平家物語 巻第十二
平大納言の流されの事
文治元年九月、鎌倉の申し入れで、都に残っていた平家の一族はそれぞれ諸国へ流されることになった。時忠は能登、信基は佐渡、時実は安芸などである。時忠は吉田にいる建礼門院のもとに別れを告げに参り、女院は昔の名残はあなただけだったのにと涙を流した。時忠は建春門院の兄として栄え、検非違使別当として盗賊の腕を切り落とすなど厳しく、悪別当と呼ばれ、院宣の使者花方の顔に焼印をしたのも時忠であった。そのため法皇の怒りは深く、義経のとりなしもかなわず流された。時忠は子の時家や妻の帥佐と別れ、堅田の浦で「帰り来む」の歌を詠んで北国へ下った。
- 1九九く月月がつ二二に十十じゅう三三さん日日にち、、、平平へい家家けののの餘餘よ黨黨とうののの都都みやこののの内内うちににに殘殘のこりりり止止とどまりまりまりたるたるたるををを、、、みなみなみな國國くに々々ぐにへへへ遣遣つかははわさささるるるべきべきべき由由よし、、、鎌鎌かま倉倉くらよりよりより公公く家家げへへへ申申もうささされれれたりたりたりけれけれければばば、、、さらばさらばさらば遣遣つかははわさささるるるべしべしべしとととててて平平へい大大だい納納な言言ごん時時とき忠忠ただののの卿卿きょう能能の登登とののの國國くに、、、藏藏くらののの頭頭かみ信信のぶ基基もと佐佐さ渡渡どののの國國くに、、、讚讚さぬ岐岐きののの中中ちゅう將將じょう時時とき實實ざね安安あ藝藝きののの國國くに、、、兵兵ひょう部部ぶののの少少しょう輔輔ふ正正まさ明明あき隱隱お岐岐きののの國國くに、、、二二に位位いののの僧僧そう都都ず全全ぜん眞眞しん阿阿あ波波わののの國國くに、、、法法ほっ勝勝しょう寺寺じののの執執しゅ行行ぎょう能能のう圓圓えん上上かず總總さののの國國くに、、、經經きょう誦誦じゅ坊坊ぼうののの阿阿あ闍闍じゃ梨梨り融融ゆう圓圓えん備備びん後後ごののの國國くに、、、中中ちゅう納納な言言ごんののの律律りつ師師し忠忠ちゅう快快かいははは武武む藏藏さしののの國國くにとととぞぞぞ聞聞きこえええししし。。。或或あるいははは西西さい海海かいののの波波なみののの上上うえ、、、或或あるいははは東東とう關關かんののの雲雲くものののはてはてはて、、、先先せん途途ど何何いず處處くををを期期ごせせせずずず、、、後後こう會會かいそのそのその期期ごををを辨辨わきまへへえずずず、、、別別わかれれれののの涙涙なみだをををおさへおさへおさえつゝつゝつつ、、、面面めん々々めんににに赴赴おもむかかかれれれけんけんけん心心こころののの中中うち、、、推推おししし量量はかららられれれてててあはれあはれあわれなりなりなり。。。
- 2中中なかにににももも平平へい大大だい納納な言言ごん時時とき忠忠ただののの卿卿きょうははは、、、建建けん禮禮れい門門もん院院いんのののわたらわたらわたらせせせ給給たまふふう吉吉よし田田だににに參參まいつつっててて申申もうささされれれけるけるけるははは、、、「「「御御おん暇暇いとま申申もうさささんんんががが爲爲ためににに、、、官官かん人人にんどもどもどもにににしばししばししばしののの暇暇いとま請請こうううててて參參まいりりりててて候候そうろう。。。時時とき忠忠ただこそこそこそ責責せめ重重おもうううしししててて、、、今日今日きょう既既すでににに配配はい所所しょへへへ赴赴おもむききき候候そうらへへえ。。。同同おなじじじ都都みやこののの中中うちににに候候そうらひひいててて、、、御御おんあたりあたりあたりののの御御おん事事ことどもどもどもをををももも、、、承承うけたまわらららまほしうまほしうまほしゅう存存ぞんじじじ候候そうらひひいしししににに、、、斯斯かかるかるかる身身みにににまかりまかりまかりなつなつなっててて候候そうらへへえばばば、、、今今いまよりよりより後後のちまたまたまたいかなるいかなるいかなる御御おんありさまありさまありさまどもどもどもにににてててかかか、、、渡渡わたらららせせせたまひたまひたまい候候そうらははわんんんずずずらんらんらんととと、、、思思おもひひい置置おききき參參まいらららせせせ候候そうろうにににこそこそこそ、、、更更さらににに行行ゆくくくべきべきべき空空そらももも覺覺おぼえええまじうまじうまじゅう候候そうらへへえ。。。」」」ととと、、、泣泣なく〳〵く〳〵くなく申申もうささされれれけれけれければばば、、、女女にょう院院いん、、、「「「げにげにげにももも昔昔むかしののの名名な殘殘ごりとてとてとてははは、、、そこそこそこ許許ばかりりりこそこそこそおはしおはしおわしつるつるつるににに、、、今今いまはははなさけなさけなさけをををかけかけかけ、、、訪訪とひひいとぶらふとぶらふとぶらう人人ひとももも誰誰たれかかかあるあるあるべきべきべき。。。」」」とととててて、、、御御おん涙涙なみだせきせきせきあへあへあえさせさせさせ給給たまははわずずず。。。そも〳〵そも〳〵そもそもこのこのこの時時とき忠忠ただののの卿卿きょうととと申申もうすすすははは、、、出出で羽羽はののの前前ぜん司司じ具具とも信信のぶががが孫孫まご、、、贈贈ぞう左左さ大大だい臣臣じん時時とき信信のぶ公公こうののの子子こなりなりなりけりけりけり。。。故故こ建建けん春春しゅん門門もん院院いんののの御御おん兄兄しょうと、、、高高たか倉倉くらののの上上じょう皇皇こうののの御御ご外外がい戚戚せき、、、またまたまた入入にゅう道道どう相相しょう國國こくののの北北きたののの方方かた八八はち條條じょうののの二二に位位い殿殿どのももも姉姉あねにににててておはしおはしおわしけれけれければばば、、、兼兼けん官官かん兼兼けん職職しょく思思おもひひいののの如如ごとくくく心心こころのののまゝまゝままなりなりなり。。。されされさればばば正正じょう二二に位位いののの大大だい納納な言言ごんにににももも程程ほどなくなくなく經經へ上上あがつつっててて、、、檢檢けん非非び違違い使使しののの別別べつ當當とうにににももも三三さん箇箇か度度どまでまでまでなりなりなり給給たまへへえりりり。。。このこのこの人人ひとののの廳廳ちょう務務むののの時時ときははは、、、諸諸しょ國國こくののの竊竊せつ盜盜とう、、、強強ごう盜盜とう、、、山山さん賊賊ぞく、、、海海かい賊賊ぞくなどなどなどをををばばば、、、やうやうようもももなくなくなく搦搦からめめめ取取とつつっててて、、、一一いち々々いちににに肱肱ひじののの本本もとよりよりより、、、ふつ〳〵ふつ〳〵ふつふつととと打打うち切切きり〳〵り〳〵りうちきり追追おつつっ放放はなたたたるるる。。。されされさればばば人人ひと、、、惡惡あく別別べつ當當とうとととぞぞぞ申申もうしししけるけるける。。。主主しゅ上上しょう竝竝ならびににに三三さん種種しゅののの神神じん器器ぎ、、、事事こと故故ゆえなうなうのう都都みやこへへへ返返かえししし入入いれれれ奉奉たてまつるるるべきべきべき由由よしののの院院いん宣宣ぜんののの御御おん使使つかい、、、御御お坪坪つぼののの召召めし次次つぎ花花はな方方かたががが顏顏かおににに、、、波波なみ形形がたととといふいふいう燒燒やき印印じるしをををせせせられられられけるけるけるももも、、、ひとへひとへひとえにににこのこのこの時時とき忠忠ただののの卿卿きょうのののしわざしわざしわざなりなりなり。。。
- 3故故こ建建けん春春しゅん門門もん院院いんののの御御おん名名な殘殘ごりにににててておはしおはしおわしけれけれければばば、、、法法ほう皇皇おうももも御御おんかたみかたみかたみににに御御ご覽覽らんぜぜぜまほしうまほしうまほしゅうははは思思おぼし召召めささされれれけれけれけれどもどもども、、、かやうかやうかようののの惡惡あく行行ぎょうににに依依よつつっててて御御おん憤憤いきどおりりり淺淺あさからからからずずず。。。判判ほう官官がんもももまたまたまた親親したしうしうしゅうならならなられれれたりたりたりけれけれければばば、、、やう〳〵やう〳〵ようようににに申申もうささされれれけれけれけれどもどもども、、、かなはかなはかなわずずずしししててて遂遂ついににに流流ながささされれれ給給たまひひいけりけりけり。。。子子し息息そくののの侍侍じ從從じゅう時時とき家家いえとととててて生生しょう年年ねん十十じゅう六六ろくににになりなりなり給給たまふふう。。。これこれこれははは流流る罪罪ざいにににははは洩洩もれれれててて、、、叔叔お父父じののの宰宰さい相相しょう時時とき光光みつ卿卿きょうのののもともともとにににおはしおはしおわしけるけるけるががが、、、昨日昨日きのうよりよりより大大だい納納な言言ごんののの宿宿しゅく所所しょにににおはしおはしおわしててて、、、母母ほう上上へ帥帥そつののの佐佐すけ殿殿どの共共ともににに大大だい納納な言言ごんののの袂袂たもとにににすがりすがりすがり、、、今今いまををを限限かぎりりりののの名名な殘殘ごりをををぞぞぞ惜惜おしましましまれれれけるけるける。。。大大だい納納な言言ごん、、、「「「終終ついにににすすすまじきまじきまじき別別わかれれれかかかははは。。。」」」ととと心心こころ強強づようううははは宣宣のたまへへえどもどもども、、、さこそさこそさこそははは心心こころ細細ぼそかりかりかりけめけめけめ。。。年年としたけたけたけ齡齡よわい傾傾かたぶいいいててて、、、さしもさしもさしもむつまじかりむつまじかりむつまじかりけるけるける妻妻つま子子こにににももも、、、みなみなみな別別わかれれれはてはてはてててて、、、住住すみみみなれなれなれししし都都みやこをををばばば、、、雲雲くも居居いのののよそよそよそににに顧顧かえりみみみててて、、、古古いにしえははは名名なにににのみのみのみ聞聞ききききししし越越こし路路じののの旅旅たびににに赴赴おもむいいいててて、、、はる〴〵はる〴〵はるばるととと下下くだりりり給給たまふふうににに、、、かれかれかれははは志志し賀賀が唐唐から崎崎さき、、、これこれこれははは眞眞ま野野のののの入入いり江江え、、、堅堅かた田田だののの浦浦うらととと申申もうしししけれけれければばば、、、大大だい納納な言言ごん、、、泣泣なくくく泣泣なくくく詠詠えいじじじ給給たまひひいけりけりけり。。。
- 4歸歸かえりりり來來こむむんことことことはははかたかたかた田田たににに引引ひくくく網網あみののの目目めにににもももたまらたまらたまらぬぬぬわがわがわが涙涙なみだかなかなかな
- 5昨日昨日きのうははは西西さい海海かいののの波波なみののの上上うえににに漂漂ただよひひいててて、、、怨怨おん憎憎ぞう會會え苦苦くののの怨怨うらみみみををを扁扁へん舟舟しゅうののの中中うちににに積積つみみみ、、、今日今日きょうははは北北ほっ國國こくののの雪雪ゆきののの下下したににに埋埋うずもれもれもれててて、、、愛愛あい別別べつ離離り苦苦くののの悲悲かなしみしみしみををを故故こ鄕鄕きょうののの雲雲くもににに重重かさねねねたりたりたり。。。
現代語訳
九月二十三日、平家の残党で都の中にとどまっている者を、みな諸国へ流すべきことを、鎌倉から朝廷へ申し入れられたので、それでは流そうということになって、平大納言時忠卿は能登国、蔵頭信基は佐渡国、讃岐中将時実は安芸国、兵部少輔正明は隠岐国、二位僧都全真は阿波国、法勝寺執行能円は上総国、経誦坊阿闍梨融円は備後国、中納言律師忠快は武蔵国と聞こえた。あるいは西海の波の上、あるいは東国の雲の果てと、行く先もどこと定まらず、再び会える時もわからず、別れの涙をおさえながら、それぞれ赴かれた心の中が推し量られて哀れである。
中でも平大納言時忠卿は、建礼門院のおいでになる吉田に参って申されるには、「お別れを申し上げるために、役人たちにしばらくの暇を願って参りました。時忠こそ罪が重くて、今日いよいよ配所へ赴きます。同じ都の中にいて、お身の回りのことなどもお聞きしたいと思っておりましたのに、このような身になってしまいましたので、これから先またどのようなご様子でおいでになるのだろうと、案じ申すにつけて、どこへ行くのかさえわからない心地がいたします」と泣く泣く申されたので、女院は「本当に昔の名残としては、あなただけがいてくださったのに、今は情けをかけて訪ねてくれる人も誰がいるでしょう」といって、涙をおさえきれずにおられた。そもそもこの時忠卿という人は、出羽前司具信の孫、贈左大臣時信公の子である。故建春門院の兄で、高倉上皇の御外戚であり、また入道相国の北の方八条二位殿も姉でいらしたので、官職を兼ねることも思いのままであった。それで正二位の大納言にもほどなく昇り、検非違使別当にも三度までなられた。この人が庁の長官であったときは、諸国の窃盗・強盗・山賊・海賊などを容赦なく捕らえて、一人ずつ肘のところからふつふつと打ち切っては追い放った。それで人は悪別当と申した。主上ならびに三種の神器を無事に都へお返し申すようにとの院宣の御使い、御坪の召次花方の顔に「波方」という焼印を押されたのも、ひとえにこの時忠卿のしわざである。
故建春門院の御名残の方なので、法皇も形見としてお会いになりたくは思われたが、このような悪行のためにお怒りは浅くない。判官もまた婿として親しくなっておられたので、いろいろととりなし申されたが、かなわずに、ついに流されてしまわれた。子息の侍従時家は十六歳になられた。この人は流罪からはもれて、叔父の宰相時光卿のもとにおられたが、昨日から大納言の宿所に来ておられて、母上の帥佐殿とともに大納言の袂にすがり、今を限りの名残を惜しまれた。大納言は「最後には必ず別れなければならないものではないか」と心強くはおっしゃったが、さぞ心細かったことであろう。年をとって齢も傾き、あれほど睦まじかった妻子ともみな別れて、住み慣れた都を雲のかなたに振り返り、昔は名にだけ聞いていた越路の旅に赴いて、はるばると下っていかれるときに、あれは志賀・唐崎、これは真野の入江、堅田の浦と人が申したので、大納言は泣く泣く詠まれた。
(都へ帰ってくることは難しい、その堅田の浦に引く網の目にもとどまらずこぼれ落ちる、わが涙であることよ)
昨日は西海の波の上に漂って、怨憎会苦の恨みを小舟の中に積み重ね、今日は北国の雪の下に埋もれて、愛別離苦の悲しみを故郷の雲に重ねるのである。
意訳
壇の浦で生け捕りとなった平家の人々の流罪を語る章段である。中でも時忠は、平家の栄華を支えた辣腕の公卿として、検非違使別当としての苛烈さや花方への焼印など、悪行も語られる。
しかし、建礼門院に別れを告げ、妻子と別れて北国へ下る老いた時忠の姿は哀れであり、「帰り来む」の歌には二度と都へ戻れない悲しみがこもる。怨憎会苦と愛別離苦という対句で結ばれ、敗者の運命の苦しさが強調されている。
語釈・文法注
文法
- 「先途何處を期せず」
- 行く先がどこになるとも定まらず。
- 「責重うして」
- 罪が重くて。
- 「御兄」
- 底本のふりがなは「おんせうと」。
- 「廳務」
- 検非違使庁の長官としての職務。
- 「やうもなく」
- 容赦なく。
- 「波形といふ燒印」
- 巻第十「請文の事」で、時忠が花方の顔に「波方」の焼印を押したこと。
- 「終にすまじき別れかは」
- 最後には必ずある別れではないか。
- 「怨憎會苦」「愛別離苦」
- 仏教でいう八苦のうちの二つ。憎い者と会う苦しみと、愛する者と別れる苦しみ。
和歌
歸り來むことはかた田に引く網の目にもたまらぬわが涙かな
- 詠者
- 平時忠
- 状況
- 配所の能登へ下る途中、琵琶湖の堅田の浦で詠んだ歌。
修辞
- かた田
- 地名「堅田」に「難し」を掛ける。
- 網の目
- 「引く網」「目」は縁語。涙があふれて網の目からこぼれるさまに重ねる。
解説
平時忠は文治元年(1185)九月に能登国へ配流され、文治五年に配所で没した。石川県輪島市の時国家は時忠の子孫と伝え、珠洲市には時忠の墓とされる塚がある。「平家にあらずんば人にあらず」の言葉は、巻第一で時忠のものとして語られている。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、826–828頁(コマ442–443)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日