の刻に、都に少しの迷惑もかけず、波風も立てずに、その勢五百余騎で下られた。
ここに摂津国の源氏、太田太郎頼基がこのことを聞いて、「鎌倉と仲違いして下られる人を、むざむざわが門の前を通したら、鎌倉殿が伝え聞かれたときのこともある。矢の一本でも射かけ申そう」といって、手勢六十余騎で河原津という所に追いついて攻め戦った。判官は、それなら一人も漏らさず討てといって、五百余騎で取って返し、太田太郎の六十余騎を中に取り囲んで、われこそ討ち取ろうと進んだ。太田太郎頼基は家の子郎等を多く討たれ、自分も手負い、馬の太腹を射られて、どうしようもなく退いた。残って防ぎ矢を射ていた兵ども二十余人の首を切って掛けさせ、軍神に祭り、喜びの鬨の声をあげて、門出がよいと喜ばれた。その日は摂津国大物の浦に着かれた。翌四日、大物の浦から船で下られたが、おりから西風が激しく吹いたので、判官の乗られた船は住吉の浦に打ち上げられて、そこから吉野山に籠もられた。吉野法師に攻められて奈良へ落ちた。奈良法師に攻められて、また都へ帰り上り、北国を経て、ついに奥州へ下られた。
判官が都から連れてこられた十余人の女房たちは、みな住吉の浦に捨て置かれたので、あちらこちらの松の下、砂の上に倒れ伏し、あるいは袴を踏み乱し、あるいは袖を片敷いて泣いていたのを、住吉の神官がこれを哀れんで、乗り物を仕立てて、みな京へ送った。判官が頼りにしておられた緒方三郎惟義、信太三郎先生義教、備前守行家らの乗った船も、あちこちの浦々島々に打ち上げられて、互いの行方もわからなかった。西風がにわかに激しく吹いたのは、平家の怨霊のしわざだと聞こえた。
同じく七日、北条四郎時政が六万余騎を連れて上洛した。翌八日に院の御所に参って、「伊予守源義経、ならびに備前守行家、信太三郎先生義教をみな追討せよとの院宣をいただきたいと、頼朝が申しております」と申されたので、法皇はすぐに院宣を下された。去る二日には、義経の申し出にまかせて頼朝にそむけという院庁の御下文を下され、同じく八日には、頼朝卿の申し状によって義経を討てという院宣を下された。朝に変わり夕に変わる。ただ世の中の定めなさこそ悲しいことである。
意訳
兄頼朝に追われ、ついに都を落ちていく義経の姿を描く章段である。範頼も起請文を重ねながら討たれたことは、頼朝の猜疑心の深さを物語る。都に迷惑をかけず静かに落ちていく義経の配慮と、それを阻む西風の不運が対照的に描かれる。
住吉の浜に捨てられた女房たちや、散り散りになった郎等たちの船は、義経の勢力が一気に瓦解していくさまを示す。その西風を平家の怨霊のしわざとする評や、義経のために院宣を下した法皇が六日後には追討の院宣を下すという結びは、世の定めなさを強く印象づけている。
語釈・文法注
文法
- 「さが〴〵しき者」
- 利口で抜け目のない者。
- 「わ殿もまた九郎がふるまひし給ふなよ」
- おまえも九郎のように(兄にそむく)ふるまいをするなよ。
- 「範賴遂に討たれ給ひけり」
- 範頼はのち建久四年(1193)に伊豆に流されて殺されたと伝える。
- 「拒がばや」
- 防ぎたい。
- 「追ひ出すほとの」
- 底本は「ほと」と刷る。追い出すほどの。
- 「さうなうたうでけり」
- あっさりと与えてしまった。
- 「領狀す」
- 承知する。
- 「院の廳の御下文」
- 院庁が出す命令書。
- 「中違うて」
- 仲違いして。
- 「先生」
- 帯刀先生(たちはきのせんじょう)。東宮の護衛の長。
- 「朝にかはり夕に變ず」
- 朝には変わり夕には改まる。
解説
義経は文治元年(1185)十一月三日に京を出て、大物浦から船出したが、暴風で難破した(『吾妻鏡』)。その後、吉野・奈良・京を転々とし、北陸道を経て奥州平泉の藤原秀衡のもとに逃れた。兵庫県尼崎市の大物浦は、能「船弁慶」の舞台として知られる。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、832–835頁(コマ445–447)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日