平家物語 巻第十一
逆櫓の事
元暦二年正月、義経は後白河法皇に、平家を滅ぼすまでは都に帰らないと奏上し、東国の侍たちにも覚悟を求めた。八島の平家は東国・鎮西からの攻撃の噂に怯え、知盛は都で戦い果てるべきだったと悔やむ。二月、義経は摂津の渡辺・福島で、範頼は神崎で兵船をそろえた。出航を前に梶原景時が船に逆櫓をつけようと提案すると、義経は門出が悪い、退く用意など無用と退け、梶原は義経を猪武者とそしった。十六日、暴風を順風だとして義経は出航を強い、従わぬ水主を射殺すと脅して、わずか五艘で夜の海を渡り、三日の行程を三時ほどで阿波に着いた。
- 1元元げん暦暦りやく二二に年年ねん正正しょう月月がつ十十とお日日かののの日日ひ、、、九九く郎郎ろう大大たい夫夫ふののの判判ほう官官がん義義よし經經つね院院いん參參さんしししててて、、、大大おお藏藏くら卿卿きょう泰泰やす經經つねののの朝朝あ臣臣そんををを以以もっててて奏奏そう聞聞もんせせせられられられけるけるけるははは、、、「「「平平へい家家けははは神神しん明明めいにににももも放放はなたたたれれれ奉奉たてまつりりり、、、君君きみにににももも捨捨すてててられられられ參參まいらららせせせててて、、、帝帝てい都都とををを出出いでででててて波波なみののの上上うえににに漾漾ただよふふう落落おち人人うどとととなれなれなれりりり。。。然然しかるるるをををこのこのこの三三さん箇箇か年年ねんががが閒閒あいだ攻攻せめめめ落落おとさささずずずしししててて、、、多多おおくくくののの國國くに々々ぐにをををふさげふさげふさげられられられぬるぬるぬる事事ことこそこそこそ口口くち惜惜おしうしうしゅう候候そうらへへえ。。。今今こん度度ど義義よし經經つねにににおいおいおいてててははは、、、鬼鬼き界界かい、、、高高こう麗麗らい、、、契契けい丹丹たん、、、雲雲くものののはてはてはて、、、海海うみのののはてはてはてまでまでまでももも、、、平平へい家家けををを亡亡ほろぼさぼさぼさざらざらざらんんんかぎりかぎりかぎりははは、、、王王おう城城じょうへへへ歸歸かえるるるべからべからべからざるざるざる由由よし、、、奏奏そう聞聞もんせせせられられられたりたりたりけれけれければばば、、、法法ほう皇皇おう大大おおきききににに御御ぎょ感感かんあつあつあっててて、、、相相あい構構かまへへえててて夜夜よををを日日ひににについついついででで、、、勝勝しょう負負ぶををを決決けつすすすべきべきべき由由よし仰仰おおせせせ下下くださささるるる。。。判判ほう官官がん宿宿しゅく處處しょににに歸歸かえつつっててて、、、東東とう國國ごくののの侍侍さぶらいどもどもどもににに向向むかつつっててて宣宣のたまひひいけるけるけるははは、、、「「「今今こん度度ど義義よし經經つねこそこそこそ院院いん宣宣ぜんををを承承うけたまわりりり、、、鎌鎌かま倉倉くら殿殿どのののの御御おん代代だい官官かんとととしししててて、、、平平へい家家け追追つい討討とうののの爲爲ためににに西西さい國國こくへへへ發發はっ向向こうすすすなれなれなれ。。。陸陸くがははは駒駒こまののの蹄蹄ひずめののの通通かよははわんんんかぎりかぎりかぎり、、、海海うみははは櫓櫓ろ櫂櫂かいのののたたたたたたんんん處處ところまでまでまで攻攻せめめめ行行ゆくくくべしべしべし。。。それそれそれににに少少すこしししももも仔仔し細細さいををを存存ぞんぜぜぜんんん人人ひと々々びとははは、、、これこれこれよりよりよりとう〳〵とう〳〵とうとう鎌鎌かま倉倉くらへへへ下下くだるるるべしべしべし。。。」」」とととぞぞぞのたまひのたまひのたまいけるけるける。。。
- 2さるさるさる程程ほどににに八八や島島しまにににははは、、、隙隙ひま行行ゆくくく駒駒こまののの足足あし早早はやくくくしししててて、、、正正しょう月月がつもももたちたちたち、、、二二に月月がつにににもももなりなりなりぬぬぬ。。。春春はるののの草草くさ暮暮くれれれててて、、、秋秋あきののの風風かぜににに驚驚おどろききき、、、秋秋あきののの風風かぜやんやんやんででで、、、またまたまた春春はるののの草草くさにににもももなれなれなれりりり。。。送送おくりりり迎迎むかへへえててて既既すでににに三三み年年とせににになりなりなりにににけりけりけり。。。平平へい家家け、、、讚讚さぬ岐岐きののの八八や島島しまへへへ渡渡わたりりり給給たまひひいててて後後のちももも、、、東東とう國國ごくよりよりより新新あら手手てののの軍軍ぐん兵兵びょう數數すう萬萬まん騎騎ぎ、、、都都みやこににに著著ついいいててて攻攻せめめめ下下くだるるるとととももも聞聞きこゆゆゆ。。。またまたまた鎭鎭ちん西西ぜいよりよりより臼臼うす杵杵き、、、戸戸へ次次つぎ、、、松松まつ浦浦ら黨黨とう同同どう心心しんしししててて、、、おしおしおし渡渡わたるるるとととももも聞聞きこえええけりけりけり。。。かれかれかれををを聞聞ききききこれこれこれををを聞聞きくくくにににももも、、、たゞたゞただ耳耳みみををを驚驚おどろかしかしかし、、、肝肝きも魂魂たましいををを消消けすすすよりよりより外外ほかののの事事ことぞぞぞなきなきなき。。。女女にょう院院いん、、、北北きたののの政政まん所所どころ、、、二二に位位い殿殿どの以以い下下げののの女女にょう房房ぼう達達たちさしさしさしつどひつどひつどい給給たまひひいててて、、、今今こん度度どわがわがわが方方かたざまざまざまににに、、、いかなるいかなるいかなる憂憂うききき事事ことをををかかか聞聞きききき、、、いかなるいかなるいかなる憂憂うききき目目めをををももも見見みんんんずずずらんらんらんととと、、、嘆嘆なげきききあひあひあい悲悲かなしみしみしみあはあはあわれれれけりけりけり。。。中中なかにににももも新新しん中中ちゅう納納な言言ごん知知とも盛盛もりののの卿卿きょうののののたまひのたまひのたまいけるけるけるははは、、、「「「東東とう國國ごく、、、北北ほっ國國こくののの兇兇きょう徒徒と等等らももも、、、隨隨ずい分分ぶん重重じゅう恩恩おんををを蒙蒙こうぶつつったりたりたりしかしかしかどもどもども、、、忽忽たちまちちちににに恩恩おんををを忘忘わすれれれ契契ちぎりりりををを變變へんじじじててて、、、賴賴より朝朝とも、、、義義よし仲仲なか等等らににに隨隨したがひひいききき。。。ましてましてまして西西さい國國こくとてとてとてももも、、、さこそさこそさこそはははあらあらあらんんんずずずらめらめらめととと思思おもひひいしかしかしかばばば、、、たゞたゞただ都都みやこののの内内うちにににててていかにいかにいかにもももならならならせせせ給給たまへへえととと、、、さしもさしもさしも申申もうしししつるつるつるものものものををを、、、わがわがわが身身み一一ひとつつつののの事事ことならならならねねねばばば、、、心心こころ弱弱よおうううあこがれあこがれあこがれ出出いでででててて、、、今日今日きょうははは斯斯かかるかるかる憂憂うききき目目めををを見見みるるる口口くち惜惜おしししさささよよよ。。。」」」とととぞぞぞのたまひのたまひのたまいけるけるける。。。まことまことまことににに理理ことわりととと覺覺おぼえええてててあはれあはれあわれなりなりなり。。。
- 3さるさるさる程程ほどににに二二に月月がつ三三みつ日日かののの日日ひ、、、九九く郎郎ろう大大たい夫夫ふののの判判ほう官官がん義義よし經經つね都都みやこををを立立たつつっててて、、、攝攝つ津津のののの國國くに渡渡わた邊邊なべ、、、福福ふく島島しま兩兩りょう所所しょにににててて船船ふな揃揃ぞろへへえししし、、、八八や島島しまへへへ既既すでににに寄寄よせせせんんんとととすすす。。。兄兄あにののの三三み河河かわののの守守かみ範範のり賴賴よりももも同同どう日日じつににに都都みやこををを立立たつつっててて、、、これこれこれももも攝攝つ津津のののの國國くに神神かん崎崎ざきにににててて兵兵ひょう船船せん揃揃そろへへえててて、、、山山せん陽陽よう道道どうへへへ赴赴おもむかかかんんんとととすすす。。。同同おなじきじきじき十十とお日日かののの日日ひ、、、伊伊い勢勢せ、、、石石いわ淸淸し水水みずへへへ官官かん幣幣ぺい使使しををを立立たてててらるらるらる。。。主主しゅ上上しょう竝竝ならびににに三三さん種種しゅののの神神じん器器ぎ、、、事事こと故故ゆえなうなうのう都都みやこへへへ返返かえししし入入いれれれ奉奉たてまつるるるべきべきべき由由よし、、、神神じん祇祇ぎ官官かんののの官官かん人人にん、、、もろもろもろもろもろもろののの社社しゃ司司し、、、本本ほん宮宮ぐう、、、本本ほん社社じゃにににててて祈祈き請請せいすすすべきべきべき旨旨むね仰仰おおせせせ下下くださささるるる。。。同同おなじきじきじき十十じゅう六六ろく日日にち、、、渡渡わた邊邊なべ、、、福福ふく島島しま兩兩りょう所所しょにににててて揃揃そろへへえたりたりたりけるけるける船船ふねどもどもどもののの、、、纜纜ともずな既既すでににに解解とかかかんんんとととすすす。。。折折おりふしふしふし北北ほく風風ふう木木きををを折折おつつっててて、、、烈烈はげしうしうしゅう吹吹ふきききたりたりたりけれけれければばば、、、船船ふねどもどもども皆皆みなうちうちうち損損そんぜぜぜられられられててて出出いだすすすににに及及およばばばずずず。。。修修しゅ理理りののの爲爲ためにににそのそのその日日ひははは止止とどまりまりまりぬぬぬ。。。
- 4さるさるさる程程ほどににに渡渡わた邊邊なべにににははは東東とう國國ごくののの大大だい名名みょう小小しょう名名みょう寄寄よりりりあひあひあいててて、、、「「「そも〳〵そも〳〵そもそもわれわれわれららら、、、船船ふな軍軍いくさのののさまさまさまははは未未いまだだだ調調ちょう練練れんせせせずずず。。。いかゞいかゞいかがせせせんんん。。。」」」ととと評評ひょう定定じょうすすす。。。梶梶かじ原原はら進進すすみみみ出出いでででててて、、、「「「今今こん度度どののの船船ふねにににははは逆逆さか櫓櫓ろををを立立たててて候候そうらははわばやばやばや。。。」」」ととと申申もうすすす。。。判判ほう官官がん、、、「「「逆逆さか櫓櫓ろとととははは何何なにぞぞぞ。。。」」」梶梶かじ原原はら、、、「「「馬馬むまははは驅驅かけけけんんんととと思思おもへへえばばば驅驅かけけけ、、、引引ひかかかんんんととと思思おもへへえばばば引引ひききき、、、弓弓ゆん手手でへへへももも馬馬め手手てへへへももも廻廻まわしししやすうやすうやすう候候そうろうががが、、、船船ふねはははさやうさやうさようののの時時とき、、、きつきつきっとととおしおしおし廻廻まわすすすががが大大だい事事じででで候候そうらへへえばばば、、、艫艫とも舳舳へににに櫓櫓ろををを立立たてててちがへちがへちがえ、、、脇脇わき楫楫かじををを入入いれれれててて、、、どなたどなたどなたへへへももも廻廻まわしししやすいやすいやすいやうやうようにににししし候候そうらははわばやばやばや。。。」」」ととと申申もうしししけれけれければばば、、、判判ほう官官がん、、、「「「まづまづまず門門かど出出でのののあしあしあしさささよよよ。。。軍軍いくさにににははは一一ひと引引ひきききももも引引ひかかかじじじととと思思おもふふうだにだにだに、、、あはひあはひあわい惡惡あしけれしけれしければばば引引ひくくくははは常常つねののの習習ならひひいなりなりなり。。。ましてましてましてさやうさやうさようににに逃逃にげげげ設設もうけけけせせせんんんににに、、、なじかはなじかはなじかわ能能よかるかるかるべきべきべき。。。殿殿とのばらばらばらののの船船ふねにににははは、、、逆逆さか櫓櫓ろをををもももかへさまかへさまかえさま櫓櫓ろをををももも、、、百百ひゃく挺挺ちょう千千せん挺挺ちょうももも立立たててて給給たまへへえ。。。義義よし經經つねはははたゞたゞただもともともとののの櫓櫓ろででで候候そうらははわんんん。。。」」」とととのたまへのたまへのたまえばばば、、、梶梶かじ原原はらかさねかさねかさねててて、、、「「「よきよきよき大大たい將將しょう軍軍ぐんととと申申もうすすすははは、、、驅驅かくくくべきべきべき所所ところをををももも驅驅かけけけ、、、引引ひくくくべきべきべき所所ところをををももも引引ひききき、、、身身みををを全全まったうううしししててて敵敵かたきををを亡亡ほろぼすぼすぼすををを以以もっててて、、、よきよきよき大大たい將將しょうとととはははしししたるたるたる候候そうろう。。。さやうさやうさようににに片片かた趣趣おもむきなるなるなるをををばばば猪猪いのしし武武む者者しゃとととててて、、、好好よきききにににはははせせせずずず。。。」」」ととと申申もうすすす。。。判判ほう官官がん、、、「「「猪猪いのしし、、、鹿鹿かのししははは知知しらららずずず、、、軍軍いくさはははたゞたゞただ平平ひら攻攻ぜめめめににに攻攻せめめめててて、、、勝勝かちちちたるたるたるぞぞぞ心心ここちちちはははよきよきよき。。。」」」ととと宣宣のたまへへえばばば、、、東東とう國國ごくののの大大だい名名みょう、、、小小しょう名名みょう、、、梶梶かじ原原はらににに畏畏おそれれれててて、、、高高たかくくくははは笑笑わらははわねねねどもどもども、、、目目めひきひきいき鼻鼻はなひきひきいき、、、さゝめきさゝめきささめきあへあへあえりりり。。。
- 5そのそのその日日ひ、、、判判ほう官官がんととと梶梶かじ原原はらととと既既すでににに同同どう士士し軍軍いくさせせせんんんとととすすす。。。されどもされどもされども軍軍いくさはははなかりなかりなかりけりけりけり。。。判判ほう官官がん、、、「「「船船ふねどもどもどもののの修修しゅ理理りしししててて新新あたらしうしうしゅうなつなつなったるたるたるににに、、、各各おのおの一一いっ種種しゅ一一いっ瓶瓶ぺいしししててて祝祝いわひひい給給たまへへえ、、、殿殿とのばらばらばら。。。」」」とととててて、、、いとなむいとなむいとなむ體體ていにににてててもももなしなしなし、、、船船ふねににに兵兵ひょう粮粮ろう米米まい積積つみみみ、、、物物もの具具のぐ入入いれれれ、、、馬馬むまどもどもども立立たてててさせさせさせ、、、「「「船船ふね疾疾とううう仕仕つかまつれれれ。。。」」」とととのたまへのたまへのたまえばばば、、、水水すい主主しゅ、、、楫楫かん取取どりどもどもども、、、「「「これこれこれははは順順じゅん風風ぷうにににてててははは候候そうらへへえどもどもども、、、普普ふ通通つうにににははは少少すこししし過過すぎぎぎててて候候そうろう。。。沖沖おきはははさぞさぞさぞ吹吹ふいいいててて候候そうろうらんらんらん。。。」」」ととと申申もうしししけれけれければばば、、、判判ほう官官がん大大おおきききににに怒怒いかつつっててて、、、「「「海海かい上上しょうににに出出いででで浮浮うこうううだるだるだる時時とき、、、風風かぜこはけれこはけれこわければばばとてとてとて止止とどまるまるまるべきべきべきかかか。。。野野の山山やまののの末末すえにににててて死死しににに、、、海海うみ河河かわににに溺溺おぼれれれててて失失うするするするももも、、、皆皆みなこれこれこれ前前ぜん世世ぜののの宿宿しゅく業業ごうなりなりなり。。。向向むかい風風かぜににに渡渡わたらららんんんととといはいはいわばばばこそこそこそ義義よし經經つねががが僻僻ひが事事ごとならならならめめめ、、、順順じゅん風風ぷうなるなるなるががが普普ふ通通つうににに少少すこししし過過すぎぎぎたれたれたればばばとてとてとて、、、これこれこれ程程ほどののの御御おん大大だい事事じににに船船ふね仕仕つかまつらららじじじとととははは、、、いかでいかでいかでかかか申申もうすすすぞぞぞ。。。船船ふねとうとうとう仕仕つかまつらららずずずばばば、、、しやつしやつしゃつばらばらばら一一いち々々いちににに射射い殺殺ころせせせ、、、者者もの共共ども。。。」」」とととぞぞぞ下下げ知知じししし給給たまひひいけるけるける。。。「「「承承うけたまわつつっててて候候そうろう。。。」」」とととててて、、、伊伊い勢勢せののの三三さぶ郎郎ろう義義よし盛盛もり、、、奧奧おう州州しゅうののの佐佐さ藤藤とう三三さぶ郎郎ろう繼繼つぎ信信のぶ、、、同同おなじきじきじき四四し郎郎ろう兵兵びょう衞衞え忠忠ただ信信のぶ、、、江江え田田だののの源源げん三三ぞう、、、熊熊くま井井いののの太太た郎郎ろう、、、武武む藏藏さし坊坊ぼう辨辨べん慶慶けいなどなどなどいふいふいう一一いち人人にん當當とう千千ぜんののの兵兵つわもの共共ども、、、「「「御御ご諚諚じょうででであるあるあるぞぞぞ、、、船船ふねとうとうとう仕仕つかまつれれれ。。。仕仕つかまつらららずずずばばば、、、おのれおのれおのればらばらばら一一いち々々いちににに射射い殺殺ころさささんんん。。。」」」とととててて、、、片片かた手手て矢矢やはげはげはげててて馳馳はせせせ廻廻まわるるる閒閒あいだ、、、水水すい主主しゅ、、、楫楫かん取取どりどもどもども、、、「「「こゝこゝここにににててて射射い殺殺ころささされれれんんんももも同同おなじじじことことこと、、、風風かぜこはくこはくこわくばばば沖沖おきにににててて馳馳はせせせ死死じにににももも死死しねねねややや、、、者者ものどもどもども。。。」」」とととててて二二に百百ひゃく餘餘よ艘艘そうががが中中なかよりよりよりももも、、、たゞたゞただ五五ご艘艘そう出出いでででてててぞぞぞ走走はしりりりけるけるける。。。
- 6五五ご艘艘そうののの船船ふねととと申申もうすすすははは、、、まづまづまず判判ほう官官がんののの船船ふね、、、次次つぎににに田田た代代しろののの冠冠かん者者じゃののの船船ふね、、、後後ご藤藤とう兵兵びょう衞衞え父父ふ子子し、、、金金かね子子こ兄兄きょう弟弟だい、、、淀淀よどののの江江ごう内内ない忠忠ただ俊俊としとととててて、、、船船ふな奉奉ぶ行行ぎょうののの乘乘のつつったるたるたる船船ふねなりなりなりけりけりけり。。。殘殘のこりりりののの船船ふねははは梶梶かじ原原はらににに恐恐おそるゝるゝるるかかか、、、風風かぜにににおづるおづるおずるかかかしししててて出出いでででざりざりざりけりけりけり。。。判判ほう官官がん、、、「「「人人ひとののの出出いでででねねねばばばとてとてとて止止とどまるまるまるべきべきべきにににあらあらあらずずず。。。常常つねののの時時ときははは敵敵かたきももも恐恐おそれれれててて用用よう心心じんすすすらんらんらん。。。斯斯かかるかるかる大大おお風風かぜ大大おお波波なみにににははは思思おもひひいもももよらよらよらぬぬぬ所所ところへへへ寄寄よせせせてててこそこそこそ、、、思思おもふふう敵敵かたきをををばばば討討うたたたんんんずれずれずれ。。。」」」とととぞぞぞのたまひのたまひのたまいけるけるける。。。判判ほう官官がん、、、「「「各各おのおのののの船船ふねににに篝篝かがりななな點點といいいそそそ。。。火火ひ數數かず多多おおううう見見みえええばばば、、、敵敵かたきももも恐恐おそれれれててて用用よう心心じんしししてててんんんずずずぞぞぞ。。。義義よし經經つねががが船船ふねををを本本ほん船船ぶねとととしししててて、、、艫艫とも舳舳へののの篝篝かがりをををまもれまもれまもれ。。。」」」とととててて、、、夜夜よもすがらもすがらもすがら渡渡わたるるる程程ほどににに、、、三三みつ日日かににに渡渡わたるるる所所ところをををたゞたゞただ三三み時時ときばかりばかりばかりにににぞぞぞ走走はしりりりけるけるける。。。二二に月月がつ十十じゅう六六ろく日日にちののの丑丑うしののの刻刻こくににに攝攝つ津津のののの國國くに渡渡わた邊邊なべ、、、福福ふく島島しまををを出出いでででててて、、、あくるあくるあくる卯卯うののの刻刻こくにににははは阿阿あ波波わののの地地ちへへへこそこそこそ吹吹ふきききつけつけつけけれけれけれ。。。
現代語訳
元暦二年正月十日、九郎大夫判官義経は院の御所に参って、大蔵卿泰経朝臣を通じて奏上されるには、「平家は神明にも見放され申し、君にも見捨てられ申して、帝都を出て波の上を漂う落人となりました。それなのにこの三年の間攻め落とさずに、多くの国々をふさがれていることが無念でございます。今度義経は、鬼界・高麗・契丹、雲の果て、海の果てまでも、平家を滅ぼさないかぎりは王城へ帰らないつもりです」と奏上されたので、法皇はたいそうお喜びになって、「必ず夜を日についで勝負を決せよ」と仰せ下された。判官は宿所に帰って、東国の侍たちに向かっておっしゃるには、「今度義経は院宣を承り、鎌倉殿の御代官として平家追討のために西国へ出発する。陸は馬の蹄の通うかぎり、海は櫓や櫂の立つ所まで攻めて行くつもりだ。それに少しでも異存のある人々は、ここから早く早く鎌倉へ下るがよい」とおっしゃった。
さて八島では、月日の過ぎるのも早く、正月も過ぎ二月にもなった。春の草が枯れて秋の風に驚き、秋の風がやんでまた春の草となった。送り迎えてもう三年になった。平家が讃岐の八島へお渡りになってからも、東国から新手の軍兵数万騎が都に着いて攻め下るとも聞こえ、また鎮西から臼杵・戸次・松浦党が心を合わせて押し渡ってくるとも聞こえた。あれを聞きこれを聞くにつけても、ただ耳を驚かし肝をつぶすばかりであった。女院、北の政所、二位殿以下の女房たちは集まられて、「今度わが方に、どんなつらいことを聞き、どんなつらい目を見るのだろうか」と嘆き悲しみあわれた。中でも新中納言知盛卿がおっしゃるには、「東国・北国の凶徒たちも、十分に重い恩を受けていたのに、たちまち恩を忘れ、契りを変えて、頼朝や義仲たちに従った。まして西国もきっとそうだろうと思ったので、ただ都の中でどうにでもおなりなさいと、あれほど申したのに、わが身一つのことではないので、心弱くさまよい出て、今日このようなつらい目を見る無念さよ」とおっしゃった。まことにもっともだと思われて哀れである。
さて二月三日、九郎大夫判官義経は都を立って、摂津国渡辺・福島の二か所で船をそろえ、八島へ寄せようとした。兄の三河守範頼も同じ日に都を立って、これも摂津国神崎で兵船をそろえ、山陽道へ向かおうとした。同じく十日、伊勢・石清水へ官幣使を立てられた。主上ならびに三種の神器が無事に都へ帰られるよう、神祇官の官人やもろもろの社司が、本宮・本社で祈請するよう仰せ下された。同じく十六日、渡辺・福島の二か所でそろえた船の纜をいよいよ解こうとした。おりから北風が木を折るほど激しく吹いたので、船はみな損じて出すことができない。修理のためにその日はとどまった。
さて渡辺では東国の大名・小名が集まって、「そもそもわれらは船戦のしかたにまだ慣れていない。どうしたらよいか」と評定した。梶原(景時)が進み出て、「今度の船には逆櫓を立てたいものです」と申した。判官が「逆櫓とは何か」。梶原は、「馬は駆けようと思えば駆け、引こうと思えば引き、左へも右へも回しやすうございますが、船はそういうとき、すばやく押し回すのが大事でございますから、艫と舳に櫓を互い違いに立て、脇楫を入れて、どちらへも回しやすいようにしたいのです」と申したので、判官は、「まず門出が悪いな。戦には一歩も引くまいと思っていてさえ、形勢が悪ければ引くのが常のならいだ。まして初めからそのように逃げる用意をしていて、どうしてよいことがあろう。殿ばらの船には、逆櫓でも返様櫓でも、百挺千挺も立てなさい。義経はただもとの櫓でいこう」とおっしゃると、梶原は重ねて、「よい大将軍というものは、駆けるべき所では駆け、引くべき所では引いて、身を全うして敵を滅ぼすのをもって、よい大将とするのです。そのように一方にばかり向かうのを猪武者といって、よいこととはしません」と申した。判官は、「猪や鹿は知らない。戦はただひたすら攻めに攻めて勝つのが気持ちがよい」とおっしゃったので、東国の大名・小名は梶原をはばかって、声高には笑わないが、目くばせし鼻をうごめかして、ささやきあった。
その日、判官と梶原とはすんでのところで同士討ちをしようとした。けれども戦にはならなかった。判官は、「船の修理をして新しくなったのだから、めいめい酒肴をととのえて祝いなさい、殿ばら」といって、祝いの支度をするように見せかけて、船に兵糧米を積み、武具を入れ、馬を乗せさせ、「早く船を出せ」とおっしゃると、水主や楫取たちは、「これは順風ではございますが、ふだんより少し強すぎます。沖はさぞ吹いておりましょう」と申したので、判官はたいそう怒って、「海上に出て浮かんでいるときに風が強いからといって止まるものか。野山の果てで死に、海や川で溺れて死ぬのも、みな前世の宿業だ。向かい風に渡ろうと言うのなら義経の間違いだろうが、順風がふだんより少し強いからといって、これほどの御大事に船を出さないとはどういうことだ。船を早く出さないなら、あいつらを一人残らず射殺せ、者ども」と命じられた。「承知しました」といって、伊勢三郎義盛、奥州の佐藤三郎継信、同じく四郎兵衛忠信、江田源三、熊井太郎、武蔵坊弁慶などという一人当千の兵たちが、「御命令だぞ。早く船を出せ。出さないなら、おまえらを一人残らず射殺すぞ」といって、矢をつがえて馳せ回ったので、水主や楫取たちは、「ここで射殺されるのも同じこと。風が強いなら沖で死ぬまで走らせてやれ、者ども」といって、二百余艘の中から、ただ五艘が出て走った。
五艘の船というのは、まず判官の船、次に田代冠者の船、後藤兵衛父子、金子兄弟、淀の江内忠俊という船奉行の乗った船であった。残りの船は梶原を恐れたのか、風におじけづいたのか、出なかった。判官は、「人が出ないからといって止まるべきではない。ふだんのときは敵も警戒して用心しているだろう。このような大風大波の中で思いもよらない所へ寄せてこそ、思う敵を討つことができるのだ」とおっしゃった。判官は、「めいめいの船に篝火をともすな。火の数が多く見えれば、敵も恐れて用心してしまうぞ。義経の船を本船として、艫と舳の篝火を見失うな」といって、夜通し渡ったところ、三日かかって渡る所をわずか三時ほどで走った。二月十六日の丑の刻に摂津国渡辺・福島を出て、翌朝の卯の刻には阿波の地へ吹きつけられた。
意訳
屋島の合戦に向かう義経の出陣を描く巻第十一の冒頭である。平家を滅ぼすまで都に帰らないという義経の決意と、八島で東国・鎮西からの攻撃に怯える平家の人々、都を捨てたことを悔やむ知盛の嘆きとが対照的に描かれる。
逆櫓をめぐる義経と梶原の論争は、ひたすら攻めることを信条とする義経と、退くことも考える梶原の兵法の違いを鮮やかに示し、のちに梶原が頼朝に義経を讒言するきっかけとなる。暴風の夜に五艘で出航し、三日の行程を三時で渡るという奇策は、義経の天才的な用兵と大胆さを印象づける。
語釈・文法注
文法
- 「奏聞せられけるは、「平家は…歸るべからざる由」
- 底本は義経の奏上の言葉を閉じる「」」を刷らず、地の文に続ける。
- 「ふさげられぬる」
- (平家に)ふさがれてしまった。
- 「夜を日についで」
- 昼夜の別なく。
- 「櫓櫂のたたん處」
- 櫓や櫂が立つ(使える)所。
- 「隙行く駒」
- 月日が過ぎ去る速さのたとえ。『荘子』の「白駒の隙を過ぐるが如し」による。
- 「逆櫓」
- 船の舳先にも櫓をつけて、前後どちらへも進めるようにしたもの。
- 「かへさま櫓」
- 逆向きにつけた櫓。
- 「あはひ惡しければ」
- 形勢が悪ければ。
- 「よき大將とはしたる候」
- 底本の本文。「よき大将とはしたる(ことにて)候」の意。
- 「猪武者」
- 前後を顧みず、猪のように突進するだけの武者。
- 「一種一瓶」
- 一品の肴と一瓶の酒。ささやかな酒宴。
- 「しやつばら」
- 「しや」(あいつ)に複数の「ばら」がついた卑しめた言い方。
- 「篝な點いそ」
- 篝火をともすな。「な…そ」は禁止。
- 「用心してんずぞ」
- 底本の本文。「用心しつらんずぞ」(用心してしまうだろうぞ)の意。
解説
義経は元暦二年(1185)二月十八日に摂津の渡辺から出航し、阿波の勝浦に上陸して、陸路で屋島へ向かった(『吾妻鏡』)。逆櫓をめぐる梶原との論争は『平家物語』にのみ見える話で、のちに梶原が頼朝に義経を讒言する伏線として語られている。大阪市中央区の八軒家浜付近が渡辺の津にあたるとされる。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、761–765頁(コマ409–411)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日