平家物語 巻第十一
大臣殿誅罰の事
頼朝は宗盛と対面し、比企能員を通じて、平家を私の敵とは思わないが、朝敵となったので院宣に従って迎えたと伝えた。宗盛が居ずまいを正してかしこまったのを、居並ぶ人々は、猛虎も檻に入れば尾を振ると嘆いた。義経の弁明は梶原の讒言のため聞き入れられず、宗盛父子は再び都へ送られることになった。宗盛は一日でも命が延びるのを喜んだ。六月二十三日、近江国篠原の宿で、父子は別々にされ、義経が招いた大原の湛豪が宗盛に念仏を勧めた。宗盛は最後まで子の清宗を案じ、「右衛門督ももう斬られたか」と問うて斬られた。清宗も父の最期を聞いて首を差し伸べた。二人の首は都の大路を渡され、獄門にかけられた。
- 1さるさるさる程程ほどににに鎌鎌かま倉倉くら殿殿どの、、、大臣殿大臣殿おおいどのににに對對たい面面めんありありあり。。。おはしおはしおわしけるけるける所所ところ、、、庭庭にはををを一一ひとつつつ隔隔へだてててててて、、、向向むかひひいなるなるなる屋屋やにににすゑすゑすえ奉奉たてまつりりり、、、簾簾すだれののの内内うちよりよりより見見み出出いだししし給給たまひひいててて、、、比比ひ企企きののの藤藤とう四四し郎郎ろう能能よし員員かずををを以以もっててて申申もうささされれれけるけるけるははは、、、「「「そも〳〵そも〳〵そもそも平平へい家家けををを賴賴より朝朝ともががが私私わたくしののの敵敵かたきとととははは、、、ゆめ〳〵ゆめ〳〵ゆめゆめ思思おもひひい奉奉たてまつらららずずず。。。そのそのその故故ゆえははは故故こ入入にゅう道道どう相相しょう國國こくののの御御おん許許ゆるささされれれ候候そうらははわずずずばばば、、、賴賴より朝朝ともいかでいかでいかでかかか助助たすかるかるかるべきべきべき。。。さてさてさてこそこそこそ二二に十十じゅう餘餘よ年年ねんまでまでまで罷罷まかりりり過過すぎぎぎ候候そうらひひいしかしかしか。。。されどもされどもされども朝朝ちょう敵敵てきとととならならならせせせ給給たまひひいててて後後のちははは、、、急急いそぎぎぎ追追つい討討とうすすすべきべきべき由由よしののの院院いん宣宣ぜんををを賜賜たまはつはつわっててて候候そうらへへえばばば、、、さささのみのみのみ王王おう地地じににに孕孕はらまままれれれててて、、、詔詔しょう命命めいををを背背そむくくくべきべきべきにににもももあらあらあらねねねばばば、、、これこれこれへへへ迎迎むかへへえ奉奉たてまつりりりたりたりたり。。。さりさりさりながらながらながらもももかやうかやうかようににに御御ご見見げん參參ざんににに入入いりりり候候そうらひひいぬるぬるぬる事事ことこそこそこそ、、、かへす〴〵かへす〴〵かえすがえすももも本本ほ意意いににに候候そうらへへえ。。。」」」とととぞぞぞ申申もうささされれれけるけるける。。。能能よし員員かずこのこのこの事事ことををを申申もうさささんんんとととててて、、、大臣殿大臣殿おおいどのののの御御おん前前まえへへへ參參まいつつったりたりたりけれけれければばば、、、居居い直直なおりりり畏畏かしこまりまりまり給給たまふふうぞぞぞ口口くち惜惜おしきしきしき。。。
- 2諸諸しょ國國こくののの大大だい名名みょう、、、小小しょう名名みょう多多おおううう竝竝なみみみゐゐいたりたりたりけるけるける中中なかににに、、、京京きょうののの者者ものいくらいくらいくらもももありありあり。。。又又また平平へい家家けののの家家け人人にんたつしたつしたつし者者ものもももありありあり。。。皆皆みな爪爪つま彈彈はじきききをををしししててて、、、「「「あなあなあないとほしいとほしいとおし、、、あのあのあの御御おん心心こころでででこそこそこそ斯斯かかるかるかる御御おん目目めにににもももあはあはあわせせせ給給たまへへえ。。。居居い直直なおりりり畏畏かしこまりまりまり給給たまひひいたれたれたればばばとてとてとて、、、今今いま更更さら御御おん命命いのちののの助助たすかりかりかり給給たまふふうべきべきべきかかか。。。西西さい國國こくにににててていかにいかにいかにもももなりなりなり給給たまふふうべきべきべき人人ひとののの、、、生生いきききながらながらながら捕捕とらははわれれれててて之之これまでまでまで下下くだりりり給給たまふふうももも理理ことわりなるなるなるかなかなかな。。。」」」ととといひいひいいけれけれければばば、、、げにげにげにもももととと申申もうすすす人人ひともももありありあり、、、またまたまた涙涙なみだををを流流ながすすす者者ものももも多多おおかりかりかりけりけりけり。。。そのそのその中中なかにににあるあるある人人ひとののの申申もうしししけるけるけるははは、、、「「「猛猛もう虎虎こ深深しん山山ざんににに在在あるるる時時ときははは、、、則則すなわちちち百百ひゃく獸獸じゅう震震ふるひひいおづおづおず。。。檻檻かん穽穽せいののの中中うちにににあるあるある時時ときははは、、、則則すなわちちち尾尾をををを振振ふつつっててて食食しょくををを求求もとむむむとてとてとて、、、猛猛たけききき虎虎とらののの深深み山山やまにににあるあるある時時ときははは、、、百百ももののの獸獸けだものおぢおぢおじ懼懼おそるるるととといへいへいえどもどもども、、、取取とつつっててて檻檻おりののの中中なかににに籠籠こめめめられられられててて後後のちははは、、、尾尾をををを振振ふつつっててて人人ひとににに向向むかぶぶぶらんらんらんやうやうようににに、、、いかにいかにいかに猛猛たけききき大大たい將將しょう軍軍ぐんももも運運うんつきつきつき、、、かくかくかくなりなりなりててて後後のちははは、、、心心こころかはるかはるかわるならひならひならいなれなれなればばば、、、このこのこの大臣殿大臣殿おおいどのもももさこそさこそさこそおはすおはすおわすにににややや。。。」」」ととと申申もうすすす人人ひと々々びともももありありありけるけるけるとととかやかやかや。。。
- 3判判ほう官官がんやう〳〵やう〳〵ようようににに陳陳ちんじじじ申申もうささされれれけれけれけれどもどもども、、、景景かげ時時ときががが讒讒ざん言言げんののの上上うえははは、、、鎌鎌かま倉倉くら殿殿どの更更さらににに用用もちゐゐい給給たまははわずずず。。。大臣殿大臣殿おおいどの父父ふ子子し具具ぐししし奉奉たてまつりりりててて、、、いそぎいそぎいそぎ上上しょう洛洛らくすすすべきべきべき由由よしのたまふのたまふのたまう間間あいだ、、、六六ろく月月がつ九九ここの日日かののの日日ひ、、、またまたまた大臣殿大臣殿おおいどの父父ふ子子し受受うけ取取とりりり奉奉たてまつつつっててて、、、都都みやこへへへ歸歸かえりりり上上のぼららられれれけりけりけり。。。大臣殿大臣殿おおいどのはははかやうかやうかようににに一一いち日日にちももも日日ひ數數かずののの延延のぶるぶるぶることことことををを、、、うれしきうれしきうれしき事事ことにににおぼしおぼしおぼしけるけるけるこそこそこそいとほしけれいとほしけれいとおしけれ。。。道道みちすがらすがらすがらももも、、、こゝこゝここにににてててや〳〵や〳〵ややととと想想おもははわれれれけれけれけれどもどもども、、、國國くに々々ぐに宿宿しゅく々々しゅく打打うち過過すぎ〳〵ぎ〳〵ぎうちすぎ通通とおりりりぬぬぬ。。。尾尾お張張はりののの國國くに内内うつ海海みととといふいふいう所所ところありありあり。。。これこれこれははは一一ひと年年とせ故故こ左左さ馬馬まののの頭頭かみ義義よし朝朝ともががが誅誅ちゅうせせせられられられししし所所ところなれなれなればばば、、、こゝこゝここにににてててぞぞぞ一一いち定定じょう斬斬きららられれれんんんずずずらんらんらんととと思思おもははわれれれけれけれけれどもどもども、、、そこそこそこをををももも遂遂ついににに過過すぎぎぎしかしかしかばばば、、、さてさてさてはははわがわがわが命命いのちののの助助たすからからからんんんずるずるずるにににこそこそこそととと思思おぼしししけるけるけるこそこそこそはかなけれはかなけれはかなけれ。。。右右う衞衞え門門もんののの督督かみはははさささははは思思おもひひい給給たまははわずずず。。。かやうかやうかようににに暑暑あつきききころころころなれなれなればばば、、、頸頸くびののの損損そんぜぜぜぬぬぬやうやうようにににはからひはからひはからいててて、、、都都みやこ近近ちこうううなりなりなりてててこそこそこそ斬斬きらららんんんずずずらめらめらめととと思思おもははわれれれけれけれけれどもどもども、、、父父ちちのののあまりあまりあまりににに歎歎なげききき給給たまふふうがががいたはしさいたはしさいたわしさににに、、、さささははは申申もうささされれれずずず、、、ひとへひとへひとえににに念念ねん佛佛ぶつをををのみのみのみぞぞぞすゝめすゝめすすめ申申もうささされれれけるけるける。。。
- 4同同おなじきじきじき廿廿にじゅう三三さん日日にち、、、近近おう江江みののの國國くに篠篠しの原原はらののの宿宿しゅくににに著著つききき給給たまふふう。。。昨日昨日きのうまでまでまでははは父父ふ子子し一一ひとつつつ所所ところににに在在おわせせせしかしかしかどもどもども、、、今今け朝朝さよりよりより引引ひき分分わつつっててて、、、別別べちののの所所ところにににすゑすゑすえ奉奉たてまつるるる。。。判判ほう官官がん情情なさけあるあるある人人ひとにににててて、、、三三みつ日日か路路じよりよりより人人ひとををを先先さき立立だてててててて善善ぜん知知ち識識しきののの爲爲ためにににとてとてとて、、、大大おお原原はらののの本本ほん性性しょう房房ぼう湛湛たん豪豪ごうととと申申もうすすす聖聖ひじりををを請請しょうじじじくださくださくだされれれたりたりたり。。。大臣殿大臣殿おおいどの、、、善善ぜん知知ち識識しきののの聖聖ひじりににに向向むかひひいててて、、、のたまひのたまひのたまいけるけるけるははは、、、「「「さてさてさてももも右右う衞衞え門門もんののの督督かみはははいづくいづくいずくににに候候そうろうやらんやらんやらん。。。たとひたとひたとい首首くびははは刎刎はねねねらるゝらるゝらるるともともとも、、、軀軀むくろははは一一ひとつつつ席席むしろににに伏伏ふさささんんんとととこそこそこそ思思おもひひいしししににに、、、生生いきききながらながらながら別別わかれれれぬるぬるぬる事事ことこそこそこそ悲悲かなしけれしけれしけれ。。。このこのこの十十じゅう七七しち年年ねんががが間間あいだ、、、一一いち日日にち片片へん時時じももも離離はなれれれずずず、、、今今こん度度ど西西さい國國こくにににててていかにいかにいかにもももなるなるなるべかりべかりべかりししし身身みののの、、、生生いきききながらながらながら捕捕とらははわれれれててて京京きょう、、、鎌鎌かま倉倉くら、、、恥恥はじをををさらすさらすさらすももも、、、ひとへひとへひとえにににあのあのあの右右う衞衞え門門もんののの督督かみ故故ゆえなりなりなり。。。」」」とととててて泣泣なかかかれれれけれけれければばば、、、聖聖ひじりもももあはれあはれあわれににに思思おもははわれれれけれけれけれどもどもども、、、われわれわれさへさへさへ心心こころ弱弱よおうううてててはははかなはかなはかなわじじじとととややや思思おもははわれれれけんけんけん、、、涙涙なみだおしおしおし拭拭のごひひい、、、さらさらさらぬぬぬ體體ていにににもてなしもてなしもてなし、、、「「「あはれあはれあわれ高高たかきききももも賤賤いやしきしきしきももも、、、恩恩おん愛愛あいののの道道みちははは思思おもひひい切切きららられれれぬぬぬ事事ことにににててて候候そうらへへえばばば、、、まことまことまことにににさこそさこそさこそははは思思おぼし召召めささされれれ候候そうろうらめらめらめ。。。生生しょうををを受受うけけけさせさせさせ給給たまひひいてててよりよりよりこのこのこのかたかたかた、、、樂樂たのしみしみしみ榮榮さかえええ、、、昔昔むかしもももたぐひたぐひたぐい候候そうらははわずずず。。。一一いっ天天てんののの君君きみののの御御ご外外がい戚戚せきとととしししててて、、、丞丞しょう相相じょうののの位位くらいににに至至いたらららせせせ給給たまへへえばばば、、、今今こん生生じょうののの御御ご榮榮えい華華が、、、一一いち事事じももも殘殘のこるるる所所ところましまさましまさましまさずずず。。。今今いままたまたまた斯斯かかるかるかる御御おん目目めにににあひあひあい給給たまふふう御御おん事事ことももも先先せん世世ぜののの宿宿しゅく業業ごうなれなれなればばば、、、世世よをををももも人人ひとをををももも、、、神神かみをををももも佛佛ほとけをををももも、、、恨恨うらみみみ思思おぼし召召めすすすべからべからべからずずず。。。大大だい梵梵ぼん王王おう宮宮ぐうののの深深しん禪禪ぜん定定じょうののの樂樂たのしみしみしみ、、、思思おもへへえばばば程程ほどなしなしなし。。。況況いわんんんややや電電でん光光こう朝朝ちょう露露ろののの下下げ界界かいののの命命いのちにににおいおいおいてててをををややや。。。忉忉とう利利り天天てんののの億億おく千千せん歳歳さい、、、唯唯ただ夢夢ゆめののの如如ごとししし。。。三三さん十十じゅう九九く年年ねんををを過過すぎぎぎさせさせさせ給給たまひひいけんけんけんももも、、、僅僅わずかににに一一いち時時じののの間間あいだなりなりなり。。。誰誰たれかかか嘗嘗なめめめたりたりたりししし不不ふ老老ろう不不ふ死死しののの藥藥くすり、、、誰誰たれかかか保保たもちちちたりたりたりけんけんけん東東とう父父ぶ西西せい母母ぼののの命命いのち、、、秦秦しんののの始始し皇皇こうののの驕驕おごりををを極極きわめめめ給給たまひひいしししももも、、、遂遂ついにににははは驪驪り山山ざんののの塚塚つかににに埋埋うずもれもれもれ、、、漢漢かんののの武武ぶ帝帝ていののの命命いのちををを惜惜おしみしみしみ給給たまひひいけんけんけんももも、、、空空むなしくしくしく杜杜と陵陵りょうののの苔苔こけににに朽朽くちちちにににききき。。。生生しょうあるあるある者者ものははは必必かならずずず滅滅めつすすす。。。釋釋しゃく尊尊そん未未いまだだだ栴栴せん檀檀だんののの煙煙けぶりををを免免まぬかれれれ給給たまははわずずず。。。樂樂たのしみしみしみ盡盡つきききててて悲悲かなしみしみしみ來來きたるるる。。。天天てん人人にん猶猶なお五五ご衰衰すいののの日日ひにににあへあへあえりりりとととこそこそこそ承承うけたまわれれれ。。。されされさればばば佛佛ほとけははは、、、「「「我我が心心しん自自じ空空くう、、、罪罪ざい福福ふく無無む主主しゅ、、、觀觀かん心心じん無無む心心しん、、、法法ほう不不ふ住住じゅう法法ほう。。。」」」とととててて、、、善善ぜんももも惡惡あくももも空空くうなりなりなりととと觀觀かんずるずるずるががが、、、正正まさしうしうしゅう佛佛ほとけののの御御おん心心こころににに相相あい合合かなふふう事事ことにににててて候候そうろうなりなりなり。。。いかなれいかなれいかなればばば彌彌み陀陀だ如如にょ來來らいははは五五ご劫劫こうががが間間あいだ思思し惟惟ゆいしししててて、、、起起おこししし難難がたききき願願がんををを發發おこししし坐坐ましますすすににに、、、いかなるいかなるいかなる我我われ等等らなれなれなればばば、、、億億おく々々おく萬萬まん劫劫ごうががが間間あいだ生生しょう死死じににに輪輪りん廻廻えしししててて、、、寶寶たからののの山山やまににに入入いりりりててて手手てををを空空むなしうしうしゅうせせせんんん事事こと、、、怨怨うらみみみののの中中なかののの怨怨うらみみみ、、、愚愚おろかかかなるなるなるががが中中なかののの口口くち惜惜おしきしきしき事事ことにににてててははは候候そうらははわずずずややや。。。今今いまははは努努ゆめ々々ゆめ餘餘よ念念ねんををを思思おぼし召召めすすすべからべからべからずずず。。。」」」とととててて戒戒かい保保たもたたたせせせ奉奉たてまつりりり、、、頻頻しきりりりににに念念ねん佛佛ぶつををを勸勸すすめめめ奉奉たてまつれれればばば、、、大臣殿大臣殿おおいどのももも然然しかるるるべきべきべき善善ぜん知知ち識識しきととと思思おぼし召召めししし、、、忽忽たちまちちちににに妄妄もう念念ねんををを飜飜ひるがえししし、、、西西にしににに向向むかひひい手手てををを合合あははわせせせ、、、高高こう聲聲じょうににに念念ねん佛佛ぶつししし給給たまふふう所所ところににに、、、橘橘きっ右右う馬馬まののの允允じょう公公きん長長なが、、、太太た刀刀ちををを引引ひきききそばめそばめそばめ、、、左左ひだりののの方方かたよりよりより大臣殿大臣殿おおいどのののの御御おん後後うしろににに立立たち廻廻まわりりり、、、既既すでににに斬斬きりりり奉奉たてまつらららんんんとととしししけれけれければばば、、、大臣殿大臣殿おおいどの念念ねん佛佛ぶつををを止止とどめめめててて、、、「「「右右う衞衞え門門もんののの督督かみももも既既すでにににかかか。。。」」」ととと宣宣のたまひひいけるけるけるこそこそこそあはれあはれあわれなれなれなれ。。。公公きん長長なが後後うしろへへへ寄寄よるるるかかかととと見見みえええしかしかしかばばば、、、首首くびははは前前まえへへへぞぞぞ落落おちちちにににけるけるける。。。善善ぜん知知ち識識しきののの聖聖ひじりももも涙涙なみだにににむせびむせびむせび、、、猛猛たけききき武武もの士士のうどもどもどもももも皆皆みな袖袖そでをををぞぞぞ濡濡ぬらしらしらしけるけるける。。。このこのこの公公きん長長ながととと申申もうすすすははは平平へい家家け相相そう傳傳でんののの家家け人人にんにににててて、、、なかんづくなかんづくなかんずく新新しん中中ちゅう納納な言言ごん知知とも盛盛もりののの卿卿きょうのののもともともとににに、、、朝朝ちょう夕夕せき伺伺し候候こうののの侍侍さぶらいなりなりなり。。。さこそさこそさこそ世世よををを諂諂へつらふふうならひならひならいとととはははいひいひいいながらながらながら、、、無無む下下げににになさけなさけなさけ無無なかりかりかりけるけるける者者ものかなかなかなとととぞぞぞ、、、人人ひとみなみなみな慙慙ざん愧愧ぎしししけるけるける。。。
- 5右右う衞衞え門門もんののの督督かみにににもももまたまたまた、、、先先さきののの如如ごとくくく戒戒かい保保たもたたたせせせ奉奉たてまつりりり、、、念念ねん佛佛ぶつ勸勸すすめめめ申申もうささされれれけりけりけり。。。右右う衞衞え門門もんののの督督かみ、、、善善ぜん知知ち識識しきののの聖聖ひじりににに向向むかひひいてててのたまひのたまひのたまいけるけるけるははは、、、「「「さてさてさてももも父父ちちののの御御ご最最さい後後ごははは、、、いかゞいかゞいかがまし〳〵まし〳〵ましまし候候そうらひひいつるつるつるやらんやらんやらん。。。」」」とととのたまへのたまへのたまえばばば、、、「「「めでたうめでたうめでとうまし〳〵まし〳〵ましまし候候そうらひひいつるつるつる。。。御御おん心心こころ安安やすくくく思思おぼし召召めささされれれ候候そうらへへえ。。。」」」ととと申申もうささされれれけれけれければばば、、、右右う衞衞え門門もんののの督督かみ、、、「「「今今いまはははうきうきうき世世よににに思思おもひひい置置おくくく事事ことなしなしなし。。。さらばさらばさらば斬斬きれれれ。。。」」」とととててて、、、頸頸くびををを延延のべべべてててぞぞぞ斬斬きらららせせせらるらるらる。。。今今こん度度どははは堀堀ほりののの彌彌や太太た郎郎ろう親親ちか經經つね切切きつつってててけりけりけり。。。軀軀むくろをををばばば公公きん長長ながががが沙沙さ汰汰たとととしししててて、、、父父ふ子子し一一ひとつつつ穴穴あなにににぞぞぞ埋埋うずみみみけるけるける。。。これこれこれははは大臣殿大臣殿おおいどののののあまりあまりあまりににに罪罪つみ深深ふこううう宣宣のたまひひいけるけるけるににに依依よつつってててなりなりなり。。。
- 6同同おなじきじきじき二二に十十じゅう四四よっ日日か、、、大臣殿大臣殿おおいどの父父ふ子子しののの首首くび都都みやこへへへ入入いるるる。。。檢檢けん非非び違違い使使しどもどもども三三さん條條じょう河河かわ原原らににに出出いででで向向むかつつっててて、、、これこれこれををを受受うけ取取とりりり、、、三三さん條條じょうををを西西にしへへへ、、、東東ひがしののの洞洞とう院院いんををを北北きたへへへ渡渡わたしししててて、、、獄獄ごく門門もんののの左左ひだりののの棟棟おうちののの木木きにににぞぞぞかけかけかけられられられけるけるける。。。昔昔むかしよりよりより三三さん位位み以以い上上じょうののの人人ひとののの首首くび、、、大大おお路路じををを渡渡わたさささるゝるゝるる事事こと、、、異異い國國こくにににはははそのそのその例例れいもももやややあるあるあるらんらんらん、、、わがわがわが朝朝ちょうにににははは未未いまだだだ先先せん蹤蹤じょうををを聞聞きかかかずずず。。。平平へい治治じにににももも信信のぶ賴賴よりののの卿卿きょうはははさばかりさばかりさばかりののの惡惡あく行行ぎょう人人にんたりたりたりしかしかしかばばば、、、首首こうべをををばばば刎刎はねねねられられられたれたれたれどもどもども、、、大大おお路路じをををばばば渡渡わたささされれれずずず、、、平平へい家家けににに取取とつつってててぞぞぞ渡渡わたささされれれけるけるける。。。西西さい國國こくよりよりより上上のぼりりりてててははは、、、生生いきききててて六六ろく條條じょうををを東東ひがしへへへ渡渡わたささされれれ、、、東東とう國國ごくよりよりより歸歸かえりりりてててははは、、、死死ししししててて三三さん條條じょうををを西西にしへへへ渡渡わたさささるるる。。。生生いきききてててののの恥恥はじ、、、死死しにににてててののの辱辱はじ、、、いづれいづれいずれももも劣劣おとらららざりざりざりけりけりけり。。。
現代語訳
やがて鎌倉殿は大臣殿と対面された。ご自分のおられる所から庭を一つ隔てた向かいの建物に大臣殿をお据え申し、簾の内からご覧になって、比企藤四郎能員を通じて申されるには、「そもそも平家を頼朝の私の敵とは、決して思い申していません。そのわけは、故入道相国のお許しがなかったら、頼朝はどうして助かったでしょう。それで二十余年まで生き長らえてきたのです。けれども朝敵となられてからは、急いで追討せよとの院宣をいただきましたので、この国に生まれて詔命にそむくわけにもいかず、ここへお迎え申したのです。とはいえ、このようにお目にかかれたことは、かえすがえすも本意でございます」と申された。能員がこのことを申そうとして大臣殿の御前に参ったところ、大臣殿が居ずまいを正してかしこまられたのは情けないことであった。
諸国の大名・小名が大勢居並んでいた中には、京の者もたくさんいた。また平家の家人だった者もいた。みな爪はじきをして、「ああお気の毒に。あのようなお心だからこそ、このような目にもおあいになるのだ。居ずまいを正してかしこまられたからといって、今さらお命が助かるだろうか。西国でどうにでもなられるはずの人が、生きながら捕らわれてここまで下ってこられたのも、もっともなことだ」と言ったので、なるほどと申す人もあり、また涙を流す者も多かった。その中である人が申すには、「『猛虎深山に在る時は、則ち百獣震ひおづ。檻穽の中にある時は、則ち尾を振つて食を求む』といって、猛き虎が深山にいるときは、百の獣が恐れおののくけれども、捕らえられて檻の中に閉じこめられてからは、尾を振って人に媚びるように、どんなに猛き大将軍でも、運が尽きてこうなってからは心が変わるものだから、この大臣殿もそうなのであろうか」と申す人々もいたということである。
判官はいろいろと弁明申されたが、景時の讒言があったうえは、鎌倉殿はまったくお聞き入れにならない。大臣殿父子を連れて急いで上洛せよとおっしゃったので、六月九日、また大臣殿父子を受け取り申して、都へ帰り上られた。大臣殿がこのように一日でも日数が延びることをうれしくお思いになったのは哀れである。道中も、ここで斬られるか、ここでかと思われたが、国々や宿々を次々と過ぎて通っていった。尾張国に内海という所がある。ここは先年、故左馬頭義朝が誅された所なので、ここで必ず斬られるだろうと思われたが、そこも過ぎたので、さてはわが命は助かるのだと思われたのははかないことであった。右衛門督はそうは思われない。このように暑いころなので、首が傷まないように計らって、都の近くになってから斬るのだろうと思われたが、父があまりに嘆かれるのがおいたわしくて、そうとは申されず、ひたすら念仏ばかりをおすすめ申された。
同じく二十三日、近江国篠原の宿に着かれた。昨日までは父子一つ所におられたが、今朝から引き離して、別々の所にお据え申した。判官は情けある人で、三日の道のりの所から人を先立てて、善知識のためにといって、大原の本性房湛豪という聖を招き下されていた。大臣殿が善知識の聖に向かっておっしゃるには、「それにしても右衛門督はどこにいるのでしょう。たとえ首は刎ねられても、亡骸は一つ筵に伏そうと思っていたのに、生きながら別れてしまったのが悲しい。この十七年の間、一日片時も離れず、今度西国でどうにでもなるはずだった身が、生きながら捕らわれて京・鎌倉で恥をさらすのも、ひとえにあの右衛門督のためなのです」といって泣かれたので、聖も哀れに思われたが、自分まで心弱くてはいけないと思われたのか、涙を押しぬぐい、何気ない様子をよそおって、「まことに身分の高い者も低い者も、親子の情は断ちきれないものですから、本当にそうお思いになるでしょう。お生まれになってからこのかた、楽しみ栄えたことは昔にも例がありません。天子の御外戚として大臣の位に至られたのですから、今生のご栄華に一つも思い残すことはおありになりません。今またこのような目におあいになるのも前世の宿業ですから、世をも人をも、神をも仏をもお恨みになってはなりません。大梵天王宮の深い禅定の楽しみも、思えばわずかの間です。まして稲妻や朝露のようにはかない下界の命はなおさらです。忉利天の億千歳も、ただ夢のようです。三十九年を過ごされたのも、わずか一時の間です。誰が不老不死の薬をなめたでしょう。誰が東父西母のような長寿を保ったでしょう。秦の始皇帝が驕りを極められたのも、ついには驪山の塚に埋もれ、漢の武帝が命を惜しまれたのも、むなしく杜陵の苔の下に朽ちてしまいました。生ある者は必ず滅びます。釈尊でさえ栴檀の薪の煙を免れられませんでした。楽しみが尽きれば悲しみが来ます。天人でさえ五衰の日にあうと聞いております。だから仏は『我心自空、罪福無主、観心無心、法不住法』といって、善も悪も空であると観ずることが、まさに仏のお心にかなうことなのです。どうして阿弥陀如来は五劫の間思惟して、起こしがたい願を起こされたのに、どういう我らであれば、億々万劫の間生死に輪廻して、宝の山に入りながら手をむなしくして帰ることになるのでしょう。それこそ恨みの中の恨み、愚かさの中でも口惜しいことではありませんか。今は決して余念をお持ちになってはなりません」といって戒を授け申し、しきりに念仏をおすすめ申すと、大臣殿もよい善知識だとお思いになって、たちまち妄念をひるがえし、西に向かって手を合わせ、高声に念仏しておられるところに、橘右馬允公長が太刀を脇に引きつけ、左の方から大臣殿の後ろに回って、今にも斬り申そうとしたので、大臣殿は念仏を止めて、「右衛門督ももう斬られたのか」とおっしゃったのは哀れである。公長が後ろへ寄るかと見えたとたん、首は前へ落ちた。善知識の聖も涙にむせび、猛き武士たちもみな袖を濡らした。この公長というのは平家代々の家人で、とりわけ新中納言知盛卿のもとに朝夕仕えていた侍である。いかに世に媚びるのがならいとはいえ、まったく情けのない者だと、人はみな恥ずべきことと思った。
右衛門督にもまた先のように戒を授け申し、念仏をおすすめ申された。右衛門督が善知識の聖に向かっておっしゃるには、「それにしても父の御最期はどのようでいらっしゃいましたか」とおっしゃると、「みごとでいらっしゃいました。ご安心なさいませ」と申されたので、右衛門督は「今はもう憂き世に思い残すことはない。それでは斬れ」といって、首を差し伸べて斬らせられた。今度は堀弥太郎親経が斬った。亡骸は公長が取りはからって、父子を一つの穴に埋めた。これは大臣殿があまりに罪深いことをおっしゃったからである。
同じく二十四日、大臣殿父子の首が都に入った。検非違使たちが三条河原に出向いてこれを受け取り、三条を西へ、東洞院を北へ渡して、獄門の左の楝の木に掛けられた。昔から三位以上の人の首が大路を渡されることは、異国にはその例もあるのだろうが、わが国ではまだ前例を聞かない。平治の乱でも信頼卿はあれほどの悪人であったから首を刎ねられたけれども、大路を渡されはしなかったのに、平家に限って渡されたのである。西国から上ったときは生きて六条を東へ渡され、東国から帰ったときは死んで三条を西へ渡された。生きての恥、死んでの辱め、どちらも劣らないものであった。
意訳
巻第十一を締めくくる宗盛の最期である。頼朝の前でかしこまる宗盛を、猛虎も檻に入れば尾を振ると評する人々の言葉は辛辣だが、斬られる間際まで子の清宗を案じて「右衛門督も既にか」と問う姿には、父としての深い情が表れている。
湛豪の説法は、栄華の極みもはかない夢にすぎないと説いて宗盛を念仏へ導き、平家の栄華と滅亡の物語全体に通じる無常の思想を語る。首が大路を渡され獄門にかけられる結末は、三位以上の者としては前例のない恥辱として、平家の没落の悲惨さを強く印象づけている。
語釈・文法注
文法
- 「見出し給ひて」
- 内から外をご覧になって。
- 「さのみ王地に孕まれて」
- この国に生まれた身として、それほどまでに。
- 「居直り畏まり給ふ」
- 座り直してかしこまられた。敵の使いに対してへりくだったこと。
- 「家人たつし者」
- 家人であった者。
- 「猛虎深山に在る時は…」
- 司馬遷「任少卿に報ずる書」の句。
- 「檻穽」
- 獣を捕らえる檻と落とし穴。
- 「三日路より人を先立てて」
- 三日の道のりの所から、先に人を遣わして。
- 「東父西母」
- 東王父と西王母。長寿の仙人。
- 「釋尊未だ栴檀の煙を免れ給はず」
- 釈迦も入滅して栴檀の薪で荼毘に付された。
- 「五衰」
- 天人が死ぬ前に現れる五つの衰えの相。
- 「我心自空…法不住法」
- 『観普賢経』の句。わが心はもとより空であり、罪も福も主がない。
- 「五劫が間思惟して」
- 阿弥陀仏が法蔵菩薩のとき、五劫の間思惟して本願を立てたという。
- 「棟の木」
- 楝(おうち)。センダンの古名。獄門の前にあった。
解説
平宗盛は元暦二年(1185)六月二十一日、近江国篠原で斬られた。三十九歳。子の清宗も同じ日に斬られた(『吾妻鏡』)。滋賀県野洲市には宗盛父子の首洗い池と胴塚が伝わる。巻第十一はこの宗盛父子の最期で終わり、巻第十二では重衡の処刑や大地震、六代の物語へと続く。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、812–816頁(コマ435–437)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日