平家物語 巻第十二
重衡の斬られの事
伊豆で狩野介宗茂に預けられていた重衡は、南都の大衆の強い求めで奈良へ引き渡されることになった。途中、日野に住む北の方大納言佐局のもとに立ち寄ることを許され、やつれた姿で対面した。重衡は額の髪を食い切って形見とし、北の方の差し出した浄衣に着替えて「せきかねて」の歌を残した。泣き叫ぶ北の方を振り切って奈良へ向かうと、大衆は木津川の辺りで斬らせることに決めた。旧臣の木工右馬允知時が駆けつけ、近くの里から阿弥陀仏を迎えて、重衡は袖のくくりで仏と結ばれて最後の念仏を唱え、首を討たれた。首は般若寺の門前に釘付けにされたが、北の方は亡骸と首を引き取って荼毘に付し、出家して菩提を弔った。
- 1さるさるさる程程ほどににに本本ほん三三さん位位みののの中中ちゅう將將じょう重重しげ衡衡ひらののの卿卿きょうをををばばば狩狩か野野のののの介介すけ宗宗むね茂茂もちににに預預あずけけけられられられててて、、、去去こ年年ぞよりよりより伊伊い豆豆ずののの國國くににににおはしおはしおわしけるけるけるががが、、、南南なん都都とののの大大だい衆衆しゅ頻頻しきりりりににに申申もうしししけれけれければばば、、、さらばさらばさらば遣遣つかははわさささるるるべしべしべしとととててて、、、源源げん三三ざん位位み入入にゅう道道どうののの孫孫まご伊伊い豆豆ずののの藏藏くら人人うどののの大大たい夫夫ふ賴賴より兼兼かねににに仰仰おおせせせててて、、、遂遂ついににに奈奈な良良らへへへぞぞぞ渡渡わたささされれれけるけるける。。。今今こん度度どははは都都みやこののの中中うちへへへははは入入いれれれられられられずずず、、、大大おお津津つよりよりより山山やま科科しな通通どおりににに、、、醍醍だい醐醐ご路路じををを經經へててて行行ゆけけけばばば、、、日日ひ野野のははは近近ちかかりかりかりけりけりけり。。。
- 2このこのこの北北きたののの方方かたととと申申もうすすすははは鳥鳥とり飼飼かいののの中中ちゅう納納な言言ごん維維これ實實ざねののの女女むすめ、、、五五ご條條じょうののの大大だい納納な言言ごん國國くに綱綱つなののの養養よう子子し、、、先先せん帝帝ていののの御御おん乳乳めの母母と大大だい納納な言言ごんののの佐佐すけののの局局つぼねとととぞぞぞ申申もうしししけるけるける。。。中中ちゅう將將じょう一一いちののの谷谷たににににててて生生いけ捕捕どりにににせせせられられられ給給たまひひいててて後後のちははは、、、先先せん帝帝ていにににつきつきつき參參まいらららせせせててておはしおはしおわしけるけるけるががが、、、壇壇だんののの浦浦うらにににててて海海うみににに沈沈しずみみみ給給たまひひいしかしかしかばばば、、、武武もの士士のうののの荒荒あらけなきけなきけなきににに捕捕とらははわれれれててて舊舊きゅう里里りにににかへりかへりかえり、、、姉姉あねののの大大だい夫夫ぶ三三さん位位みににに同同どう宿宿じゅくしししててて、、、日日ひ野野のととといふいふいう所所ところにににぞぞぞまし〳〵まし〳〵ましましけるけるける。。。三三さん位位みののの中中ちゅう將將じょうののの露露つゆののの命命いのち、、、草草くさ葉葉ばののの末末すえにににかゝつかゝつかかっててて、、、未未いまだだだ消消きえええやりやりやり給給たまははわぬぬぬととと聞聞きききき給給たまひひいててて、、、あはれあはれあわれいかにいかにいかにもももしししててて變變かわらららぬぬぬ姿姿すがたををを、、、今今いま一一ひと度度たび見見みもももししし、、、見見みえええばやばやばやととと思思おもははわれれれけれけれけれどもどもども、、、それそれそれもももかなはかなはかなわねねねばばば、、、たゞたゞただ泣泣なくくくよりよりより外外ほかののの慰慰なぐさみみみなくなくなくててて、、、明明あかししし暮暮くらししし給給たまひひいけりけりけり。。。
- 3三三さん位位みののの中中ちゅう將將じょう、、、守守しゅ護護ごののの武武ぶ士士しどもどもどもにににのたまひのたまひのたまいけるけるけるははは、、、「「「さてさてさてもももこのこのこの程程ほど、、、各各おのおのののの情情なさけ深深ふこううう芳芳ほう心心しんせせせられられられけるけるける事事ことこそこそこそ、、、ありがたうありがたうありがとううれしけれうれしけれうれしけれ。。。同同おなじうじうじゅうははは最最さい後後ごににに今今いま一一いち度度ど、、、芳芳ほう恩恩おん蒙蒙こうぶりりりたきたきたき事事ことありありあり。。。われわれわれははは一一ひと人人りののの子子こなけれなけれなければばば、、、うきうきうき世世よににに思思おもひひい置置おくくく事事ことなしなしなし。。。年年とし頃頃ごろ契契ちぎつつったりたりたりししし女女にょう房房ぼうののの、、、日日ひ野野のととといふいふいう所所ところにににありありありととと聞聞きくくく。。。今今いま一一いち度度ど對對たい面面めんしししててて、、、後後ご生生しょうののの事事ことをををもももいひいひいい置置おかかかばやばやばやととと思思おもふふうはははいかにいかにいかに。。。」」」とととのたまへのたまへのたまえばばば、、、武武ぶ士士しどもどもどもももも岩岩いわ木木きならならならねねねばばば、、、みなみなみな涙涙なみだををを流流ながしししててて、、、「「「まことまことまことににに女女にょう房房ぼうなどなどなどののの御御おん事事ことははは、、、何何なにかかか苦苦くるしうしうしゅう候候そうろうべきべきべき。。。とう〳〵とう〳〵とうとう。。。」」」とととててて許許ゆるししし奉奉たてまつるるる。。。
- 4三三さん位位みののの中中ちゅう將將じょう、、、なのめならなのめならなのめならずずず喜喜よろこびびび、、、「「「これこれこれににに大大だい納納な言言ごんののの佐佐すけののの局局つぼねののの御御おんわたりわたりわたり候候そうろうかかか。。。本本ほん三三さん位位みののの中中ちゅう將將じょう殿殿どのののの、、、たゞたゞただ今今いま奈奈な良良らへへへ御御おん通通とおりりり候候そうろうががが、、、立立たちちちながらながらながら御御ご見見げん參參ざんににに入入いらららんんんととと候候そうろう。。。」」」ととと、、、人人ひとををを入入いれれれててていはいはいわせせせられられられたりたりたりけれけれければばば、、、北北きたののの方方かた、、、「「「いづらいづらいずらやややいづらいづらいずら。。。」」」とととててて走走はしりりり出出でててて見見みたまへたまへたまえばばば、、、藍藍あい摺摺ずりののの直直ひた垂垂たれににに折折おり烏烏え帽帽ぼ子子し著著きたるたるたる男男おとこののの、、、痩痩やせせせ黑黑くろみみみたるたるたるががが、、、緣緣えんににに寄寄よりりりゐゐいたるたるたるぞぞぞそそそなりなりなりけるけるける。。。北北きたののの方方かた御御み簾簾すのののきはきはきわ近近ちかくくく出出いでででててて、、、「「「いかにいかにいかにやややいかにいかにいかに、、、夢夢ゆめかかかやややうつゝうつゝうつつかかか。。。これこれこれへへへ入入いらららせせせ給給たまへへえ。。。」」」とととのたまひのたまひのたまいけるけるける。。。御御おん聲聲こえををを聞聞きききき給給たまふふうにににつけつけつけてててももも、、、たゞたゞたださきさきさき立立だつつつものものものははは涙涙なみだなりなりなり。。。大大だい納納な言言ごんののの佐佐すけ殿殿どのははは目目めもももくれくれくれ、、、心心こころももも消消きえええはてはてはてててて、、、しばししばししばしははは物物ものももものたまはのたまはのたまわずずず。。。三三さん位位みののの中中ちゅう將將じょう御御み簾簾すうちうちうちかづきかづきかずき、、、泣泣なく〳〵く〳〵くなくのたまひのたまひのたまいけるけるけるははは、、、「「「去去こ年年ぞののの春春はる、、、攝攝つ津津のののの國國くに一一いちののの谷谷たににににててていかにいかにいかにもももなるなるなるべかりべかりべかりししし身身みののの、、、せめてせめてせめてののの罪罪つみののの報報むくいいいにににややや、、、生生いきききながらながらながら捕捕とらははわれれれててて、、、京京きょう、、、鎌鎌かま倉倉くら、、、恥恥はじををを暴暴さらすすすのみのみのみならならならずずず、、、はてはてはてははは南南なん都都とののの大大だい衆衆しゅののの手手てへへへ渡渡わたささされれれててて、、、斬斬きらららるるるべしべしべしとととてててまかりまかりまかり候候そうろう。。。あはれあはれあわれいかにいかにいかにもももしししててて、、、變變かわらららぬぬぬ姿姿すがたををを今今いま一一いち度度ど見見みもももししし、、、見見みえええ奉奉たてまつらららばやばやばやとととこそこそこそ思思おもひひいつるつるつるににに、、、今今いまはははうきうきうき世世よににに思思おもひひい置置おくくく事事ことなしなしなし。。。これこれこれにににててて頭頭かしらををを剃剃そりりり、、、形形かた見見みににに髪髪かみをををももも參參まいらららせせせたうたうとう候候そうらへへえどもどもども、、、斯斯かかるかるかる身身みにににまかりまかりまかりなつなつなっててて候候そうらへへえばばば、、、心心こころににに心心こころをををもももまかせまかせまかせずずず。。。」」」とととててて、、、額額ひたいののの髪髪かみをををかきかきかきわけわけわけ、、、口口くちののの及及およぶぶぶ所所ところををを少少すこしししくひくひくい切切きつつっててて、、、「「「これこれこれをををかたみかたみかたみににに御御ご覽覽らんぜぜぜよよよ。。。」」」とととててて、、、奉奉たてまつりりり給給たまへへえばばば、、、北北きたののの方方かた、、、日日ひ頃頃ごろおぼつかなうおぼつかなうおぼつかのうおぼしおぼしおぼしけるけるけるよりよりより、、、今今いま一一ひとしほしほしお思思おもひひいののの色色いろやややまさらまさらまさられれれけんけんけん、、、引引ひきききかづいかづいかずいてててぞぞぞ伏伏ふじじじ給給たまふふう。。。
- 5やゝやゝややあつあつあっててて北北きたののの方方かた、、、涙涙なみだをををおさへおさへおさえてててのたまひのたまひのたまいけるけるけるははは、、、「「「二二に位位い殿殿どの、、、越越えち前前ぜんののの三三さん位位みののの上上うえのののやうやうようににに、、、水水みずののの底底そこにににももも沉沉しずむむむべかりべかりべかりしかしかしかどもどもども、、、まさしうまさしうまさしゅうこのこのこの世世よにににおはせおはせおわせぬぬぬ人人ひととととももも聞聞きかかかざりざりざりしかしかしかばばば、、、變變かわらららぬぬぬ姿姿すがたををを今今いま一一いち度度ど見見みもももししし、、、見見みえええばやばやばやととと思思おもひひいてててこそこそこそ、、、うきうきうきながらながらながら今日今日きょうまでまでまでながらへながらへながらへたれたれたれ。。。今今いままでまでまでながらへながらへながらへつるつるつるははは、、、もしやもしやもしやととと思思おもふふうたのみたのみたのみもももありありありつるつるつるものものものををを、、、さてさてさてははは今日今日きょうををを限限かぎりりりにににててておはすおはすおわすらんらんらん事事ことよよよ。。。」」」とととててて、、、昔昔むかし今今いまののの事事ことどもどもどものたまひのたまひのたまいかはすかはすかわすにににつけつけつけてててももも、、、たゞたゞただ盡盡つきききせせせぬぬぬものものものははは涙涙なみだなりなりなり。。。北北きたののの方方かた、、、「「「あまりあまりあまりににに御御おん姿姿すがたのののしをれしをれしおれててて候候そうろうににに、、、奉奉たてまつりりりかへかへかえよよよ。。。」」」とととててて、、、袷袷あわせののの小小こ袖袖そでににに淨淨じょう衣衣えををを添添そへへえててて出出いだささされれれたりたりたり。。。中中ちゅう將將じょうこれこれこれををを著著きかへかへかえつゝつゝつつ、、、もともともと著著き給給たまひひいたるたるたる裝裝しょう束束ぞくをををばばば、、、「「「これこれこれをををもももかたみかたみかたみににに御御ご覽覽らんぜぜぜよよよ。。。」」」とととててて奉奉たてまつりりり給給たまへへえばばば、、、北北きたののの方方かた、、、「「「それそれそれもももさるさるさる事事ことにににてててははは候候そうらへへえどもどもども、、、はかなきはかなきはかなき筆筆ふでのののあとあとあとこそこそこそ、、、後後のちののの世世よまでまでまでののの形形かた見見みにににててて候候そうらへへえ。。。」」」とととててて、、、御御おん硯硯すずりををを出出いだささされれれたりたりたり。。。中中ちゅう將將じょう泣泣なく〳〵く〳〵くなく一一いっ首首しゅののの歌歌うたをををぞぞぞ書書かききき給給たまふふう。。。
- 6せきかねせきかねせきかねててて涙涙なみだのののかゝるかゝるかかるからからから衣衣ごろも後後のちのののかたみかたみかたみにににぬぎぬぎぬぎぞぞぞかへかへかへぬるぬるぬる
- 7北北きたののの方方かたののの返返へん事事じににに、、、
- 8ぬぎぬぎぬぎかふるかふるかうる衣衣ころもももも今今いまはははなになになにかかかせせせむむんけふけふきょうををを限限かぎりりりのののかたみかたみかたみととと思思おもへへえばばば
- 9「「「契契ちぎりりりあらあらあらばばば後後のちののの世世よにににははは、、、必必かならずずず生生うまれれれあひあひあい奉奉たてまつるるるべしべしべし。。。一一ひとつつつ蓮蓮はちすにににととと祈祈いのりりり給給たまへへえ。。。日日ひもももたけたけたけぬぬぬ。。。奈奈な良良らへへへももも遠遠とおううう候候そうらへへえばばば、、、武武ぶ士士し共共どもののの待待まつつつらんらんらんももも心心こころなしなしなし。。。」」」とととててて出出いでででられられられけれけれければばば、、、北北きたののの方方かた、、、中中ちゅう將將じょうののの袂袂たもとににに縋縋すがりりり、、、「「「いかにいかにいかにややや、、、しばししばししばし。。。」」」とととててて、、、引引ひき止止とどめめめ給給たまへへえばばば、、、中中ちゅう將將じょう、、、「「「心心こころののの中中うちをををばばば推推おししし量量はかりりり給給たまふふうべしべしべし。。。されどもされどもされども遂遂ついにににはははながらへながらへながらえはつはつはつべきべきべき身身みにににもももあらあらあらずずず。。。」」」とととててて、、、思思おもひひい切切きつつってててぞぞぞ立立たたたたれれれけるけるける。。。まことまことまことにににこのこのこの世世よにににててて相相あい見見みんんん事事ことももも、、、これこれこれぞぞぞ限限かぎりりりととと思思おもははわれれれけれけれければばば、、、今今いま一一いち度度ど立立たち返返かえりりりたくたくたくははは思思おもははわれれれけれけれけれどもどもども、、、心心こころ弱弱よおうううてててはははかなはかなはかなわじじじとととててて、、、思思おもひひい切切きつつってててぞぞぞ出出いでででられられられけるけるける。。。北北きたののの方方かたははは御御み簾簾すののの外外そとまでまでまでまろびまろびまろび出出いででで、、、をめきをめきおめき叫叫さけびびび給給たまひひいけるけるける御御おん聲聲こえののの、、、門門かどののの外外そとまでまでまで遙遙はるかかかににに聞聞きこえええけれけれければばば、、、中中ちゅう將將じょう涙涙なみだにににくれくれくれててて、、、行行ゆくくく先先さきももも見見みえええねねねばばば、、、駒駒こまをををももも更更さらににに早早はやめめめたまはたまはたまわずずず。。。なか〳〵なか〳〵なかなかなりなりなりけるけるける見見げん參參ざんかなかなかなととと、、、今今いまははは悔悔くやしうしうしゅうぞぞぞ思思おもははわれれれけるけるける。。。北北きたののの方方かたやがてやがてやがて走走はしりりりももも出出いでででおはしおはしおわしぬぬぬべうべうびょうははは思思おもははわれれれけれけれけれどどど、、、それそれそれもももさすがさすがさすがなれなれなればばばとてとてとて、、、引引ひきききかづいかづいかずいてててぞぞぞ臥臥ふししし給給たまふふう。。。
- 10さるさるさる程程ほどににに南南なん都都とののの大大だい衆衆しゅ、、、三三さん位位みののの中中ちゅう將將じょう請請うけ取取とりりり奉奉たてまつつつっててて、、、いかゞいかゞいかがすすすべきべきべきととと僉僉せん議議ぎすすす。。。「「「そも〳〵そも〳〵そもそもこのこのこの重重しげ衡衡ひらののの卿卿きょうははは大大だい犯犯ぼんののの惡惡あく人人にんたるたるたるうへうへうえ、、、三三さん千千ぜん五五ご刑刑けいののの中中うちにににももも洩洩もれれれ、、、修修しゅ因因いん感感かん果果かののの道道どう理理り極極ごく成成じょうせせせりりり。。。佛佛ぶつ敵敵てき法法ほっ敵敵てきののの逆逆ぎやく臣臣しんなれなれなればばば、、、すべからくすべからくすべからく東東とう大大だい寺寺じ、、、興興こう福福ぶく寺寺じ、、、兩兩りょう寺寺じののの大大おお垣垣がきをををめぐらしめぐらしめぐらしててて、、、堀堀ほり首首くびにににやややすすすべきべきべき、、、またまたまた鋸鋸のこぎりにににてててややや切切きるるるべきべきべき。。。」」」ととと僉僉せん議議ぎすすす。。。老老ろう僧僧そうどもどもどもののの僉僉せん議議ぎしししけるけるけるははは、、、「「「それそれそれももも僧僧そう徒徒とののの法法ほうにににははは穩穩おん便便びんならならならずずず。。。たゞたゞただ武武ぶ士士しにににたうたうとうででで、、、木木こ津津ずののの邊邊へんにににててて斬斬きらすらすらすべしべしべし。。。」」」とととててて、、、遂遂ついににに武武ぶ士士しののの手手てへへへぞぞぞ返返かえささされれれけるけるける。。。武武ぶ士士しこれこれこれををを請請うけ取取とつつっててて、、、木木こ津津ず川川がわののの端端はたにににてててすでにすでにすでに斬斬きりりり奉奉たてまつらららんんんとととしししけるけるけるににに、、、數數す千千せん人人にんののの大大だい衆衆しゅ、、、守守しゅ護護ごののの武武ぶ士士し、、、見見みるるる人人ひと、、、幾幾いく千千せん萬萬まんととといふいふいう數數かずををを知知しらららずずず。。。
- 11こゝこゝここににに三三さん位位みののの中中ちゅう將將じょうののの年年とし頃頃ごろののの侍侍さぶらいににに、、、木木む工工くののの右右う馬馬まののの允允じょう知知とも時時ときととといふいふいう者者ものありありあり。。。八八はち條條じょうののの女女にょう院院いんににに兼兼けん參參ざんにににててて候候さぶらひひいけるけるけるががが、、、御御ご最最さい後後ごををを見見み奉奉たてまつらららんんんとてとてとて、、、鞭鞭むちををを打打うつつってててぞぞぞ馳馳はせせせたりたりたりけるけるける。。。既既すでににに斬斬きりりり奉奉たてまつらららんんんとととしししけるけるける所所ところににに馳馳はせせせ著著ついいいててて、、、いそぎいそぎいそぎ馬馬むまよりよりより飛飛とんんんででで下下おりりり、、、千千せん萬萬まん人人にんののの立立たち圍圍かこうううだるだるだる中中なかををを、、、おしおしおし分分わけけけおしおしおし分分わけけけ、、、三三さん位位みののの中中ちゅう將將じょうののの御御おん側側そば近近ちこううう參參まいりりりててて、、、「「「知知とも時時ときこそこそこそ、、、御御ご最最さい後後ごををを見見み奉奉たてまつらららんんんとととててて參參まいつつっててて候候そうらへへえ。。。」」」ととと申申もうしししけれけれければばば、、、中中ちゅう將將じょう、、、「「「志志こころざしののの程程ほどまことまことまことににに神神しん妙妙びょうなりなりなり。。。いかにいかにいかに知知とも時時とき、、、餘餘あまりりりににに罪罪つみ深深ふこううう覺覺おぼゆるゆるゆるににに、、、最最さい後後ごににに佛佛ほとけををを拜拜おがみみみ奉奉たてまつつつっててて、、、斬斬きららられれればやばやばやととと思思おもふふうはははいかにいかにいかに。。。」」」とととのたまへのたまへのたまえばばば、、、知知とも時時とき、、、「「「易易やすいいい程程ほどののの御御おん事事こと候候そうろう。。。」」」とととててて、、、守守しゅ護護ごののの武武ぶ士士しににに申申もうししし合合あははわせせせててて、、、そのそのその邊邊へん近近ちかききき里里さとよりよりより、、、佛佛ほとけををを一一いっ體體たい迎迎むかへへえ奉奉たてまつつつっててて參參まいりりりたりたりたり。。。幸幸さいわひひいににに阿阿あ彌彌み陀陀だにににてててぞぞぞまし〳〵まし〳〵ましましけるけるける。。。河河かわ原原らののの砂砂いさごののの上上うえにににすゑすゑすえ奉奉たてまつりりり、、、知知とも時時ときががが狩狩かり衣衣ぎぬののの袖袖そでのののくゝりくゝりくくりををを解解といいいててて佛佛ほとけののの御御おん手手てにににかけかけかけ、、、中中ちゅう將將じょうにににひかへひかへひかえさせさせさせ奉奉たてまつるるる。。。
- 12中中ちゅう將將じょうこれこれこれをををひかへひかへひかえつゝつゝつつ、、、佛佛ほとけににに向向むかひひい奉奉たてまつりりりててて申申もうささされれれけるけるけるははは、、、「「「傳傳つたへへえ聞聞きくくく、、、調調ちょう達達だつががが三三さん逆逆ぎやくををを作作つくりりり、、、八八はち萬萬まん藏藏ぞうののの聖聖しょう經經ぎょうををを燒燒やききき亡亡ほろぼしぼしぼし奉奉たてまつつつったりたりたりしししももも、、、遂遂ついにににははは天天てん王王おう如如にょ來來らいののの記記き莂莂べつににに預預あずかりりり、、、所所しょ作作さののの罪罪ざい業業ごうまことまことまことににに深深ふかしししととといへいへいえどもどもども、、、聖聖しょう經經ぎょうににに値値ち遇遇ぐせせせししし逆逆ぎやく緣緣えん朽朽くちちちずずずしししててて、、、卻卻かえつつっててて得得とく道道どうののの因因いんとととなるなるなる。。。今今いま重重しげ衡衡ひらががが逆逆ぎやく罪罪ざいををを犯犯おかすすす事事こと、、、全全まったくくく愚愚ぐ意意いののの發發ほっ起起きにににあらあらあらずずず。。。たゞたゞただ世世よのののことわりことわりことわりををを存存ぞんずるずるずるばかりばかりばかりなりなりなり。。。生生しょうををを受受うくるくるくる者者もの、、、誰誰たれかかか王王おう命命めいををを蔑蔑べつ如如じょせせせんんん。。。命命いのちををを保保たもつつつ者者もの誰誰たれかかか父父ちちののの命命めいををを背背そむかかかんんん。。。彼彼かれととと申申もうししし此此これととといひいひいい、、、辭辭じするするするににに所所ところなしなしなし。。。理理り非非ひ佛佛ぶつ陀陀だののの照照しょう覽覽らんにににありありあり。。。されされさればばば罪罪ざい報報ほうたちどころたちどころたちどころににに報報むくいいい、、、運運うん命命めい既既すでにににたゞたゞただ今今いまををを限限かぎりりりとととすすす。。。後後こう悔悔かい千千せん萬萬ばん、、、悲悲かなしんんんでででもももなほなほなおあまりあまりあまりありありあり。。。但但ただししし三三さん寶寶ぼうののの境境きょう界界がいははは、、、慈慈じ悲悲ひ心心しんををを以以もっててて心心こころとととするするする故故ゆえににに、、、濟濟さい度度どののの良良りょう緣緣えんまち〳〵まち〳〵まちまちなりなりなり。。。唯唯ゆい圓圓えん教教きょう意意い、、、逆逆ぎやく卽卽そく是是ぜ順順じゅん、、、このこのこの文文もん肝肝きもににに銘銘めいずずず。。。一一いち念念ねん彌彌み陀陀だ佛佛ぶつ、、、卽卽そく滅滅めつ無無む量量りょう罪罪ざい、、、願願ねがははわくくくははは逆逆ぎやく緣緣えんををを以以もっててて順順じゅん緣緣えんとととししし、、、たゞたゞただ今今いまののの最最さい後後ごののの念念ねん佛佛ぶつににに依依よつつっててて、、、九九く品品ほん託託たく生生しょうををを遂遂とぐぐぐべしべしべし。。。」」」とととててて、、、首首くびををを延延のべべべてててぞぞぞ討討うたたたせせせらるらるらる。。。日日ひ頃頃ごろののの惡惡あく行行ぎょうはははさるさるさる事事ことなれなれなれどもどもども。。。たゞたゞただ今今いまののの御御おんありさまありさまありさまををを見見み奉奉たてまつるるるににに、、、數數す千千せん人人にんののの大大だい衆衆しゅももも、、、守守しゅ護護ごののの武武ぶ士士しどもどもどもももも、、、みなみなみな鎧鎧よろいののの袖袖そでをををぞぞぞぬらしぬらしぬらしけるけるける。。。首首くびをををばばば般般はん若若にゃ寺寺じののの門門もんののの前前まえににに、、、釘釘くぎづけづけずけにににこそこそこそしししたりたりたりけれけれけれ。。。
- 13これこれこれははは去去さんんんぬるぬるぬる治治じ承承しょうののの合合かっ戰戰せんののの時時とき、、、こゝこゝここににに打打うち立立たつつっててて、、、伽伽が藍藍らんををを燒燒やききき亡亡ほろぼしぼしぼし給給たまひひいたりたりたりししし故故ゆえとととぞぞぞ聞聞きこえええししし。。。北北きたののの方方かたこのこのこの由由よしををを聞聞きききき給給たまひひいててて、、、「「「たとひたとひたとい頭頭こうべをををこそこそこそ刎刎はねねねらるゝらるゝらるるともともとも、、、骸骸むくろははは定定さだめめめててて捨捨すててて置置おいいいてててぞぞぞあるあるあるらんらんらん。。。取取とり寄寄よせせせててて孝孝きょう養養ようせせせんんん。。。」」」とととててて、、、輿輿こしををを迎迎むかへへえににに遣遣つかははわささされれれたりたりたりけれけれければばば、、、げにげにげにももも骸骸むくろははは河河かわ原原らににに捨捨すててて置置おいいいてててぞぞぞありありありけるけるける。。。これこれこれををを取取とつつっててて輿輿こしににに入入いれれれ、、、日日ひ野野のへへへかいかいかいてててぞぞぞ歸歸かえりりりけるけるける。。。昨日昨日きのうまでまでまではははさしもさしもさしもゆゝしげゆゝしげゆゆしげにににおはせおはせおわせしかしかしかどもどもども、、、かやうかやうかようににに暑暑あつききき頃頃ころなれなれなればばば、、、いつしかいつしかいつしかあらあらあらぬぬぬ樣樣さまにににぞぞぞならならなられれれけるけるける。。。これこれこれををを待待まちちち受受うけけけててて見見み給給たまひひいけるけるける北北きたののの方方かたののの心心こころののの中中うち、、、推推おししし量量はかららられれれてててあはれあはれあわれなりなりなり。。。首首くびをををばばば大大だい佛佛ぶつののの聖聖ひじり俊俊しゅん乘乘じょう坊坊ぼうにににかくかくかくとととのたまへのたまへのたまえばばば、、、大大だい衆衆しゅににに請請こい受受うけけけててて、、、やがてやがてやがて日日ひ野野のへへへぞぞぞ送送おくららられれれけるけるける。。。さてさてさてしもしもしもあるあるあるべきべきべき事事ことならならならねねねばばば、、、そのそのその邊邊へん近近ちかききき法法ほう界界かい寺寺じととといふいふいう山山やま寺寺でらににに入入いれれれ奉奉たてまつりりり、、、首首くびももも骸骸むくろももも煙煙けぶりににになしなしなし、、、骨骨こつをををばばば高高こう野野やへへへ送送おくりりり、、、墓墓はかをををばばば日日ひ野野のにににぞぞぞせせせられられられけるけるける。。。北北きたののの方方かたやがてやがてやがて樣樣さまをををかへかへかへ、、、濃濃こききき墨墨すみ染染ぞめにににやつれやつれやつれはてはてはてててて、、、かのかのかの後後ご世世せ菩菩ぼ提提だいををを弔弔とぶらひひい給給たまふふうぞぞぞあはれあはれあわれなるなるなる。。。
現代語訳
さて本三位中将重衡卿は狩野介宗茂に預けられて、去年から伊豆国におられたが、南都の大衆がしきりに求めたので、それでは引き渡そうということになって、源三位入道(頼政)の孫の伊豆蔵人大夫頼兼に命じて、ついに奈良へ渡された。今度は都の中には入れられず、大津から山科通りに、醍醐路を経て行くと、日野は近かった。
この北の方というのは、鳥飼中納言維実の娘で、五条大納言国綱の養女、先帝(安徳天皇)の御乳母の大納言佐局と申した。中将が一の谷で生け捕りにされた後は、先帝にお付き申しておられたが、帝が壇の浦で海に沈まれたので、荒々しい武士に捕らわれて故郷に帰り、姉の大夫三位と同居して、日野という所におられた。三位中将の露のような命が草葉の末にかかって、まだ消えずにおられると聞かれて、ああどうにかして、変わらない姿をもう一度見もし見られもしたいと思われたが、それもかなわないので、ただ泣くよりほかの慰めもなく、日を明かし暮らしておられた。
三位中将が守護の武士たちにおっしゃるには、「それにしてもこのごろ、おのおのが情け深く心をかけてくれたことは、ありがたくうれしい。同じことなら最後にもう一度、恩を受けたいことがある。私には子が一人もいないので、この世に思い残すことはない。長年連れ添った女房が日野という所にいると聞く。もう一度対面して、後世のことを言い置きたいと思うがどうだろう」とおっしゃると、武士たちも岩や木ではないので、みな涙を流して、「本当に女房などのことなら、何の差しつかえがありましょう。早くお行きなさい」といってお許し申した。
三位中将はたいそう喜んで、「こちらに大納言佐局がおいででしょうか。本三位中将殿がただ今奈良へお通りになりますが、立ったままでお目にかかりたいとのことです」と、人を入れて言わせられたので、北の方は「どこに、どこに」といって走り出てご覧になると、藍摺の直垂に折烏帽子を着た男で、やせて黒ずんだ人が縁に寄りかかっているのがその人であった。北の方は御簾の際近くに出て、「まあ、夢か現か。こちらへお入りなさい」とおっしゃった。そのお声を聞かれるにつけても、ただ先立つものは涙である。大納言佐殿は目もくらみ、心も消えはてて、しばらくは何もおっしゃれない。三位中将は御簾を頭からかぶるようにして、泣く泣くおっしゃるには、「去年の春、摂津国一の谷でどうにでもなるはずだった身が、せめてもの罪の報いなのか、生きながら捕らわれて、京・鎌倉で恥をさらしたばかりか、はては南都の大衆の手に渡されて、斬られるために参るのです。ああ、どうにかして変わらない姿をもう一度見もし、見せ申したいと思っていたので、今はもうこの世に思い残すことはない。ここで頭を剃って形見に髪を差し上げたいのですが、このような身になってしまったので、心のままにもなりません」といって、額の髪をかき分けて、口の届く所を少し食い切って、「これを形見としてご覧ください」といって差し上げられると、北の方は日ごろの気がかりにもまして、いっそう思いが深まったのであろうか、衣を引きかぶって伏してしまわれた。
しばらくして北の方が涙をおさえておっしゃるには、「二位殿や越前三位(通盛)の奥方のように、水の底にも沈むはずでしたが、あなたがこの世にいらっしゃらないとはっきり聞いたわけでもなかったので、変わらない姿をもう一度見もし見られもしたいと思ってこそ、つらいながら今日まで生き長らえてきたのです。今まで生き長らえたのは、もしやと思う頼みもあったからですのに、それでは今日が最後でいらっしゃるのですね」といって、昔のことや今のことを語り合われるにつけても、ただ尽きないものは涙である。北の方が「あまりにお姿がしおれていますから、お着替えなさい」といって、袷の小袖に浄衣を添えて出された。中将はこれに着替えながら、もとの装束を「これも形見にご覧ください」といって差し上げられると、北の方は「それもそうですが、はかない筆の跡こそ、後の世までの形見となります」といって、御硯を出された。中将は泣く泣く一首の歌をお書きになった。
(こらえきれずに涙のかかる唐衣を、後の形見として脱ぎ替えることだ)
北の方の返事に、
(脱ぎ替えた衣も今は何になりましょう。今日を限りの形見と思うと)
「縁があるなら、後の世では必ず生まれ合い申しましょう。同じ蓮の上にと祈ってください。日も高くなった。奈良へも遠いので、武士たちが待っているのも気の毒だ」といって出て行かれると、北の方は中将の袂にすがって、「まあ、もう少し」といって引きとめられたので、中将は「心の中を推し量ってください。けれどもどのみち生き長らえられる身ではない」といって、思い切って立たれた。本当にこの世で会うのもこれが最後と思われたので、もう一度引き返したくは思われたが、心弱くてはいけないと思って、思い切って出て行かれた。北の方は御簾の外までころび出て、泣き叫ばれるお声が門の外まで遠く聞こえたので、中将は涙にくれて行く先も見えず、馬を急がせることもなさらない。かえってつらい対面であったと、今は悔やまれた。北の方もすぐに走り出ていきたいと思われたが、それもさすがにできないので、衣を引きかぶって伏してしまわれた。
やがて南都の大衆は三位中将を受け取り申して、どうしようかと評議した。「そもそもこの重衡卿は大罪の悪人であるうえ、三千五刑の中にもあてはまるものがないほどで、因果の道理ははっきりしている。仏敵・法敵の逆臣だから、東大寺・興福寺両寺の大垣のまわりを引き回して、首だけ出して土に埋め鋸で引くべきか、また鋸で切るべきか」と評議した。老僧たちが評議して言うには、「それも僧徒の法としては穏やかでない。ただ武士に渡して、木津のあたりで斬らせるべきだ」といって、ついに武士の手に返された。武士はこれを受け取って、木津川のほとりで斬り申そうとしたところ、数千人の大衆・守護の武士・見物人が幾千万とも数えきれないほど集まった。
ここに三位中将の長年の侍で、木工右馬允知時という者がいた。八条女院にも兼ねて仕えていたが、ご最期を見届け申そうと、鞭を打って馳せてきた。今にも斬り申そうとするところに駆けつけ、急いで馬から飛び降りて、千万人が取り囲んでいる中を押し分け押し分け、三位中将のおそば近くに参って、「知時が、ご最期をお見届けしようと参りました」と申したので、中将は「その志はまことに殊勝だ。どうだ知時、あまりに罪深く思われるので、最後に仏を拝み申してから斬られたいと思うがどうだろう」とおっしゃると、知時は「たやすいことです」といって、守護の武士と相談して、近くの里から仏を一体お迎え申してきた。幸いにも阿弥陀仏であった。河原の砂の上にお据え申し、知時の狩衣の袖のくくり紐を解いて仏の御手にかけ、中将に引いて持たせ申した。
中将はこれを引きながら、仏に向かい申して申されるには、「伝え聞くところでは、調達(提婆達多)は三逆罪を犯し、八万蔵の聖教を焼き滅ぼし申したが、ついには天王如来となる予言を受けた。犯した罪業はまことに深いけれども、聖教に出会った逆縁が朽ちずに、かえって悟りの因となったのである。今重衡が逆罪を犯したことは、まったく自分の考えから起こしたのではない。ただ世のならいに従っただけである。生を受けた者で、誰が王命をないがしろにできよう。命を保つ者で、誰が父の命にそむけよう。あれといいこれといい、辞退のしようがなかった。理非は仏陀のご照覧にある。それなのに罪の報いはたちどころに現れ、運命はもう今を限りとなった。後悔は千万、悲しんでもなお余りある。けれども三宝の世界は慈悲心をもって心とするので、救いの縁はさまざまである。『唯円教意、逆即是順』、この文を肝に銘じている。『一念弥陀仏、即滅無量罪』。どうか逆縁をもって順縁とし、ただ今の最後の念仏によって、九品の浄土に生まれることを遂げさせてください」といって、首を差し伸べて討たせられた。日ごろの悪行はともかくとして、今のご様子を見申すと、数千人の大衆も守護の武士たちも、みな鎧の袖を濡らした。首は般若寺の門前に釘付けにされた。
これは去る治承の合戦のとき、ここに陣を立てて伽藍を焼き滅ぼされたからだと聞こえた。北の方はこのことを聞かれて、「たとえ首は刎ねられても、亡骸はきっと捨て置かれているでしょう。引き取って供養しよう」といって、輿を迎えに遣わされたところ、やはり亡骸は河原に捨て置かれていた。これを受け取って輿に入れ、日野へかついで帰った。昨日まではあれほど立派でいらしたのに、このように暑いころなので、いつのまにか見るかげもない様子になっておられた。これを待ち受けてご覧になった北の方の心の中は推し量られて哀れである。首は大仏の聖俊乗房(重源)にこうと頼まれたので、大衆に請い受けて、すぐに日野へ送られた。そうしてばかりもいられないので、近くの法界寺という山寺に入れ申して、首も亡骸も荼毘に付し、骨は高野山へ送り、墓は日野に作られた。北の方はすぐに出家して、濃い墨染の衣にやつれはてて、重衡の後世菩提を弔われたのは哀れである。
意訳
南都焼き討ちの罪を負って奈良へ引き渡される重衡の最期を描く章段である。日野での北の方との別れは、額の髪を食い切って形見とする重衡と、涙ながらに衣を着替えさせる北の方の姿を通じて、夫婦の深い情愛を描き、物語の中でも屈指の哀切な場面となっている。
木津川で斬られる直前、重衡は仏の手に結んだ紐を握って、南都炎上は自分の意志ではなかったと述べ、逆縁を順縁として往生を願う。悪行の報いを受けながらも、最後の念仏によって救いを求める姿は、大衆や武士の涙を誘う。北の方が亡骸を引き取って弔う結びは、重衡の物語に静かな余韻を残している。
語釈・文法注
文法
- 「さらば遣はさるべし」
- それでは(南都へ)引き渡そう。
- 「縁に寄りゐたるぞそなりける」
- 縁に寄りかかっていたのがその人であった。
- 「御簾うちかづき」
- 御簾を頭にかぶるようにして、顔を寄せて。
- 「伏じ給ふ」
- 底本の本文。「伏し給ふ」の意。
- 「三千五刑の中にも洩れ」
- 三千条もある五刑の中にもあてはまるものがないほどの大罪。
- 「堀首」
- 首だけを出して体を土に埋め、鋸で首を引く刑。
- 「武士にたうで」
- 武士に渡して。「たうで」は「たびて」の音便。
- 「調達が三逆を作り」
- 調達(提婆達多)は釈迦を害そうとした悪人。法華経では天王如来になると授記される。
- 「記莂」
- 仏が弟子に将来成仏することを予言すること。
- 「唯圓教意、逆卽是順」
- 天台の円教の考えでは、逆縁もそのまま順縁である、の意。
- 「一念彌陀佛、卽滅無量罪」
- 一度阿弥陀仏を念ずれば、無量の罪がたちまち消える。
- 「日頃の惡行はさる事なれども。」
- 底本はここに句点を刷る。
和歌
せきかねて涙のかゝるから衣後のかたみにぬぎぞかへぬる
- 詠者
- 平重衡
- 状況
- 日野で北の方と最後の対面をし、浄衣に着替えて形見の装束を渡すときに詠んだ歌。
修辞
- から衣
- 唐衣。衣の美称で、脱ぎ替える衣をさす。
ぬぎかふる衣も今はなにかせむけふを限りのかたみと思へば
- 詠者
- 大納言佐局(重衡の妻)
- 状況
- 重衡の歌への返歌。
修辞
- けふを限りのかたみ
- 今日が最後の別れとなる形見の衣。
解説
平重衡は元暦二年(1185)六月二十三日、木津川のほとりで斬られた。二十九歳。京都府木津川市には重衡の首を洗ったという池と供養塔があり、京都市伏見区日野の法界寺近くには重衡の墓と伝える塚がある。北の方の大納言佐局(藤原輔子)はのちに建礼門院に仕え、大原で女院の最期を見送った。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、817–822頁(コマ437–440)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日