平家物語 巻第十
請文の事
重衡の母二位殿は、重衡の手紙を見て宗盛に三種の神器を返すよう泣いて頼んだが、宗盛は重衡一人と国の宝を引き換えにはできないと拒み、知盛の意見で、その旨を請文(返書)に書いて送ることになった。時忠は院の使い花方の顔に「波方」という焼き印を押して帰し、法皇はそれを笑った。宗盛の請文は、一の谷で一門が多く討たれたのに重衡一人の赦免を喜ぶわけにはいかないと述べ、平家累代の忠節と頼朝の恩知らずを説いて、帝の還幸を許さなければ神器は異国の宝となろうと結んでいた。
- 1大臣殿大臣殿おおいどの、、、平平へい大大だい納納な言言ごんののの許許もとへへへ院院いん宣宣ぜんののの趣趣おもむきををを申申もうささされれれけりけりけり。。。二二に位位い殿殿どの、、、中中ちゅう將將じょうののの文文ふみをををあけあけあけててて見見み給給たまふふうににに、、、「「「重重しげ衡衡ひらををを今今こん生生じょうででで今今いま一一いち度度ど御御ご覽覽らんぜぜぜんんんととと思思おぼし召召めささされれれ候候そうらははわばばば、、、三三さん種種しゅののの神神じん器器ぎののの御御おん事事ことををを、、、よきよきよきやうやうようににに申申もうさささせせせ給給たまひひいててて、、、都都みやこへへへ返返かえししし入入いれれれさせさせさせ給給たまへへえ。。。さらさらさらずずずばばば御御おん目目めにににかゝるかゝるかかるべしべしべしとととももも存存ぞんじじじ候候そうらははわずずず。。。」」」とととぞぞぞ書書かかかかれれれたるたるたる。。。二二に位位い殿殿どのこのこのこの文文ふみををを顏顏かおにににおしおしおし當當あてててててて、、、人人ひと々々びとのののおはしおはしおわしけるけるける後後うしろののの障障しょう子子じををを引引ひきききあけあけあけててて、、、大臣殿大臣殿おおいどのののの御御ご前前ぜんににに仆仆たおれれれ伏伏ふししし、、、しばししばししばしはははものものものをををももも宣宣のたまははわずずず。。。
- 2やゝやゝややあつあつあっててて起起おきききあがりあがりあがり、、、涙涙なみだをををおさへおさへおさえてててのたまひのたまひのたまいけるけるけるははは、、、「「「これこれこれ見見み給給たまへへえ宗宗むね盛盛もり、、、京京きょうよりよりより中中ちゅう將將じょうがががいひいひいいおこしおこしおこしつるつるつる事事ことののの無無む慙慙ざんさささよよよ。。。げにげにげにももも心心こころののの中中うちににに、、、いかいかいかばかりばかりばかりののの事事ことをををかかか思思おもふふうらんらんらん。。。たゞたゞただわれわれわれににに思思おもひひい許許ゆるしししててて、、、三三さん種種しゅののの神神じん器器ぎののの御御おん事事ことをををよきよきよきやうやうようににに申申もうしししててて、、、都都みやこへへへ返返かえししし入入いれれれ奉奉たてまつらららせせせ給給たまへへえ。。。」」」とととのたまへのたまへのたまえばばば、、、大臣殿大臣殿おおいどの申申もうさささせせせ給給たまひひいけるけるけるははは、、、「「「宗宗むね盛盛もりもももさささこそこそこそははは存存ぞんじじじ候候そうらへへえどもどもども、、、さしもさしもさしもにににわがわがわが朝朝ちょうののの重重ちょう寶寶ほう三三さん種種しゅののの神神じん器器ぎををを、、、重重しげ衡衡ひら一一いち人人にんにににかへかへかへ參參まいらせらせらせんんん事事こと、、、かつうかつうかつうははは世世よのののためためため然然しかるるるべからべからべからずずず。。。かつうかつうかつうははは賴賴より朝朝ともがががかへりかへりかえり聞聞きかかかんんんずるずるずる所所ところももも、、、いひいひいいがひがひがいなうなうのう候候そうろう。。。そのそのその上上うえ、、、帝帝てい王王おうののの御御み世世よををを保保たもたたたせせせ給給たまふふう御御おん事事ことももも、、、ひとへひとへひとえにににこのこのこの内内ない侍侍し所所どころののの渡渡わたらららせせせ給給たまふふう御御おん故故ゆえなりなりなり。。。さてさてさて餘餘よののの子子こどもどもども、、、親親したしきしきしき人人ひと々々びとをををばばば、、、中中ちゅう將將じょう一一いち人人にんにににおぼしめしおぼしめしおぼしめしかへかへかえさせさせさせ給給たまふふうべきべきべきかかか。。。子子このののかなしいかなしいかなしいととといふいふいう事事ことももも、、、事事ことにににこそこそこそよりよりより候候そうらへへえ。。。ゆめ〳〵ゆめ〳〵ゆめゆめ叶叶かなひひい候候そうろうまじまじまじ。。。」」」とととのたまへのたまへのたまえばばば、、、二二に位位い殿殿どの世世よにににももも本本ほ意意いなげなげなげにてにてにて、、、かさねかさねかさねてててのたまひのたまひのたまいけるけるけるははは、、、「「「われわれわれ故故こ入入にゅう道道どう相相しょう國國こくににに後後おくれれれててて後後のちははは、、、一一いち日日にち片片へん時時じももも、、、命命いのち生生いきききててて世世よにににあるあるあるべしべしべしととと思思おもははわざりざりざりしかしかしかどもどもども、、、主主しゅ上上しょうのののいついついつとととなくなくなく、、、西西さい海海かいののの波波なみののの上上うえににに漂漂ただよははわせせせ給給たまふふう御御おん心心こころ苦苦ぐるしさしさしさににに、、、再再ふたたびびび代代よにににあらせあらせあらせ奉奉たてまつらららんんんがががためためためにににこそこそこそ、、、うきうきうきながらながらながら今日今日きょうまでまでまでもももながらへながらへながらへたれたれたれ。。。中中ちゅう將將じょう一一いちののの谷谷たににてにてにて生生いけ捕捕どりにににせせせられられられぬぬぬととと聞聞ききききししし後後のちははは、、、いとゞいとゞいとど胸胸むねせきせきせきててて、、、湯湯ゆ水水みずももも喉喉のどへへへ入入いれれれられられられずずず。。。中中ちゅう將將じょうこのこのこの世世よににになきなきなきものものものととと聞聞きかかかばばば、、、われわれわれもももおなじおなじおなじ道道みちににに赴赴おもむかかかんんんととと思思おもふふうなりなりなり。。。再再ふたたびびびものものものををを思思おもははわせせせぬぬぬ先先さきににに、、、たゞたゞただわれわれわれををを失失うしなへへえややや。。。」」」とてとてとて、、、をめきをめきおめき叫叫さけびびび給給たまへへえばばば、、、まことまことまことにににさささこそこそこそはははととといたはしくいたはしくいたわしくててて、、、みなみなみな伏伏ふししし目目めにににぞぞぞならならなられれれけるけるける。。。
- 3新新しん中中ちゅう納納な言言ごん知知とも盛盛もりののの卿卿きょうののの意意い見見けんににに申申もうささされれれけるけるけるははは、、、「「「さしもさしもさしもにににわがわがわが朝朝ちょうののの重重ちょう寶寶ほう、、、三三さん種種しゅののの神神じん器器ぎををを都都みやこへへへ返返かえししし入入いれれれ奉奉たてまつつつったりたりたりとととももも、、、重重しげ衡衡ひら返返かえししし賜賜たまははわらららんんん事事ことありありありがたしがたしがたし。。。たゞたゞただそのそのそのやうやうようををを、、、恐恐おそれれれなくなくなく御御おん請請うけ文文ぶみににに申申もうさささせせせ給給たまふふうべうべうびょうもももややや候候そうろうらんらんらん。。。」」」ととと申申もうささされれれけれけれければばば、、、このこのこの儀儀ぎ最最もっとももも然然しかるるるべしべしべしとてとてとて、、、大臣殿大臣殿おおいどの御御おん請請うけ文文ぶみををを申申もうさささるるる。。。二二に位位い殿殿どのははは涙涙なみだにににくれくれくれててて、、、筆筆ふでのののたちたちたちどもどもども覺覺おぼえええ給給たまははわねねねどもどもども、、、志志こころざしをををしるべしるべしるべににに、、、泣泣なく〳〵く〳〵くなく御御おん返返へん事事じ書書かきききたまへたまへたまえりりり。。。北北きたののの方方かた大大だい納納な言言ごんののの佐佐すけ殿殿どのははは、、、とかうとかうとこうののの事事ことをををももものたまはのたまはのたまわずずず、、、引引ひきききかづいかづいかずいてててぞぞぞ伏伏ふししし給給たまふふう。。。そのそのその後後のち平平へい大大だい納納な言言ごん時時とき忠忠ただののの卿卿きょう、、、院院いん宣宣ぜんののの御御おん使使つかい御御お坪坪つぼののの召召めし次次つぎ花花はな方方かたををを召召めしししててて、、、「「「汝汝なんじ、、、法法ほう皇皇おうののの御御おん使使つかいとととしてしてして、、、多多おおくくくののの波波なみ路路じををを凌凌しのいいいででで、、、はる〴〵はる〴〵はるばるとととこれこれこれまでまでまで下下くだりりりたるたるたるしるししるししるしににに、、、汝汝なんじ一一いち期期ごががが間間あいだのののおもひおもひおもいででで一一ひとつつつあるあるあるべしべしべし。。。」」」とてとてとて、、、花花はな方方かたががが面面つらににに波波なみ方方かたととといふいふいう燒燒やい印印じるしをををぞぞぞせせせられられられけるけるける。。。都都みやこへへへ歸歸かえりりり上上のぼつつったりたりたりけれけれければばば、、、法法ほう皇皇おう叡叡えい覽覽らんあつあつあっててて、、、「「「汝汝なんじははは花花はな方方かたかかか。。。」」」「「「さんさんさん候候そうろう。。。」」」「「「よし〳〵よし〳〵よしよし、、、さらばさらばさらば波波なみ方方かたとととももも召召めせせせかしかしかし。。。」」」とてとてとて、、、笑笑わらははわせせせおはしますおはしますおわします。。。そのそのその後後のち請請うけ文文ぶみをををぞぞぞ開開ひらかかかれれれけるけるける。。。
- 4「「「今今こん月月げつ十十じゅう四四よっ日日かののの院院いん宣宣ぜん、、、同同おなじきじきじき二二に十十じゅう八八はち日日にち讚讚さぬ岐岐きののの國國くに八八や島島しまののの磯磯いそににに到到とう來來らい、、、謹謹つつしんんんででで以以もっててて承承うけたまわるるる所所ところ件件くだんののの如如ごとししし。。。但但ただしししこれこれこれににについついついてててかれかれかれををを案案あんずるずるずるににに、、、通通みち盛盛もりののの卿卿きょう以以い下下げ、、、當當とう家家け數數すう輩輩はい、、、攝攝せつ州州しゅう一一いちののの谷谷たににてにてにて既既すでににに誅誅ちゅうせせせられられられをはんをはんおわんぬぬぬ。。。何何なんぞぞぞ重重しげ衡衡ひら一一いち人人にんががが寛寛かん宥宥ゆうををを喜喜よろこぶぶぶべきべきべきややや。。。それそれそれわがわがわが君君きみははは、、、故故こ高高たか倉倉くら院院いんののの御御おん讓讓ゆずりりりををを受受うけけけさせさせさせ給給たまひひいててて、、、御御ご在在ざい位位い既既すでににに四四し箇箇か年年ねん、、、政政まつりごと堯堯ぎょう舜舜しゅんののの古古こ風風ふうをををとぶらふとぶらふとぶらう所所ところににに、、、東東とう夷夷い北北ほく狄狄てき黨黨とうををを結結むすびびび羣羣ぐんをををなしなしなしててて入入じゅ洛洛らくののの間間あいだ、、、且且かつははは幼幼よう帝帝てい、、、母母ぼ后后こうののの御御おん歎歎なげききき最最もっとももも深深ふかくくく、、、且且かつははは外外がい戚戚せき近近きん臣臣しんののの憤憤いきどおりりり淺淺あさからからからざるざるざるににに依依よつつっててて、、、しばらくしばらくしばらく九九きゅう國國こくににに幸幸こうすすす。。。還還かん幸幸こうなからなからなからんんんにににおいおいおいてててははは、、、三三さん種種しゅののの神神じん器器ぎいかでいかでいかでかかか玉玉ぎょく體體たいををを離離はなししし奉奉たてまつるるるべきべきべきややや。。。それそれそれ臣臣しんははは君君きみををを以以もっててて心心こころとととすすす。。。君君きみははは臣臣しんををを以以もっててて體體たいとととすすす。。。君君きみやすけれやすけれやすければばばすなはちすなはちすなわち臣臣しんやすくやすくやすく、、、臣臣しんやすけれやすけれやすければばばすなはちすなはちすなわち國國くにやすしやすしやすし。。。君君きみ上上かみににに憂憂うれふれふれうればばば臣臣しん下下かににに樂樂たのしましましまずずず。。。心心しん中中ちゅうににに憂憂うれへへえあれあれあればばば、、、體體たい外外がいににに悅悅よろこびびびなしなしなし。。。曩曩のう祖祖そ平平へい將將しょう軍軍ぐん貞貞さだ盛盛もり、、、相相そう馬馬まののの小小こ次次じ郎郎ろう將將まさ門門かどををを追追つい討討とうせせせしししよりよりよりこのこのこのかたかたかた、、、東東とう八八はっ箇箇か國國こくををを鎭鎭しずめめめててて、、、子子し々々し孫孫そん々々そんににに傳傳つたへへえててて、、、朝朝ちょう敵敵てきののの暴暴ぼう臣臣しんををを誅誅ちゅう罰罰ばつしてしてして、、、代代だい々々だい世世せ々々せににに至至いたるるるまでまでまで、、、朝朝ちょう家家かののの聖聖せい運運うんををを守守まもりりり奉奉たてまつるるる。。。然然しかれれればばばすなはちすなはちすなわち故故こ亡亡ぼう父父ぷ太太だい政政じょう大大だい臣臣じん、、、保保ほう元元げん、、、平平へい治治じ兩兩りょう度度どののの逆逆げき亂亂らんののの時時とき、、、敕敕ちょく命命めいををを重重おもんんんじじじててて私私わたくしののの命命いのちををを輕輕かろんんんずずず。。。これこれこれひとへひとへひとえににに君君きみののの爲爲ためにににしてしてして、、、全全まったくくく身身みののの爲爲ためにににせせせずずず。。。就就なか中中んずく、、、かのかのかの賴賴より朝朝ともははは去去いんんんぬるぬるぬる平平へい治治じ元元がん年年ねん十十じゅう二二に月月がつ、、、父父ちち左左さ馬馬まののの頭頭かみ義義よし朝朝ともががが謀謀む叛叛ほんににに依依よつつっててて、、、既既すでににに誅誅ちゅう罰罰ばつせせせらるらるらるべきべきべき由由よし頻頻しきりりりににに仰仰おおせせせ下下くださささるゝるゝるるととといへいへいえどもどもども、、、故故こ入入にゅう道道どう相相しょう國國こく慈慈じ悲悲ひのののあまりあまりあまり、、、申申もうししし宥宥なだめめめられられられししし所所ところなりなりなり。。。然然しかるるるににに昔昔むかしののの洪洪こう恩恩おんををを忘忘わすれれれててて、、、芳芳ほう意意いををを存存ぞんぜぜぜずずず、、、忽忽たちまちちちににに狼狼ろう羸羸るいののの身身みををを以以もっててて、、、妄妄みだりりりににに蜂蜂ほう起起きののの亂亂らんをををなすなすなす。。。至至し愚愚ぐののの甚甚はなはだしきしきしき事事こと、、、申申もうすすすににに餘餘あまりりりありありあり。。。早早はやくくく神神しん明明めいののの天天てん罰罰ばつををを招招まねききき、、、ひそかひそかひそかににに敗敗はい績績せきののの損損そん滅滅めつををを期期ごするするするものものものかかか。。。それそれそれ日日じつ月月げつははは一一いち物物もつののの爲爲ためにににそのそのその明明あきらからからかなるなるなる事事ことををを暗暗くろうううせせせずずず。。。明明めい王王おうははは一一いち人人にんががが爲爲ためにににそのそのその法法ほうををを枉枉まげげげずずず。。。一一いち惡惡あくををを以以もってててそのそのその善善ぜんををを棄棄すてててずずず、、、少少しょう瑕瑕かををを以以もってててそのそのその功功こうををを蔽蔽おおふふう事事ことなかれなかれなかれ。。。且且かつははは當當とう家家け數數すう代代だいののの奉奉ほう公公こう、、、且且かつははは亡亡ぼう父父ぷ數數すう度度どののの忠忠ちゅう節節せつおぼしめしおぼしめしおぼしめし忘忘わすれれれずずずばばば、、、君君きみ忝忝かたじけなくくくももも四四し國國こくののの御御ご幸幸こうあるあるあるべきべきべきかかか。。。時時ときににに臣臣しん等等ら院院いん宣宣ぜんををを承承うけたまわつつっててて、、、復復ふたたびびび舊舊きゅう都都とににに還還かえつつっててて會會かい稽稽けいののの恥恥はじをををきよめきよめきよめんんん。。。もしもしもし然然しからららずずずばばば鬼鬼き界界かい、、、高高こう麗麗らい、、、天天てん竺竺じく、、、震震しん旦旦たんににに至至いたるるるべしべしべし。。。悲悲かなしきしきしきかなかなかな人人にん皇皇のう八八はち十十じゅう一一いち代代だいののの御御ぎょ宇宇うににに當當あたつつっててて、、、わがわがわが朝朝ちょう神神じん代代だいののの靈靈れい寶寶ほう、、、遂遂ついににに空空むなしくしくしく異異い國國こくののの寶寶たからとととなさなさなさんんんかかか。。。宜宜よろしくしくしくこれこれこれらららののの趣趣おもむきををを以以もっててて、、、然然しかるるるべきべきべきやうやうようにににもらしもらしもらし奏奏そう聞聞もんせせせしめしめしめ給給たまへへえ。。。宗宗むね盛盛もり頓頓とん首首しゅ、、、謹謹つつしんんんででで申申もうすすす。。。壽壽じゅ永永えい三三さん年年ねん二二に月月がつ二二に十十じゅう八八はち日日にち、、、從從じゅ一一いち位位い前前さきの内内ない大大だい臣臣じん平平たいらののの朝朝あ臣臣そん宗宗むね盛盛もりががが請請うけ文文ぶみ。。。」」」とととこそこそこそ書書かかかかれれれたれたれたれ。。。
現代語訳
大臣殿と平大納言のもとへ院宣の趣旨を申された。二位殿が中将(重衡)の手紙を開けてご覧になると、「重衡をこの世でもう一度ご覧になりたいとお思いでしたら、三種の神器のことをよいように申されて、都へお返し入れください。そうでなければ、お目にかかれるとも思いません」と書かれていた。二位殿はこの手紙を顔に押し当てて、人々のおられる後ろの障子を引き開けて、大臣殿の御前に倒れ伏し、しばらくは物もおっしゃらなかった。
しばらくして起き上がり、涙をおさえておっしゃるには、「これをご覧なさい、宗盛。京から中将が言ってよこしたことのいたわしさよ。本当に心の中ではどれほどのことを思っているだろう。ただ私に免じて、三種の神器のことをよいように申して、都へお返し入れ申してください」とおっしゃると、大臣殿が申されるには、「宗盛もそうは思いますが、あれほどのわが国の宝である三種の神器を重衡一人と引き換えにすることは、一つには世のためによくありません。一つには頼朝が伝え聞くことを考えても、ふがいないことです。そのうえ帝王が御世を保たれるのも、ひとえにこの内侍所(神鏡)がおありになるからです。それにほかの子どもや親しい人々を、中将一人と引き換えにお考えになるのですか。子がいとしいというのも時と場合によります。決してかなうことではありません」とおっしゃったので、二位殿はまことに残念そうで、重ねておっしゃるには、「私は故入道相国に先立たれてからは、一日片時も生きてこの世にいようとは思わなかったが、帝がいつ果てるともなく西海の波の上に漂っておられるお気の毒さに、もう一度世にお戻し申すためにこそ、つらいながら今日まで生きながらえてきた。中将が一の谷で生け捕りにされたと聞いてからは、いっそう胸がふさがって、湯水も喉に通らない。中将がこの世にいないと聞いたら、私も同じ道へ行こうと思う。再び物思いをさせないうちに、いっそ私を殺してください」といって、わめき叫ばれたので、まことにもっともだとお気の毒で、皆うつむいてしまわれた。
新中納言知盛卿が意見として申されるには、「あれほどのわが国の宝である三種の神器を都へお返し申しても、重衡が返していただけることはありますまい。ただそのことを、恐れずに御請文に申されるのがよいでしょう」と申されたので、それがもっともだということで、大臣殿は御請文を書かれた。二位殿は涙にくれて、筆の運びも分からないほどであったが、心をしるべにして泣く泣くお返事を書かれた。北の方の大納言佐殿は何もおっしゃらず、衣を引きかぶって伏してしまわれた。その後、平大納言時忠卿は、院宣の御使いの御坪の召次花方を呼んで、「おまえは法皇の御使いとして、多くの波路を越えて、はるばるここまで下ってきたしるしに、一生の思い出を一つ作ってやろう」といって、花方の顔に「波方」という焼き印を押された。都へ帰り上ると、法皇がご覧になって、「おまえは花方か」「さようでございます」「よしよし、それなら波方とでも呼べ」といってお笑いになった。その後、請文を開かれた。
「今月十四日の院宣は、同月二十八日に讃岐国屋島の磯に届き、謹んでその旨を承りました。ただしこれについて考えますと、通盛卿以下、当家の者数人が摂津の一の谷ですでに討たれました。どうして重衡一人の赦免を喜べましょうか。そもそもわが君は、故高倉院のご譲位を受けられて、在位すでに四年、政治は堯舜の古風にならっておられたところに、東国・北国の夷どもが徒党を組み群れをなして都に乱入したので、一つには幼い帝と母后のお嘆きがまことに深く、一つには外戚・近臣の憤りが浅くないので、しばらく九州に行幸されたのです。還幸がないかぎり、三種の神器がどうして帝の御身を離れることがありましょうか。そもそも臣は君を心とし、君は臣を体とします。君が安らかであれば臣も安らかであり、臣が安らかであれば国も安らかです。君が上で憂えれば、臣は下で楽しむことがありません。心の中に憂いがあれば、身の外に喜びはありません。先祖の平将軍貞盛が相馬の小次郎将門を追討して以来、東八か国を鎮めて子々孫々に伝え、朝敵の暴臣を誅罰して、代々朝廷の聖運をお守りしてきました。それゆえ故亡父太政大臣(清盛)は、保元・平治の二度の逆乱のとき、勅命を重んじて自分の命を軽んじました。これはひとえに君のためであって、まったく自分のためではありません。とりわけあの頼朝は、去る平治元年十二月、父左馬頭義朝の謀反によって、すでに誅罰すべきだとしきりに仰せ下されたのに、故入道相国が慈悲のあまり申しなだめて助けた者です。それなのに昔の大恩を忘れ、好意をわきまえず、たちまち狼のような弱い身で、みだりに蜂起の乱を起こしました。愚かさの甚だしいことは申すまでもありません。早く神明の天罰を招き、ひそかに敗れ滅びることでしょう。そもそも日月は一つの物のためにその明るさを暗くすることはなく、明王は一人のためにその法を曲げることはありません。一つの悪のためにその善を捨てず、小さな傷のためにその功をおおうことのないようにしてください。一つには当家数代の奉公、一つには亡父の度々の忠節をお忘れでなければ、君はかたじけなくも四国に御幸くださるべきでしょう。そのとき臣らは院宣を承って、再び旧都に帰り、会稽の恥をすすぎましょう。もしそうでなければ、鬼界・高麗・天竺・震旦にまで行くことになるでしょう。悲しいことに、人皇八十一代の御代にあたって、わが国の神代の霊宝が、ついにむなしく異国の宝となるのでしょうか。どうかこれらの趣旨を、しかるべく取り次いで奏上してください。宗盛、頓首して謹んで申し上げます。寿永三年二月二十八日、従一位前内大臣平朝臣宗盛の請文」と書かれていた。
意訳
三種の神器と重衡との交換を、平家が拒む章段である。わが子を思って泣き叫ぶ二位殿と、国の宝と一人の子とは引き換えにできないと説く宗盛・知盛との対立は、一門の運命を背負う者たちの苦しい選択を示している。院の使いの顔に焼き印を押す時忠のふるまいは、平家の意地と荒々しさを表している。
宗盛の請文は、平家累代の忠節を述べ、頼朝の恩知らずを責め、帝の還幸を条件として神器の返還を拒むものである。「臣は君を以て心とす」以下の対句を重ねた文体は、和漢混交文の公文書の典型であり、追いつめられた平家の自負と危うさとをよく伝えている。
語釈・文法注
文法
- 「われに思ひ許して」
- 私に免じて。
- 「かつうは」
- 「且つは」の音便。一つには。
- 「波方といふ燒印」
- 「花方」を「波方」と変えて、波路を越えてきたしるしとしたもの。
- 「東夷北狄」
- 東国・北国の野蛮な者たち。頼朝・義仲の軍勢をさす。
- 「狼羸の身」
- 頭注に一本「狼戾」とある。狼のように荒々しい身、の意か。
- 「會稽の恥をきよめん」
- 敗戦の恥をすすごう。越王勾践の故事による。
解説
宗盛の請文は『吾妻鏡』寿永三年二月二十九日条にも載せられている。平家は三種の神器の返還を拒み、こののち屋島・壇の浦で戦いを続けた。重衡は鎌倉へ送られることになる(「海道くだり」)。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、717–721頁(コマ387–389)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日